唯信鈔文意 (3)

【ゆいしんしょうもんい 03】

ここからは、法照禅師ぜんじ(※1)の『五会法事讃』の(※2)の註釈である。

如来にょらい尊号そんごうじん分明ぶんみょう」以下四句しくの釈

  「如来にょらい尊号そんごうじん分明ぶんみょう 十方世界じっぽうせかいぎょう
   但有たんう称名しょうみょう皆得かいとくおう 観音かんのん勢至せいし自来迎じらいこう」(五会法事讃)

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.699より)

〈現代語訳〉

 『五会ごえ法事讃ほうじさん』に、「如来にょらい尊号そんごうじん分明ぶんみょう 十方世界じっぽうせかい流行るぎょう 但有称名たんうしょうみょう皆得かいとくおう 観音かんのん勢至せいし自来迎じらいこう(如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ)」といわれている。 (『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.4より)

一句目 如来尊号甚分明

 「如来にょらい尊号そんごうじん分明ぶんみょう」、このこころは、「如来にょらい」ともうすは無碍光むげこう如来にょらいなり。「尊号そんごう」ともうすは南無なも阿弥陀仏あみだぶつなり。「そん」はたふとくすぐれたりとなり、「ごう」はぶつりたまうてのちのなをもうす、はいまだほとけりたまはぬときのなをもうすなり。この如来にょらい尊号そんごうは、不可称ふかしょう不可説ふかせつ不可思議ふかしぎにましまして、一切いっさい衆生しゅじょうをして無上大般むじょうだいはつ涅槃ねはんにいたらしめたまふ大慈だいじ大悲だいひのちかひのななり。このぶつなは、よろづの如来にょらい名号みょうごうにすぐれたまへり。これすなはち誓願せいがんなるがゆゑなり。「じん分明ぶんみょう」といふは、「じん」ははなはだといふ、すぐれたりといふこころなり、「ぶん」はわかつといふ、よろづの衆生しゅじょうごとにとわかつこころなり、「みょう」はあきらかなりといふ、十方じっぽう一切いっさい衆生しゅじょうをことごとくたすけみちびきたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.699-700より)

【親鸞の語句註釈】

  • 如来 → 無碍光如来
  • 尊号 → 南無阿弥陀仏
    • 尊 → たふとくすぐれたり
    • 号 → 仏に成りたまうてのちの御な
  • 甚 → はなはだ・すぐれたり
  • 分 → わかつ
  • 明 → あきらか

〈現代語訳〉

 「如来にょらい尊号甚そんごうじん分明ぶんみょう」について、このもん意味いみは、「如来にょらい」というのは無礙光むげこう如来にょらいである。「尊号そんごう」というのは南無なも阿弥陀仏あみだぶつである。「そん」はとうとくすぐれているということである。「ごう」はほとけになられてからあとのお名前なまえをいい、「みょう」はまだほとけになっておられないときのお名前なまえをいうのである。この如来にょらい尊号そんごうは、たたえつくすことも、つくすことも、おもいはかることもできないのであって、すべてのものをこのうえなくすぐれたさとりにいたらせてくださる、おおいなる慈悲じひのおこころがあらわれた誓願せいがん名号みょうごうなのである。このほとけ名号みょうごうは、あらゆる如来にょらい名号みょうごうよりもすぐれている。なぜなら、この名号みょうごうは、誓願せいがんそのものだからである。「じん分明ぶんみょう」というのは、「じん」は「はなはだ」ということであり、すぐれているという意味いみである。「ぶん」は「わける」ということであり、あらゆる凡夫ぼんぶ一人一人ひとりひとり見分みわけてすくうという意味いみである。「みょう」は「あきらかである」ということである。すべてのものをことごとくたすけておみちびきになることが、あきらかであり、一人一人ひとりひとり見分みわけてすくうのであり、それがすぐれているというのである。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.4-5より)

一句目であるが、ここでの「如来」は無碍光むげこう如来(阿弥陀あみだ如来)のことであり、「尊号そんごう」は南無阿弥陀仏の名号であると示している。この名号は尊くすぐれており、『仏説無量寿経』「第十七だいじゅうしちがん」において、諸仏しょぶつによって讃嘆さんだんされる名号であることを示す。この名号は、あらゆる凡夫ぼんぶ一人ひとりひとり見分みわけて、ことごとくすくう如来の誓願そのものであるとする。

二~三句目 十方世界普流行 但有称名皆得往

 「十方世界じっぽうせかい流行るぎょう」といふは、「」はあまねく、ひろく、きはなしといふ。「流行るぎょう」は十方じっぽうじん世界せかいにあまねくひろまりて、すすめぎょうぜしめたまふなり。しかれば大小だいしょう聖人しょうにん善悪ぜんあく凡夫ぼんぶ、みなともに自力じりき智慧ちえをもつては大涅槃だいねはんにいたることなければ、無碍光仏むげこうぶつおんかたちは、智慧ちえのひかりにてましますゆゑに、このぶつがんかいにすすめれたまふなり。一切いっさい諸仏しょぶつ智慧ちえをあつめたまへるおんかたちなり。光明こうみょう智慧ちえなりとしるべしとなり。

 「但有たんう称名しょうみょうかい得往とくおう」といふは、「たん」はひとへになをとなふるひとのみ、みなおうじょうすとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆しょうみょうかい得往とくおう」といふなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.700-701より)

【親鸞の語句註釈】

  • 普 → あまねく・ひろく・きはなし
  • 流行 → 十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり
  • 但有 → ひとへに御なをとなふる人のみ、みな往生す

〈現代語訳〉

 「十方世界じっぽうせかい流行るぎょう」というのは、「」はあまねく、ひろく、てしないということである。「流行るぎょう」とは、数限かずかぎりないすべての世界せかいのすみずみにまでひろきわたり、南無なも阿弥陀仏あみだぶつ名号みょうごうすすめ、念仏ねんぶつさせてくださるのである。そのようなわけで、大乗だいじょう小乗しょうじょう聖人しょうにんも、善人ぜんにん悪人あくにんすべての凡夫ぼんぶも、みな自力じりき智慧ちえではおおいなるさとりにいたることがなく、無礙光仏むげこうぶつのおすがたは智慧ちえひかりでいらっしゃるから、このほとけ智慧ちえからおこった本願ほんがんうみはいることをおすすめになるのである。無礙光仏むげこうぶつはすべてのほとけがたの智慧ちえあつめたおすがたなのである。その光明こうみょう智慧ちえであると心得こころえなさいというのである。

 「但有称名たんうしょうみょう皆得かいとくおう」というのは、「たん」とはひとすじに名号みょうごうとなえるひとだけが、みな往生おうじょうするといわれているのである。このようなわけで「称名皆得往しょうみょうかいとくおう」というのである。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.5-6より)

二句目・三句目であるが、諸仏しょぶつ讃嘆さんだんされる誓願の名号(「第十七願」)が十方世界に行きわたり、「名号をすすめ念仏させる」ことがてしなく広く流れ伝わることが示されている。続く三句目では、この第十七願によって流布るふされた名号をひとすじ(専修せんじゅ)に称名するものがすべて救われるという第十八願の内容を説明している。

四句目 観音勢至自来迎

 「観音かんのん勢至せいし自来迎じらいこう」といふは、南無なも阿弥陀仏あみだぶつ智慧ちえ名号みょうごうなれば、この不可思議光仏ふかしぎこうぶつなを信受しんじゅして憶念おくねんすれば観音かんのん勢至せいしはかならずかげのかたちにそへるがごとくなり。この無碍光仏むげこうぶつ観音かんのんとあらはれ勢至せいしとしめす。あるきょうには、観音かんのん宝応ほうおうしょう菩薩ぼさつとなづけてにつ天子てんしとしめす、これは無明むみょうこくあんをはらはしむ、勢至せいしほう吉祥きっしょう菩薩ぼさつとなづけてがつ天子てんしとあらはる、生死しょうじ長夜じょうやらして智慧ちえをひらかしめんとなり。「自来迎じらいこう」といふは、「」はみづからといふなり、弥陀みだ無数むしゅぶつ無数むしゅ観音かんのん大勢至だいせいしとう無量むりょう無数むしゅしょうじゅ、みづからつねにときをきらはず、ところをへだてず、真実しんじつ信心しんじんをえたるひとにそひたまひてまもりたまふゆゑに、みづからともうすなり。また「」はおのづからといふ、おのづからといふは自然じねんといふ、自然じねんといふはしからしむといふ、しからしむといふは、行者ぎょうじゃのはじめてともかくもはからはざるに、過去かこ今生こんじょう未来みらい一切いっさいつみてんず。てんずといふは、ぜんとかへなすをいふなり。もとめざるに一切いっさい功徳くどくぜんごんぶつのちかひをしんずるひとしむるがゆゑにしからしむといふ。はじめてはからはざれば自然じねんといふなり。誓願せいがん真実しんじつ信心しんじんをえたるひとは、摂取せっしゅ不捨ふしゃおんちかひにをさめとりてまもらせたまふによりて、行人ぎょうにんのはからひにあらず、金剛こんごう信心しんじんをうるゆゑにおくねん自然じねんなるなり。この信心しんじんのおこることも釈迦しゃか慈父じぶ弥陀みだ方便ほうべんによりておこるなり。これ自然じねん利益りやくなりとしるべしとなり。「来迎らいこう」といふは、「らい」は浄土じょうどへきたらしむといふ、これすなはちにゃく不生者ふしょうじゃのちかひをあらはすのりなり。穢土えどをすてて真実報土しんじつほうどにきたらしむとなり、すなはち他力たりきをあらはすことなり。また「らい」はかへるといふ、かへるといふは、がんかいりぬるによりてかならず大涅槃だいねはんにいたるを法性ほっしょうのみやこへかへるともうすなり。法性ほっしょうのみやこといふは、ほっしんもう如来にょらいのさとりを自然じねんにひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを真如しんにょ実相じっそうしょうすとももうす、無為法むいほっしんともいふ、滅度めつどいたるともいふ、法性ほっしょうじょうらくしょうすとももうすなり。このさとりをうれば、すなはち大慈だいじ大悲だいひきはまりてしょうかいにかへりりてよろづの有情うじょうをたすくるをげんとくせしむともうす。この利益りやくにおもむくを「らい」といふ、これを法性ほっしょうのみやこへかへるともうすなり。「こう」といふはむかへたまふといふ、まつといふこころなり。選択せんじゃく不思議ふしぎ本願ほんがん無上むじょう智慧ちえ尊号そんごうをききて、一念いちねんうたがふこころなきを真実しんじつ信心しんじんといふなり、金剛こんごうしんともなづく。この信楽しんぎょうをうるときかならず摂取せっしゅしててたまはざれば、すなはち正定聚しょうじょうじゅくらいさだまるなり。このゆゑに信心しんじんやぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金剛こんごうのごとくなるがゆゑに、金剛こんごう信心しんじんとはもうすなり、これを「こう」といふなり。『大経だいきょう』(下)には、「願生がんしょうこく そくとく往生おうじょう じゅう不退転ふたいてん」とのたまへり。「願生がんしょうこく」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「そくとく往生おうじょう」は、信心しんじんをうればすなはちおうじょうすといふ、すなはちおうじょうすといふは不退転ふたいてんじゅうするをいふ、不退転ふたいてんじゅうすといふはすなはち正定聚しょうじょうじゅくらいさだまるとのたまふのりなり、これを「そくとく往生おうじょう」とはもうすなり。「そく」はすなはちといふ、すなはちといふはときをへずをへだてぬをいふなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.701-703より)

【親鸞の語句註釈】

  • 観音 → 宝応声菩薩・日天子・無碍光仏の示現
  • 勢至 → 宝吉祥菩薩・月天子・無碍光仏の示現
  • 自 → みづから・おのづから
    • おのづから → 自然
      • 自然 → しからしむ
  • 来 → きたらしむ・かへる
  • 迎 → むかへたまふ・まつ

〈現代語訳〉

 「観音かんのん勢至せいし自来迎じらいこう」というのは、南無なも阿弥陀仏あみだぶつ如来にょらい智慧ちえのはたらきとしての名号みょうごうであるから、この不可思議光仏ふかしぎこうぶつ名号みょうごううたがいなくしんこころにたもつとき、観音かんのん菩薩ぼさつ勢至菩薩せいしぼさつは、かならかげがその姿すがたうようにはなれないでいてくださるのである。この無礙光仏むげこうぶつは、観音かんのん菩薩ぼさつとしてあらわれ、勢至菩薩せいしぼさつとして姿すがたしめしてくださる。ある経典きょうてんには、観音かんのん菩薩ぼさつ宝応声ほうおうしょう菩薩ぼさつづけ、にっ天子てんししめしている。この菩薩ぼさつ無明むみょうやみはらってくださるという。また、勢至菩薩せいしぼさつほう吉祥きっしょう菩薩ぼさつと名づけ、がっ天子てんしとあらわしている。この菩薩ぼさつまよいのながよるらして智慧ちえひらいてくださるというのである。

 「自来迎じらいこう」というのは、「」は「みずから」ということである。阿弥陀仏あみだぶつ化身けしんである化仏けぶつ観音かんのん勢至せいし菩薩ぼさつなど、数限かずかぎりない聖者しょうじゃがたが、みずかつねにどのようなとききらったりすることなく、どのようなところけたりせず、真実しんじつ信心しんじんひとわれおまもりになるから、「みずから」というのである。また「」は「おのずから」ということである。「おのずから」というのは「自然じねん」ということである。「自然じねん」というのは「そのようにあらしめる」ということである。「そのようにあらしめる」というのは、念仏ねんぶつ行者ぎょうじゃがあらためてあれこれとおもいはからわなくても、過去かこ現在げんざい未来みらいのすべてのつみてんじるのである。「てんじる」というのは、つみぜんえてしまうことをいうのである。もとめなくても、すべての善根ぜんごん功徳くどくを、ほとけ誓願せいがんしんじるひとさせてくださるから、「そのようにあらしめる」という。あらためておもいはからうのではないから、「自然じねん」というのである。本願ほんがんちかわれた真実しんじつ信心しんじんひとは、摂取不捨せっしゅふしゃちかわれたその本願ほんがんのうちにおさって阿弥陀仏あみだぶつがおまもりになるのであるから、行者ぎょうじゃおもいはからうのではなく、けっしてこわれることのない他力たりき信心しんじんることにより、おのずと本願ほんがんこころにたもつことができるのである。この信心しんじんがおこることも、いつくしみあふれるちちである釈尊しゃくそんとあわれみぶかははである阿弥陀仏あみだぶつだてによるのである。これは本願ほんがんのはたらきによっておのずからやくであると心得こころえなさいということである。

 「来迎らいこう」というのは、「らい」は浄土じょうどさせるということである。これはすなわちにゃく不生者ふしょうじゃちかわれた本願ほんがんをあらわすみおしえである。このまよいのかいてて真実しんじつ浄土じょうどさせるというのである。すなわち他力たりきをあらわすお言葉ことばである。また「らい」は「かえる」ということである。「かえる」というのは、本願ほんがんうみはいったことによりかならおおいなるさとりにいたることを、「法性ほっしょうみやこへかえる」というのである。法性ほっしょうみやこというのは、ほっしんという如来にょらいのさとりを本願ほんがんのはたらきによっておのずとひらくとき、そのことを「みやこへかえる」というのである。これを真如しんにょ実相じっそうしょうするともいい、ほっしんともいい、滅度めつどいたるともいい、法性ほっしょうじょうらくしょうするともいうのである。このさとりをると、すなわちおおいなるこころきわまり、ふたたまよいの世界せかいにかえりってあらゆるものをすくうのである。このことをげんとくるという。この利益りやくることを「らい」といい、このことを「法性ほっしょうみやこへかえる」というのである。「こう」というのは、「おむかえになる」ということであり、つというである。如来にょらいえらられた不可思議ふかしぎ本願ほんがん、このうえない智慧ちえ尊号そんごういて、ほんのすこしもうたがこころがないのを真実しんじつ信心しんじんというのである。このこころ金剛こんごうしんともづける。この信心しんじんるとき、阿弥陀仏あみだぶつかならずそのひとおさってけっしておてになることがないので、すなわち正定聚しょうじょうじゅくらいさだまるのである。このようなわけで、信心しんじんやぶられることなく、おとろえることなく、みだれることがない。それが金剛こんごうのようであるから、金剛こんごう信心しんじんというのである。このことを「こう」というのである。『りょう寿じゅきょう』には、「願生がんしょうこく そくとく往生おうじょう じゅ不退転ふたいてん(かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん)」とかれている。「願生がんしょうこく」とは、阿弥陀仏あみだぶつ浄土じょうどうまれようとねがえというのである。「そくとく往生おうじょう」は、信心しんじんればすなわち往生おうじょうするということである。すなわち往生おうじょうするというのは、不退転ふたいてんじゅうすることをいう。不退転ふたいてんじゅうするというのは、すなわち正定聚しょうじょうじゅくらいさだまるとおおせになっているみおしえである。このことを「そくとく往生おうじょう」というのである。「そく」は「すなわち」というのである。「すなわち」というのは、ときることもなくくこともないことをいうのである。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.6-11より)

四句目であるが、衆生しゅじょうが信心を得たときに、無碍光仏(阿弥陀如来)の慈悲じひ観音かんのん菩薩ぼさつの姿となり、智慧ちえ勢至菩薩せいしぼさつの姿となり、衆生につねかげかたちえるかのように離れずにまもる(常随じょうずいよう)とされる。「来迎らいこう」は、衆生が浄土にかえることを無碍光仏が待つこととする。そして、『仏説無量寿経』「本願成就文」を引用しながら、これまでの浄土教の「臨終来りんじゅうらいこう」(※3)を否定して、生きている間に浄土への往生が約束される現生正定聚げんしょうしょうじょうじゅ(仏教知識「現生正定聚 (1)」「現生正定聚 (2)」参照)を示す。

四句のまとめ

おほよそ十方じっぽう世界せかいにあまねくひろまることは、法蔵ほうぞう菩薩ぼさつ四十八しじゅうはち大願だいがんのなかに、第十七だいじゅうしちがんに、「十方じっぽう無量むりょう諸仏しょぶつにわがなをほめられん、となへられん」とちかひたまへる、一乗いちじょう大智だいちかい誓願せいがん成就じょうじゅしたまへるによりてなり。『阿弥陀あみだきょう』のしょうじょうねんのありさまにてあきらかなり。しょうじょうねんおんこころは『大経だいきょう』にもあらはれたり。また称名しょうみょう本願ほんがん選択せんじゃく正因しょういんたること、この悲願ひがんにあらはれたり。このもんのこころはおもふほどはもうさず、これにておしはからせたまふべし。このもんは、善導法ぜんどうほっしょう禅師ぜんじもう聖人しょうにん御釈ごしゃくなり、この和尚かしょうをばほうどう和尚かしょうと、かく大師だいしはのたまへり。また『でん』にはざん弥陀みだ和尚かしょうとももうす、浄業じょうごう和尚かしょうとももうす。とうちょう光明寺こうみょうじ善導ぜんどう和尚かしょう化身けしんなり、このゆゑに善導ぜんどうもうすなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.703-704より)

 

〈現代語訳〉

 如来にょらい尊号そんごうがすべての世界せかいのすみずみにまでひろきわたるということは、法蔵ほうぞう菩薩ぼさつ四十八しじゅうはちがんのなか、第十七だいじゅうしちがんに「すべての世界せかい数限かずかぎりないほとけがたに、わたしの名号みょうごうをほめたたえられ、となえられよう」とおちかいになった、一乗いちじょう大智だいちかい誓願せいがん成就じょうじゅされたことによるのである。それは『阿弥陀あみだきょう』に、あらゆるほとけがたがねんぶつほう真実しんじつであると証明しょうめいし、念仏ねんぶつ行者ぎょうじゃをおまもりになるとしめされていることによってあきらかである。そのおこころは『無量寿経むりょうじゅきょう』にもあらわされている。また、称名しょうみょう念仏ねんぶつちかわれただいじゅうはちがんは、阿弥陀仏あみだぶつえらられた浄土じょうど往生おうじょうただしいいんであることが、この第十七だいじゅうしちがんにあらわされている。

 このもん意味いみは、十分じゅうぶんにいうことができていないけれども、これらのことによっておかんがえいただきたい。このもんは、善導ぜんどうばれるほっしょう禅師ぜんじという聖人しょうにん御文ごもんである。かく大師だいしは、この和尚かしょうのことをほうどう和尚かしょうおおせになっている。また伝記でんきには、廬山ろざん弥陀みだ和尚かしょうともいわれており、あるいは浄業じょうごう和尚かしょうともいわれている。このかたとう時代じだい光明寺こうみょうじにおられた善導ぜんどう大師だいし化身けしんであるから善導ぜんどうというのである。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.11-12より)

この四句のまとめとして、『仏説無量寿経』の「第十七願」と「第十八願」が不離ふり(切り離せない)の関係であることを改めて示している。つまり、「第十七願」で「すべての世界せかい数限かずかぎりないほとけがたに、わたしの名号みょうごうをほめたたえられ、となえられよう」と誓われたことより、「第十八願」での「乃至ないしじゅうねん」が称名しょうみょう念仏ねんぶつであるとした。これは、「第十七願」に十方諸仏に「ほめられん」「となへられん」と二つの意味があり、「となへられん」は名号を称える「称名念仏」であるとの解釈である。

最後にこの文の法照(※4)の小伝しょうでんを付け加えている。法照禅師が善導ぜんどうの生まれ変わりで「善導ぜんどう」と呼ばれていることや、別名に「ほうどう和尚かしょう」「弥陀みだ和尚かしょう」「浄業じょうごう和尚かしょう」があることを示している。ただし、これら別名については、法照とは別人であり、親鸞の誤りである。これは当時の天台宗てんだいしゅうにおける伝承でんしょうなどを採用さいようしたためと考えられる。

この後「ぶついんちゅうりゅうぜい」以下八句の釈に入っていく。

※1 偈
サンスクリット(梵語)の「ガーター」の音訳おんやくで「伽陀かだ」ともいう。韻文いんぶんで書かれた詩句しくのこと。(仏教知識「偈」参照)
※2 臨終来迎
浄土に往生したいと願う衆生の臨終に、阿弥陀如来が菩薩などをひきいてむかえにくること。迎接こうしょう引接いんじょうともいう。これは「浄土じょうど三部さんぶきょう」にそれぞれ説かれているが、親鸞は来迎をたのむ者は自力じりき行者ぎょうじゃであり、この往生は諸行しょぎょう往生おうじょうであるとして、他力念仏によって平生へいぜいに往生することが決まる『仏説無量寿経』「第十八願」による難思議往生をすすめた。
※3 法照(生没年不明 8世紀頃)
中国ちゅうごく唐代とうだいそう、「ほうしょう」とも読む。しょうおん(712~802)に師事しじした。「善導ぜんどう」とも呼ばれる。「五会ごえ念仏ねんぶつ」のそう唱者しょうしゃでこれは日本の天台宗てんだいしゅうにも伝わり大きな影響を与えた。著書に『浄土じょうど五会念仏ごえねんぶつりゃくほうさん』(『五会法事讃ごえほうじさん』一巻。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)

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