唯信鈔文意 (6)
ここからは、善導の『法事讃』の偈の註釈である。
「極楽無為涅槃界」以下四句の釈
「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生
故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下)(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.709より)
〈現代語訳〉
『法事讃』に、「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生 故使如来選要法 教念弥陀専復専(極楽は無為涅槃の界なり。隨縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり)」といわれている。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.21より)
この (6) では一~三句目を解説する。
一句目 極楽無為涅槃界
「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづのたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへり、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量なり、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.709-710より)
【親鸞の語句註釈】
- 極楽 → 安楽・安養・蓮華蔵世界・無為・涅槃界
- 涅槃 → 滅度・無為・安楽・常楽・実相・法身・法性・真如・一如・仏性・如来
- 界 → さかひ
- 信心 → 仏性 → 法性 → 法身 → いろもなし、かたちもましまさず
- 報 → たねにむくひたる
- 無碍 → さはりなし
〈現代語訳〉
「極楽無為涅槃界」について、「極楽」というのは阿弥陀仏の安楽浄土のことである。そこではあらゆる楽しみが絶えることなく、苦しみがまじらないのである。その国を安養といわれる。それで曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』に「浄土をほめたたえて安養と申しあげる」と述べておられる。また、『浄土論』には「蓮華蔵世界」ともいわれている。そして、「無為」ともいわれている。「涅槃界」というのは、無明の迷いを転じてこの上ない涅槃のさとりを開くのであり、「界」は世界ということであって、浄土はさとりを開く世界なのである。大涅槃について、これを表す言葉は数限りなくある。詳しくいうことはできないが、いくつかその名を挙げてみよう。「涅槃」のことを滅度といい、無為といい、安楽といい、常楽といい、実相といい、法身といい、法性といい、真如といい、一如といい、仏性という。仏性はすなわち如来である。
この如来は、数限りない世界のすみずみにまで満ちわたっておられる。すなわちすべての命あるものの心なのである。この心に誓願を信じるのであるから、この信心はすなわち仏性であり、仏性はすなわち法性であり、法性はすなわち法身である。法身は色もなく、形もない。だから、心にも思うことができないし、言葉にも表すことができない。この一如の世界から形をあらわして方便法身というおすがたを示し、法蔵菩薩と名乗られて、思いはかることのできない大いなる誓願をおこされたのである。このようにしてあらわれてくださったおすがたのことを、世親菩薩は「尽十方無礙光如来」とお名づけになったのである。この如来を報身といい、誓願という因に報い如来となられたのであるから、報身如来と申しあげるのである。「報」というのは、因が結果としてあらわれるということである。この報身から応身・化身などの数限りない仏身をあらわして、数限りない世界のすみずみにまで、何ものにもさまたげられない智慧の光を放ってくださるから、「尽十方無礙光如来」といわれる光であって、形もなく色もないのである。この光は無明の闇を破り、罪悪にさまたげられることもないので、「無礙光」というのである。「無礙」とは、さわりがないということである。このようなわけで、阿弥陀仏は光明であり、その光明は智慧のすがたであると知らなければならない。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.21-24より)
一句目は、この説明において極楽の異名から涅槃を導き、涅槃の異名から浄土へと導くことによって、浄土と阿弥陀如来の徳を表している。
また、阿弥陀如来が私たちに与えてくださる信心とは、仏性であり、法性であり、法性は法身であると示している。その法性法身は、人間の認識の及ばない絶対性を表すが、それでは凡夫である私たちの信の対象とはなり得ないので、阿弥陀如来は方便法身として私たちの前に現れて、誓願による信心を私たち衆生に与えてくださるのであるとする。このようにすべての衆生を対象とした誓願は、智慧として数限りない世界にまで満ちわたっているので、天親菩薩が尽十方無礙光如来と名づけられたのだと解説する。つまり、報身より、応身・化身の無量無数の仏身を十方に現して衆生を救われるのである。
二句目 「随縁雑善恐難生」
「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたしとなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.710-711より)
【親鸞の語句註釈】
- 隨縁雑善 → 八万四千の法門 → 自力の善根
- 恐 → おそる
- 難生 → 生れがたし
〈現代語訳〉
「随縁雑善恐難生」というのは、「隨縁雑善」とは、人々がそれぞれの縁にしたがい、それぞれの心にまかせてさまざまな善を修め、それを極楽に往生するために回向することである。すなわち八万四千の法門のことである。これはすべて自力の善根であるから、真実の浄土には生れることができないと嫌われる。そのことを「恐難生」といわれている。「恐」は「おそれる」ということである。真実の浄土にはさまざまな自力の善によって生れることができないことを気づかわれているのであり、「難生」とは生れることができないというのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.24-25より)
二句目は、隨縁雑善とは、他力の教えに帰依しながらも、もともと修していた八万四千の法門に執着することであるとする。つまりこれまでの縁に随い、自力の善根である諸善万行を往生浄土のために回向しようとすることである。これは『唯信鈔』で聖覚が、
念仏の門に入りながら、なほ余行をかねたる人は、そのこころをたづぬるに、おのおの本業を執じてすてがたくおもふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1343より)
と示しているものを承けたものである。
そして、自力の善根に執着する者は、真実の浄土には生れることができないと解説している。
三句目 「故使如来選要法」
「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえらびとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなりとしるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」はもつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.711より)
【親鸞の語句註釈】
- 選 → ひろくえらぶ
- 要 → もっぱら・もとむ・ちぎる
- 法 → 名号
〈現代語訳〉
「故使如来選要法」というのは、釈尊があらゆる善のなかから南無阿弥陀仏の名号を選び取って、さまざまな濁りに満ちた時代のなかで、悪事を犯すばかりであり、よこしまな考えにとらわれて真実の信心をおこすことのないものにお与えになったのであると知らなければならないというのである。このことを「選」といい、広く多くのものから選ぶという意味である。「要」はひとすじにということであり、求めるということであり、約束するということである。「法」とは名号である。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.25より)
三句目は、さきほど二句目の自力の善根を修する諸善万行では、真実の浄土に往生できないので、釈尊が『仏説阿弥陀経』において、名号を選び取り、私たち衆生に与えてくださったのであると解説している。
次の (7) では残りの四句目を解説する。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)