唯信鈔文意 (3)
ここからは、法照禅師(※1)の『五会法事讃』の偈(※2)の註釈である。
「如来尊号甚分明」以下四句の釈
「如来尊号甚分明 十方世界普流行
但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.699より)
〈現代語訳〉
『五会法事讃』に、「如来尊号甚分明 十方世界普流行 但有称名皆得往 観音勢至自来迎(如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ)」といわれている。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.4より)
一句目 如来尊号甚分明
「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願なるがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころなり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.699-700より)
【親鸞の語句註釈】
- 如来 → 無碍光如来
- 尊号 → 南無阿弥陀仏
- 尊 → たふとくすぐれたり
- 号 → 仏に成りたまうてのちの御な
- 甚 → はなはだ・すぐれたり
- 分 → わかつ
- 明 → あきらか
〈現代語訳〉
「如来尊号甚分明」について、この文の意味は、「如来」というのは無礙光如来である。「尊号」というのは南無阿弥陀仏である。「尊」は尊くすぐれているということである。「号」は仏になられてから後のお名前をいい、「名」はまだ仏になっておられないときのお名前をいうのである。この如来の尊号は、たたえ尽すことも、説き尽すことも、思いはかることもできないのであって、すべてのものをこの上なくすぐれたさとりに至らせてくださる、大いなる慈悲のお心があらわれた誓願の名号なのである。この仏の名号は、あらゆる如来の名号よりもすぐれている。なぜなら、この名号は、誓願そのものだからである。「甚分明」というのは、「甚」は「はなはだ」ということであり、すぐれているという意味である。「分」は「わける」ということであり、あらゆる凡夫を一人一人見分けて救うという意味である。「明」は「あきらかである」ということである。すべてのものをことごとく助けてお導きになることが、明らかであり、一人一人を見分けて救うのであり、それがすぐれているというのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.4-5より)
一句目であるが、ここでの「如来」は無碍光如来(阿弥陀如来)のことであり、「尊号」は南無阿弥陀仏の名号であると示している。この名号は尊くすぐれており、『仏説無量寿経』「第十七願」において、諸仏によって讃嘆される名号であることを示す。この名号は、あらゆる凡夫を一人ひとり見分けて、ことごとく救う如来の誓願そのものであるとする。
二~三句目 十方世界普流行 但有称名皆得往
「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きはなしといふ。「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり。しかれば大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃にいたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。
「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.700-701より)
【親鸞の語句註釈】
- 普 → あまねく・ひろく・きはなし
- 流行 → 十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり
- 但有 → ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生す
〈現代語訳〉
「十方世界普流行」というのは、「普」はあまねく、ひろく、果てしないということである。「流行」とは、数限りないすべての世界のすみずみにまで広く行きわたり、南無阿弥陀仏の名号を勧め、念仏させてくださるのである。そのようなわけで、大乗・小乗の聖人も、善人・悪人すべての凡夫も、みな自力の智慧では大いなるさとりに至ることがなく、無礙光仏のおすがたは智慧の光でいらっしゃるから、この仏の智慧からおこった本願の海に入ることをお勧めになるのである。無礙光仏はすべての仏がたの智慧を集めたおすがたなのである。その光明は智慧であると心得なさいというのである。
「但有称名皆得往」というのは、「但有」とはひとすじに名号を称える人だけが、みな往生するといわれているのである。このようなわけで「称名皆得往」というのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.5-6より)
二句目・三句目であるが、諸仏に讃嘆される誓願の名号(「第十七願」)が十方世界に行きわたり、「名号を勧め念仏させる」ことが果てしなく広く流れ伝わることが示されている。続く三句目では、この第十七願によって流布された名号をひとすじ(専修)に称名するものがすべて救われるという第十八願の内容を説明している。
四句目 観音勢至自来迎
「観音勢至自来迎」といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可思議光仏の御なを信受して憶念すれば観音・勢至はかならずかげのかたちにそへるがごとくなり。この無碍光仏は観音とあらはれ勢至としめす。ある経には、観音を宝応声菩薩となづけて日天子としめす、これは無明の黒闇をはらはしむ、勢至を宝吉祥菩薩となづけて月天子とあらはる、生死の長夜を照らして智慧をひらかしめんとなり。「自来迎」といふは、「自」はみづからといふなり、弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。また「自」はおのづからといふ、おのづからといふは自然といふ、自然といふはしからしむといふ、しからしむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来の一切の罪を転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。もとめざるに一切の功徳善根を仏のちかひを信ずる人に得しむるがゆゑにしからしむといふ。はじめてはからはざれば自然といふなり。誓願真実の信心をえたるひとは、摂取不捨の御ちかひにをさめとりてまもらせたまふによりて、行人のはからひにあらず、金剛の信心をうるゆゑに憶念自然なるなり。この信心のおこることも釈迦の慈父・弥陀の悲母の方便によりておこるなり。これ自然の利益なりとしるべしとなり。「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これすなはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきたらしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。また「来」はかへるといふ、かへるといふは、願海に入りぬるによりてかならず大涅槃にいたるを法性のみやこへかへると申すなり。法性のみやこといふは、法身と申す如来のさとりを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを真如実相を証すとも申す、無為法身ともいふ、滅度に至るともいふ、法性の常楽を証すとも申すなり。このさとりをうれば、すなはち大慈大悲きはまりて生死海にかへり入りてよろづの有情をたすくるを普賢の徳に帰せしむと申す。この利益におもむくを「来」といふ、これを法性のみやこへかへると申すなり。「迎」といふはむかへたまふといふ、まつといふこころなり。選択不思議の本願・無上智慧の尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづく。この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり、これを「迎」といふなり。『大経』(下)には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。「願生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」は、信心をうればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへず日をへだてぬをいふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.701-703より)
【親鸞の語句註釈】
- 観音 → 宝応声菩薩・日天子・無碍光仏の示現
- 勢至 → 宝吉祥菩薩・月天子・無碍光仏の示現
- 自 → みづから・おのづから
- おのづから → 自然
- 自然 → しからしむ
- おのづから → 自然
- 来 → きたらしむ・かへる
- 迎 → むかへたまふ・まつ
〈現代語訳〉
「観音勢至自来迎」というのは、南無阿弥陀仏は如来の智慧のはたらきとしての名号であるから、この不可思議光仏の名号を疑いなく信じ心にたもつとき、観音菩薩と勢至菩薩は、必ず影がその姿に付き添うように離れないでいてくださるのである。この無礙光仏は、観音菩薩としてあらわれ、勢至菩薩として姿を示してくださる。ある経典には、観音菩薩を宝応声菩薩と名づけ、日天子と示している。この菩薩は無明の闇を払ってくださるという。また、勢至菩薩を宝吉祥菩薩と名づけ、月天子とあらわしている。この菩薩は迷いの長い夜を照らして智慧を開いてくださるというのである。
「自来迎」というのは、「自」は「みずから」ということである。阿弥陀仏の化身である化仏や観音・勢至の化菩薩など、数限りない聖者がたが、自ら常にどのような時も嫌ったりすることなく、どのような所も避けたりせず、真実の信心を得た人に付き添われお護りになるから、「みずから」というのである。また「自」は「おのずから」ということである。「おのずから」というのは「自然」ということである。「自然」というのは「そのようにあらしめる」ということである。「そのようにあらしめる」というのは、念仏の行者があらためてあれこれと思いはからわなくても、過去・現在・未来のすべての罪を転じるのである。「転じる」というのは、罪を善に変えてしまうことをいうのである。求めなくても、すべての善根功徳を、仏の誓願を信じる人に得させてくださるから、「そのようにあらしめる」という。あらためて思いはからうのではないから、「自然」というのである。本願に誓われた真実の信心を得た人は、摂取不捨と誓われたその本願のうちに摂め取って阿弥陀仏がお護りになるのであるから、行者が思いはからうのではなく、決して壊れることのない他力の信心を得ることにより、おのずと本願を心にたもつことができるのである。この信心がおこることも、慈しみあふれる父である釈尊とあわれみ深い母である阿弥陀仏の手だてによるのである。これは本願のはたらきによっておのずから得る利益であると心得なさいということである。
「来迎」というのは、「来」は浄土へ来させるということである。これはすなわち若不生者と誓われた本願をあらわすみ教えである。この迷いの世界を捨てて真実の浄土に来させるというのである。すなわち他力をあらわすお言葉である。また「来」は「かえる」ということである。「かえる」というのは、本願の海に入ったことにより必ず大いなるさとりに至ることを、「法性の都へかえる」というのである。法性の都というのは、法身という如来のさとりを本願のはたらきによっておのずと開くとき、そのことを「都へかえる」というのである。これを真如実相を証するともいい、無為法身ともいい、滅度に至るともいい、法性の常楽を証するともいうのである。このさとりを得ると、すなわち大いなる慈悲の心が極まり、再び迷いの世界にかえり入ってあらゆるものを救うのである。このことを普賢の徳を得るという。この利益を得ることを「来」といい、このことを「法性の都へかえる」というのである。「迎」というのは、「おむかえになる」ということであり、待つという意味である。如来が選び取られた不可思議の本願、この上ない智慧の尊号を聞いて、ほんの少しも疑う心がないのを真実の信心というのである。この心を金剛心とも名づける。この信心を得るとき、阿弥陀仏は必ずその人を摂め取って決してお捨てになることがないので、すなわち正定聚の位に定まるのである。このようなわけで、信心は破られることなく、衰えることなく、乱れることがない。それが金剛のようであるから、金剛の信心というのである。このことを「迎」というのである。『無量寿経』には、「願生彼国 即得往生 住不退転(かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」と説かれている。「願生彼国」とは、阿弥陀仏の浄土に生れようと願えというのである。「即得往生」は、信心を得ればすなわち往生するということである。すなわち往生するというのは、不退転に住することをいう。不退転に住するというのは、すなわち正定聚の位に定まると仰せになっているみ教えである。このことを「即得往生」というのである。「即」は「すなわち」というのである。「すなわち」というのは、時を経ることもなく日を置くこともないことをいうのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.6-11より)
四句目であるが、衆生が信心を得たときに、無碍光仏(阿弥陀如来)の慈悲が観音菩薩の姿となり、智慧が勢至菩薩の姿となり、衆生に常に影の形に添えるかのように離れずに護る(常随影護)とされる。「来迎」は、衆生が浄土にかえることを無碍光仏が待つこととする。そして、『仏説無量寿経』「本願成就文」を引用しながら、これまでの浄土教の「臨終来迎」(※3)を否定して、生きている間に浄土への往生が約束される現生正定聚(仏教知識「現生正定聚 (1)」「現生正定聚 (2)」参照)を示す。
四句のまとめ
おほよそ十方世界にあまねくひろまることは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏にわがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就したまへるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。この文のこころはおもふほどは申さず、これにておしはからせたまふべし。この文は、後善導法照禅師と申す聖人の御釈なり、この和尚をば法道和尚と、慈覚大師はのたまへり。また『伝』には廬山の弥陀和尚とも申す、浄業和尚とも申す。唐朝の光明寺の善導和尚の化身なり、このゆゑに後善導と申すなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.703-704より)
〈現代語訳〉
如来の尊号がすべての世界のすみずみにまで広く行きわたるということは、法蔵菩薩の四十八願のなか、第十七願に「すべての世界の数限りない仏がたに、わたしの名号をほめたたえられ、称えられよう」とお誓いになった、一乗大智海の誓願を成就されたことによるのである。それは『阿弥陀経』に、あらゆる仏がたが念仏の法を真実であると証明し、念仏の行者をお護りになると示されていることによって明らかである。そのおこころは『無量寿経』にもあらわされている。また、称名念仏が誓われた第十八願は、阿弥陀仏が選び取られた浄土往生の正しい因であることが、この第十七願にあらわされている。
この文の意味は、十分にいうことができていないけれども、これらのことによってお考えいただきたい。この文は、後善導と呼ばれる法照禅師という聖人の御文である。慈覚大師は、この和尚のことを法道和尚と仰せになっている。また伝記には、廬山の弥陀和尚ともいわれており、あるいは浄業和尚ともいわれている。この方は唐の時代に光明寺におられた善導大師の化身であるから後善導というのである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.11-12より)
この四句のまとめとして、『仏説無量寿経』の「第十七願」と「第十八願」が不離(切り離せない)の関係であることを改めて示している。つまり、「第十七願」で「すべての世界の数限りない仏がたに、わたしの名号をほめたたえられ、称えられよう」と誓われたことより、「第十八願」での「乃至十念」が称名念仏であるとした。これは、「第十七願」に十方諸仏に「ほめられん」「となへられん」と二つの意味があり、「となへられん」は名号を称える「称名念仏」であるとの解釈である。
最後にこの文の法照(※4)の小伝を付け加えている。法照禅師が善導の生まれ変わりで「後善導」と呼ばれていることや、別名に「法道和尚」「弥陀和尚」「浄業和尚」があることを示している。ただし、これら別名については、法照とは別人であり、親鸞の誤りである。これは当時の天台宗における伝承などを採用したためと考えられる。
この後「彼仏因中立弘誓」以下八句の釈に入っていく。
- ※1 偈
- サンスクリット(梵語)の「ガーター」の音訳で「伽陀」ともいう。韻文で書かれた詩句のこと。(仏教知識「偈」参照)
- ※2 臨終来迎
- 浄土に往生したいと願う衆生の臨終に、阿弥陀如来が菩薩などを率いて迎えにくること。迎接、引接ともいう。これは「浄土三部経」にそれぞれ説かれているが、親鸞は来迎をたのむ者は自力の行者であり、この往生は諸行往生であるとして、他力念仏によって平生に往生することが決まる『仏説無量寿経』「第十八願」による難思議往生を勧めた。
- ※3 法照(生没年不明 8世紀頃)
- 中国唐代の僧、「ほうしょう」とも読む。承遠(712~802)に師事した。「後善導」とも呼ばれる。「五会念仏」の創唱者でこれは日本の天台宗にも伝わり大きな影響を与えた。著書に『浄土五会念仏略法事儀讃』(『五会法事讃』)一巻。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)