唯信鈔文意 (5)
ここからは、「彼仏因中立弘誓」以下八句の釈の七~八句目を解説する。
七句目 但使回心多念仏
「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上のこころなり。大はおほきなり、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにすぐれたるなり。これすなはち他力本願無上のゆゑなり。自力のこころをすつといふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢに具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしといふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これらを下類といふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.707-708より)
【親鸞の語句註釈】
- 回心 → 自力の心をひるがへし、すつる
- 多 → 大・勝・増上
- 大 → おほき
- 勝 → すぐれたり・よろづの善にまされる
- 増上 → よろづのことにすぐれたる
- 煩 → 身をわづらはす
- 悩 → こころをなやます
- 屠 → よろづのいきたるものをころし、ほふるもの・れふし・下類
- 沽 → よろづのものをうりかふもの・あき人・下類
〈現代語訳〉
「但使回心多念仏」というのは、「但使回心」とは、ひとえに回心しなさいという言葉である。「回心」というのは、自力の心をあらため、捨てることをいうのである。真実の浄土に生れる人には、決して壊れることのない他力の信心が必ずおこるのであり、このことを、「多念仏」というのである。「多」は、「大」の意味であり、「勝」の意味であり、「増上」の意味である。「大」は、「おおきい」ということである。「勝」は、「すぐれている」ということであり、あらゆる善にまさっているということである。「増上」とは、あらゆるものよりすぐれているということである。これはすなわち、他力本願がこの上なくすぐれているからである。自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのような色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛の凡愚・屠沽の下類も、ただひとすじに、思いはかることのできない無礙光仏の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。「具縛」とは、あらゆる煩悩に縛られているわたしたち自身のことである。「煩」は身をわずらわせるということであり、「悩」は心をなやませるということである。「屠」は、さまざまな生きものを殺し、切りさばくものであり、これはいわゆる漁猟を行うもののことである。「沽」はさまざまなものを売り買いするものであり、これは商いを行う人である。これらの人々を「下類」というのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.18-20より)
七句目は、自力の心をひるがえし捨てる「回心」によって、他力の信心を賜ることができるのであり、この他力の信心で称える念仏が「多念仏」と呼ばれるものであると示している。つまりここでの「多念仏」とは念仏の回数の多少を指すものではない。また、「回心」によって称えられる第十八願の念仏こそが、あらゆる善(諸行)よりも優れて勝っているものであり、すべての人びとが平等に救われて往生浄土にいたる道であると示した。この他力の念仏によって救われる対象の具体例である「具縛の凡愚」「屠沽の下類」を元照の『阿弥陀経義疏』(※1)より挙げている。
八句目 能令瓦礫変成金
「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、「瓦」はかはらといふ、「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」はかへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのものは、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひをふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人などは、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたとへたまへるなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりたまふゆゑなり。文のこころはおもふほどは申しあらはし候はねども、あらあら申すなり。ふかきことはこれにておしはからせたまふべし。この文は、慈愍三蔵と申す聖人の御釈なり。震旦(中国)には恵日三蔵と申すなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.708-709より)
【親鸞の語句註釈】
- 能 → よく
- 令 → せしむ
- 瓦 → かはら
- 礫 → つぶて
- 変成 → かへなす
- 金 → こがね
〈現代語訳〉
「能令瓦礫変成金」というのは、「能」は「よく」ということであり、「令」は「させる」ということであり、「瓦」は「かわら」ということであり、「礫」は「つぶて」ということである。「変成金」とは、「変成」は「かえてしまう」ということであり、「金」は「こがね」ということである。つまり、瓦や小石を金に変えてしまうようだとたとえておられるのである。漁猟を行うものや商いを行う人など、さまざまなものとは、いずれもみな、石や瓦や小石のようなわたしたち自身のことである。如来の誓願を疑いなくひとすじに信じれば、摂取の光明の中に摂め取られて、必ず大いなる仏のさとりを開かせてくださる。すなわち、漁猟を行うものや商いを行う人などは、石や瓦や小石などを見事に金にしてしまうように救われていくのである、とたとえておられるのである。摂取の光明とは、阿弥陀仏のお心に摂め取ってくださるから、そのようにいうのである。
この文の意味は、十分にいい表すことができていないけれども、大体のところを述べた。深いところは、これらのことからお考えいただきたい。この文は、慈愍三蔵といわれる聖人の御文である。中国では慧日三蔵といわれている。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.20-21より)
八句目は、阿弥陀如来の本願を疑いなく信じる人びとは、煩悩をもったまま必ず浄土に往生できることが約束されて、いのちが尽きた時には必ず浄土に往生して仏のさとりを開かせてもらえることを示している。地獄行き間違いなしと言われた人びとが仏と成ることができるので、この本願他力の作用が瓦礫を黄金に変えるとたとえられているのだと解説している。
さて、七句目では、「屠沽の下類」を具体的に解説して、八句目では「漁師・猟師」「商人」を石や瓦のようなものであると記されているが、ここを切り取って、親鸞の差別性が指摘される場合がある。しかし、これは明らかな誤りである。当時、社会で仏(浄土に往生する)にはとてもなれないと差別されていた被差別民を具体的に挙げて、阿弥陀如来の本願からは、そのような「社会常識」は何の根拠もないものであり、救われる人びとの平等性を強調したのである。また、「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」と自分自身がこれら「下類」の一人であると宣言して、共に救われる道を明らかにしたものであり、被差別民への差別の意図などは全くない。
最後に『般舟三昧讃』を著した慈愍が中国では慧日三蔵と呼ばれていたと付け加えている。
次の (6) では、『法事讃』(善導)の「極楽無為涅槃界」以下四句の釈を解説する。
- ※1 『阿弥陀経義疏』一巻
- ここでは北宋の元照(1048~1116)が著したものを指す。『仏説阿弥陀経』の註釈書で称名が多善根・多福徳(多くの功徳のたねがある)で諸行よりも優れていることが示されている。『弥陀経義』ともいう。元照は律宗の僧であったが、晩年自らの微力を知って、浄土教に帰依したとされる。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)