唯信鈔文意 (4)
ここからは、『浄土五会念仏略法事儀讃』(『五会法事讃』)で引用された『般舟三昧讃』(慈愍)の略抄の註釈である。
「彼仏因中立弘誓」以下八句の釈
「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.704より)
〈現代語訳〉
『五会法事讃』に、「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来 不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才 不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深 但使回心多念仏 能令瓦礫変成金(かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来らしめん。貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ)」といわれている。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.12-13より)
この (4) では一~六句目を解説する。
一句目 彼仏因中立弘誓
「彼仏因中立弘誓」、このこころは、「彼」はかのといふ。「仏」は阿弥陀仏なり。「因中」は法蔵菩薩と申ししときなり。「立弘誓」は、「立」はたつといふ、なるといふ、「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ、「誓」はちかひといふなり。法蔵比丘、超世無上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふと申すなり。超世は余の仏の御ちかひにすぐれたまへりとなり。超は、こえたりといふは、うへなしと申すなり。如来の弘誓をおこしたまへるやうは、この『唯信鈔』にくはしくあらはれたり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.704より)
【親鸞の語句註釈】
- 彼 → かの
- 仏 → 阿弥陀仏
- 因中 → 法蔵菩薩と申ししとき
- 立 → たつ・なる
- 弘 → ひろし・ひろまる
- 誓 → ちかひ
- 超 → こえたり・うへなし
〈現代語訳〉
「彼仏因中立弘誓」について、この文の意味は、「彼」は「かの」ということであり、「仏」は阿弥陀仏のことである。「因中」というのは、法蔵菩薩であった時ということである。「立弘誓」というのは、「立」は「たてる」ということであり、成立するということである。「弘」は「ひろい」ということであり、「ひろまる」ということである。「誓」は「ちかい」ということである。法蔵菩薩が、この上ない超世の誓いをおこして、広くおひろめになるというのである。「超世」とは、他の仏がたのお誓いよりすぐれておいでになるということである。「超」は「こえている」ということであり、それより上がないということである。如来が弘誓をおこされた様子は、この『唯信鈔』に詳しく示されている。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.13-14より)
一句目は、阿弥陀如来が法蔵菩薩の時におこされた誓いは、どの仏がたよりもすぐれたものであり、すでに十方世界にひろまっているとの言葉である。また阿弥陀如来がこの誓いをおこされたようすは、『唯信鈔』に示されているとする。
二句目 聞名念我総迎来
「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちかひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり。「総迎来」といふは、「総」はふさねてといふ、すべてみなといふこころなり。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこころなり。「来」はかへるといふ、きたらしむといふ、法性のみやこへむかへ率てきたらしめ、かへらしむといふ。法性のみやこより衆生利益のためにこの娑婆界にきたるゆゑに、「来」をきたるといふなり。法性のさとりをひらくゆゑに、「来」をかへるといふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.705より)
【親鸞の語句註釈】
- 聞 → きく・信心をあらはす御のり
- 名 → 御な・如来ちかひの名号
- 念我 → ちかひの御なを憶念せよ
- 憶念 → 本願をつねにおもひいづるこころのたえぬをいふなり
- 総 → ふさねて・すべてみな
- 迎 → むかふる・まつ・他力をあらはすこころ
- 来 → かへる・きたらしむ
〈現代語訳〉
「聞名念我」というのは、「聞」は「きく」ということであり、信心を表す言葉である。「名」はお名前ということであり、如来が本願に誓われた名号である。「念我」というのは、その本願に誓われた名号を憶念せよというのである。これは大悲のお心によって誓われた諸仏称名の願に示されている。「憶念」とは、信心を得た人は疑いがないから、折にふれていつも本願を心に思いおこすことをいうのである。「総迎来」というのは、「総」はまとめてということであり、すべてのものをみなという意味である。「迎」は「むかえる」ということであり、待つということであって、それは他力の救いを意味しているのである。「来」は「かえる」ということであり、「こさせる」ということである。法性の都へ迎え、連れて行き、来させ、かえらせるというのである。法性の都からすべてのものを救うためにこの娑婆世界に来るから、「来」を「くる」というのである。法性のさとりを開くから、「来」を「かえる」というのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.14-15より)
二句目は、本願に誓われた名号を疑いなく聞くことが信心であり、信心を得た人には、疑いの心がないのであるから、常に本願を心に思いおこして信心を相続することを勧めた言葉である。信心の相続は、第十七願である「諸仏称名の悲願」によりふりむけられたものである。すなわち第十七願による「称名念仏」する衆生を救うと誓われたのが第十八願であると示している。また第十八願によって、「すべてみな」の衆生が救われて、その利益は衆生を浄土に往生させる往相と、浄土に往生した者が衆生を救うために再び娑婆に還る還相があるとする言葉である。
三~六句目
不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才
不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深
「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡」はえらばず、きらはずといふ。「貧窮」はまづしく、たしなきものなり。「将」はまさにといふ、もつてといふ、率てゆくといふ。「富貴」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもつてえらばず、きらはず、浄土へ率てゆくとなり。
「不簡下智与高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は才学ひろきもの、これらをえらばず、きらはずとなり。
「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。
「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかへ率て、かへらしむといへるなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.705-707より)
【親鸞の語句註釈】
- 不簡 → えらばず・きらはず
- 貧窮 → まずしく、たしなきもの
- 将 → まさに・もつて・率てゆく
- 富貴 → とめるひと・よきひと
- 下智 → 智慧あさく、せばく、すくなきもの
- 高才 → 才学ひろきもの
- 多聞 → 聖教をひろくおほくきき、信ずる
- 持 → たもつ
- たもつ → ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり
- 浄戒 → すべての道俗の戒品
- 破戒 → (すべての道俗の戒品)をうけて、やぶりすてたるもの
- 罪根 → 十悪・五逆の悪人、謗法・闡提
- 深 → ふかし・あさましきさまざまの罪のふかきひと
〈現代語訳〉
「不簡貧窮将富貴」というのは、「不簡」とは、選び捨てない、嫌わないということである。「貧窮」とは、貧しく、苦しみ困っているもののことである。「将」は「まさに」ということであり、「もって」ということであり、連れて行くということである。「富貴」とは、裕福な人、身分の高い人ということである。これらの人々を、まさに選ぶことなく、嫌うことなく、浄土へ連れて行くというのである。
「不簡下智与高才」というのは、「下智」とは、智慧が浅く、狭く、少ないものというのである。「高才」とは、才能が豊かで学のあるもののことであって、これらの人々を選ぶことがなく、嫌うことがないというのである。
「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」とは、聖教を広く多く聞き、信じることである。「持」は「たもつ」ということである。「たもつ」というのは、習い学ぶ心を失わず、散漫にならないことである。「浄戒」とは、大乗・小乗のさまざまな戒律のことであり、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網経』に説かれる五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家のものや在家のものが守るすべての戒律をいう。そしてこれらをたもつことを「持」というのである。このようなさまざまな戒律をたもっている立派な人々であっても、本願他力の真実の信心を得て、はじめて真実の浄土に往生を遂げることができるのである。自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生れることができないというのである。
「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪・五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗るものや一闡提などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無礙光仏の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生れると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。「総迎来」とは、すべてのものをみな浄土へ迎えて連れて行き、法性の都にかえらせるといっているのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.15-18より)
三~六句目は、第十八願の救いの対象が十方衆生(「すべてみな」)であることの詳細な説明として四つの「不簡(選ばず・嫌わず)」を挙げている。その四つとは、
- 「まずしいもの・苦しみ困るもの」と「富めるもの・身分の高いもの」
- 「智慧が浅く、狭く、少ないもの」と「才能豊かで学のあるもの」
- 「聖教を広く多く聞き、信じるもの」と「すべての道俗の戒品をたもつもの(※1)」
- 「道俗の戒品を破り捨てるもの」と「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提のもの」
である。これらのすべてを嫌わず、選ぶことがない。これらを言い換えて、「すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひと」である「総」(すべてみな)が第十八願の救いの対象であると改めて示している。
次の (5) では残りの七~八句目を解説する。
- ※1 道俗の戒品
- 出家のもの、在家のものが守るべきとされるすべての戒律。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)