唯信鈔文意 (8)
ここからは、「具三心者必生彼国」「不得外現賢善精進之相」「不簡破戒罪根深」について解説する。これは親鸞が「三心釈」に関係する語句について法然の教義を承けつつも独自の解釈を展開したものである。それぞれの出拠は以下の通りである。
① 「具三心者必生彼国」
『仏説観無量寿経』(以下 『観経』)の三心を引用して、『往生礼讃』の三心釈へ
② 「不得外現賢善精進之相」
『観経疏』「散善義」の「至誠心釈」
③ 「不簡破戒罪根深」
『唯信鈔』の「深心釈」に引用される『五会法事讃』
① 具三心者必生彼国
「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生・辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.713-714より)
【親鸞の語句註釈】
- 必 → かならず
- 得 → うる(往生をうる)
- 若 → もし・ごとし
- 少 →か くる・すくなし
- 即 → すなはち
- 不得生 → 生まるることをえず
【現代語訳】
『観無量寿経』に「具三心者必生彼国(三心を具するものは、かならずかの国に生ず)」と説かれているのは、三心をそなえれば必ず阿弥陀仏の浄土に生れるというのである。そこで善導大師は『往生礼讃』に、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生(この三心を具してかならず往生を得るなり。もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず)」といわれている。「具此三心」というのは、至誠心・深心・回向発願心の三心をそなえなければならないというのである。「必得往生」というのは、「必」は「かならず」ということであり、「得」は「える」ということである。「える」というのは、往生することができるというのである。「若少一心」というのは、「若」は「もし」ということであり、「ごとし」ということである。「少」は「かける」ということであり、「すくない」ということである。一心が欠けたなら浄土に生れることはできないというのである。一心が欠けるというのは、信心が欠けるということである。信心が欠けるというのは、『無量寿経』の本願に誓われている真実の信心が欠けることである。『観無量寿経』の三心を得た後に『無量寿経』の真実の信心を得ることを、一心を得るというのである。このようなわけで『無量寿経』の信心を得ないことを、一心が欠けるというのである。この一心が欠けたなら真実の浄土に生れることはできないというのである。『観無量寿経』の三心は定善・散善を修める自力のものの心であって、そのような自力の心をあらためて、『無量寿経』の真実の信心を得させようと願う方便の深心と至誠心であると知らなければならない。真実の信心を得ないから、「即不得生」というのである。「即」はそのままでということであり、「不得生」というのは生れることができないということである。信心が欠けているので、そのままでは真実の浄土に生れることはできないというのである。さまざまな行を修めて浄土に往生しようとする自力のものは、他力の信心が欠けている。そのため、生れ変わり死に変わりしてはかり知れない時を経て、他力の一心を得た後に真実の浄土に生れることができる。だから、そのままで生れることはできないというのである。たとえ胎宮や辺地などといわれる方便の浄土に生れたとしても、五百年もの時を経なければならず、また億千万の人々の中で、真実の浄土に進むのはまれに一人いるかどうかであると示されている。真実の信心を得ることを十分に心得て、真実の浄土に生れることを願わなければならない。(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.30-33より)
まずは、『観経』の「具三心者必生彼国」について、善導の『往生礼讃』「三心釈」の末文を引用して独自の解釈をする。「三心釈」の「具此三心」は、当時の一般的な解釈によるならば、『観経』の「三心」である「至誠心」「深心」「回向発願心」を「そなえなければならない」自力の「三心」である。しかし、親鸞はこれを『仏説無量寿経』(以下 『大経』)にある他力回向の「三心(至心・信楽・欲生)」(三信・三信心)を得たこととする。つまり、「若少一心」の一心が、『観経』の「三心」を得て後に『大経』の三信心(三心)を得ることであり、『観経』の「三心」の中の一心ではないと解釈する。三信心を得られなければ真実の報土には往生できないとして、『観経』の「三心」を隠彰(表面上にはでてこない釈尊の真意)の解釈により『大経』の「三心」へと大きく展開させ、ここでの一心が信心である信楽であり、すなわち他力回向による「三心即一」の一心であることを示している。(仏教知識「三一問答」(1)(2)(3)(4)(5)参照)
② 不得外現賢善精進之相
「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすがた、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれとなり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころのうちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬなり、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあらず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠のこころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみつねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」(唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことばなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.714-715より)
【親鸞の語句註釈】
- 内 → うち
- 虚 → むなしくて実ならぬ
- 仮 → かりにして真ならぬ
- 賢人 → かしこくよきひと
- 斟酌すべし → ことのありさまにしたがうて、はからふべし
『観経疏』に「不得外現賢善精進之相(外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ)」といわれているのは、表だって、自分が立派ですぐれているような振舞いや、善人であるような素振りを見せてはならない、仏道に励んでいるような姿を示してはならないというのである。なぜなら「内懷虚仮(内に虚仮を懐いて)」だからである。「内」は「うち」ということである。心のうちに煩悩をそなえているから、「虚」なのであり、「仮」なのである。「虚」は「むなしい」ということで、実ではないということである。「仮」は「かりの」ということで、真ではないということである。これらの文字の意味については、すでに示した通りである。この信心は真実の浄土に生れる種となり、実となるべきものであるというのである。それは、いつわりやへつらいを離れた、真実の浄土に生れる因となる信心なのである。わたしたちは善人でもなければ、賢者でもない。賢者というのは、立派ですぐれた人のことである。ところがわたしたちは、仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる心ばかりであり、心のうちはいつも、むなしく、いつわり、飾り立て、へつらうばかりであって、真実の心がないわが身であると知らなければならないというのである。『唯信鈔』に「斟酌しなければならない」といっているのは、自分自身がどのようなものであるのかということを知り、それにしたがってよく考えなければならないという言葉である。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.33-34より)
続いて、『観経』の「三心」の一つである「至誠心」を解説するために、善導の『観経疏』「散善義」の「至誠心釈」を引用している。ここでも親鸞独自の解釈を展開する。当時の一般的な解釈では、この「不得外現賢善精進之相内懐虚仮」の一文は、
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.455より引用)
と訓読をして、内心に虚仮(うそ いつわり)を懐いてはならないと、内心と外相(賢善精進)の不一致を誡めたものである。これは、師である法然の解釈も同様のものであるが、親鸞は『顕浄土真実教行証文類』「信巻」において、
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて…
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.216-217より)
と訓読を施して、これによって法然の解釈を大きく展開していく。これは、内心に虚仮しか懐くことのできない私たちが、外相に賢善精進を現わしてはならないとするもので、親鸞が自らの人間性を深く内省したものといえる。だからこそ、「至誠心」である「真実心」は阿弥陀如来から賜るほかにはなく、私たちが浄土に往生する因が唯一その信心であることを示している。(至誠心釈については仏教知識「三心」参照)
③ 不簡破戒罪根深
「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といふは、もろもろの戒をやぶり、罪ふかきひとをきらはずとなり。このやうは、はじめにあらはせり。よくよくみるべし。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.715より)
【現代語訳】
『五会法事讃』に「不簡破戒罪根深」といわれているのは、さまざまな戒律を破り、罪が深い人を選び捨てないというのである。このことは、すでにはじめの方に示している。よくご覧になっていただきたい。(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.34より)
最後に『浄土五会念仏略法事儀讃』(『五会法事讃』)で引用された『般舟三昧讃』(慈愍)の略抄の註釈の「六句目」を再び引用する(仏教知識「唯信鈔文意 (4)」参照)。
なぜ、改めて同じ個所を引用したのか?前段の「至誠心釈」によって、人間性を深く内省し、虚仮不実(うそ、いつわりでまことがない)のどうしようもない人間であると自覚している親鸞は、再度この語句を引用することによって、「道俗の戒品を破り捨てるもの」「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提のもの」である私が救われていく道は、罪が深い人を選び捨てない阿弥陀如来の本願を信じる以外に方法はないとの確認をしておきたかったのかもしれない。
最後の (9) では、『仏説無量寿経』の「乃至一念 若不生者 不取正覚」と『唯信鈔』の「非権非実」、『仏説観無量寿経』の「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念念中 除八十億劫 生死之罪」、奥書について解説する。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)
[10] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)