現生正定聚 (1)
「正定聚」については先に仏教知識「正定聚」を参照のこと。この記事では宗祖親鸞が主張した「現生正定聚」について解説する。この記事は前編であり、後編はこちらを参照のこと。
現生正定聚
仏教知識「正定聚」で述べたように、親鸞以前の浄土教では浄土における正定聚が説かれてきたが、親鸞は現世で正定聚が得られることを主張した。これを現生正定聚という。『親鸞聖人御消息』「第一通」にはこう述べられる。
真実の信心を得た人は、阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。だから、臨終の時まで待つ必要もありませんし、来迎をたよりにする必要もありません。信心が定まるそのときに往生もまた定まるのです。来迎のための儀式を当てにする必要はありません。
(『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』P.3-4より)
また親鸞は『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「証文類」にこう述べている。
さて、煩悩にまみれ、迷いの罪に汚れた衆生が、仏より回向された信と行とを得ると、たちどころに大乗の正定聚の位に入るのである。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.329より)
このように親鸞は衆生が信心を獲得したその時に正定聚の位に入ると述べた。これは現世でのことである。
また親鸞は『一念多念文意』(『一念多念証文』)の中で「正定聚」の左訓(※1)に「ワウジヤウスベキミトサダマルナリ(往生すべき身とさだまるなり)」と記している(『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』P.663より)。
現生十種の益
親鸞は『教行信証』「信文類」において衆生が現生で得られる利益として十種を挙げている。これを現生十益という。これは十番目の「正定聚に入る益」に収まる。詳しくは仏教知識「現生十種の益」を参照のこと。
真の仏弟子
親鸞は『教行信証』「信文類」において、現生で正定聚を得るものを「真仏弟子」と讃えた。
善導大師の『観経疏』に「真の仏弟子」(散善義)といわれている。真という言葉は偽に対し、仮に対するのである。弟子というのは釈尊や仏がたの弟子であり、他力金剛の信心を得た念仏の行者のことである。この他力回向の信と行によって、必ずこの上ないさとりを開くことができるから、真の仏弟子という。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.243より)
「真」については「偽」と「仮」に対するものだと述べた。「偽」はインドにあった「六十二見・九十五種」といわれた仏教以外の宗教思想を意味する。「偽の仏弟子」とは外面は仏弟子のふりをしているが内心は他の宗教を信じているものである。「仮」は聖道門や、浄土門の中の方便の教え(要門、真門)を意味している。「仮の仏弟子」は方便の教えを真実だと考えてしまっている行者である。
また「弟子」とは阿弥陀仏の救いを説かれた釈尊や諸仏の弟子だといった。そしてそのようなものを「真の仏弟子」と讃え、そのものたちは必ずさとりを開くことができる、すなわち正定聚を得ているとした。
次の生においてさとりを開く
仏教知識「正定聚」で述べたように、もともと正定聚は菩薩の修行の階梯でいうと初地(第41位)、もしくは八地(第48位)で得られるものだといわれていた。しかし親鸞は菩薩の上から2番目の位である等覚(第51位)を正定聚だとした。『尊号真像銘文』に次のように述べられている。
「成等覚」といふは正定聚の位なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.671より)
最高位の妙覚は仏である。次の位である等覚は菩薩の最高の位である。これは弥勒菩薩と同じ位になる。弥勒菩薩とは釈尊が亡くなってから56億7000万年後にこの世に現れてさとりを開き、衆生を救済するといわれている菩薩である。現在は次の世に成仏する一生補処(※2)の菩薩として兜率天に住しているといわれる。
弥勒とおなじ(便同弥勒)
親鸞は『教行信証』「信文類」において王日休の『龍舒浄土文』を引用し、不退転の位にあることを「便ち弥勒に同じ」といった。
王日休がいはく(龍舒浄土文)、「われ『無量寿経』を聞くに、<衆生、この仏名を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せんもの、かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す> と。不退転は梵語にはこれを阿惟越致といふ。『法華経』にはいはく、<弥勒菩薩の所得の報地なり> と。一念往生、便ち弥勒に同じ。仏語虚しからず、この『経』はまことに往生の径述、脱苦の神方なり。みな信受すべし」と。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.263より、下線は筆者が引いた)
またこの文に続いて『無量寿経』を引用し、不退転の菩薩たちのことを「次いで弥勒のごとし」といった。それぞれ「便同弥勒」「次如
『大経』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、<この世界より六十七億の不退の菩薩ありて、かの国に往生せん。一々の菩薩は、すでに曾無数の諸仏を供養せりき、次いで弥勒のごとし>」と。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.263より、下線は筆者が引いた)
不退転の位にある他力の念仏者は、この世界における命を終えれば阿弥陀仏の浄土に生まれてさとりを開くことが決まっている。一方弥勒菩薩は兜率天における命を終えて、この世界に生まれてさとりを開くと言われている。つまり、どちらも次の生においてさとりを開くという点では同じだといえる。このことを親鸞は「弥勒に同じ」と表現した。
如来とひとし(与諸如来等)
一方、親鸞は『親鸞聖人御消息』「第十一通」と「第三十二通」において、他力の念仏者を「如来とひとし(等しい)」とも述べている。
弥勒はすでに仏にちかくましませば、弥勒仏と諸宗のならひは申すなり。しかれば、弥勒におなじ位なれば、正定聚の人は如来とひとしとも申すなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.758より、下線は筆者が引いた)
まことの信心をえたる人は、すでに仏に成らせたまふべき御身となりておはしますゆゑに、「如来とひとしき人」と『経』に説かれ候ふなり。弥勒はいまだ仏に成りたまはねども、このたびかならずかならず仏に成りたまふべきによりて、弥勒をばすでに弥勒仏と申し候ふなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしと仰せられて候ふなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.794より、下線は筆者が引いた)
ここで「ひとし(等しい)」と「おなじ(同じ)」では意味が異なることに気をつけないといけない。「等」とは「全く同じ」ではなく「ほとんど同じ」という意味である。最高位である弥勒菩薩といえどもまだ仏(如来)にはなっておらず、仏と同じではない。
このように親鸞は正定聚を不退転(阿惟越致、阿毘跋致)、歓喜地、等正覚、便同弥勒、一生補処、与諸如来等などと同義語として用いた。
親鸞が行った漢文の読み換え
第十一願文・第十一願成就文
親鸞は『一念多念文意』の中で第十一願文と第十一願成就文を引用した。この際に読み換え(元の漢文を一般的な読み方とは違った読み方で読むこと)を行い、現生と彼土での正定聚を示した。以下に一般的な読み方と親鸞の読み方を並べる。
【一般的な第十一願文の読み方】
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.17より、下線は筆者が引いた)
【親鸞の第十一願文の読み方】
「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚にも住して、かならず滅度に至らずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるこころなり。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.679より、下線は筆者が引いた)
親鸞は第十一願文を「定聚に住し」ではなく「定聚にも住して」と読み換えた。「も」をつけ加えることで、この願で誓われる内容の中心が「必ず滅度に至ること」にあり、浄土における正定聚はこれに加えて誓われているということを強調した。
【一般的な第十一願成就文の読み方】
それ衆生ありて、かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.41より、下線は筆者が引いた)
【親鸞の第十一願成就文の読み方】
それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.680より、下線は筆者が引いた)
また親鸞は第十一願成就文を「かの国に生るるものは」ではなく「かの国に生れんとするものは」と読み換え、「浄土に生まれようとする者が、現世で信心を得たときに正定聚の利益を得る」と解釈した。
『浄土論』の読み換え
真宗七高僧第三祖である曇鸞大師が著した『往生論註』の中には、同じく第二祖天親菩薩が著した『無量寿経優婆提舎願生偈』(『浄土論』)で説かれた「荘厳妙声功徳成就」を解釈した文がある。親鸞はこの文を読み換えて引用している。
ここでは2つの漢文を比較するために親鸞の『教行信証』「証文類」の文を挙げたが、『一念多念文意』にもほぼ同じ文がある。内容はこちらの方がわかりやすい。
もしひと、ひとへにかの国の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すなはち正定聚に入るなり
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.681より)
親鸞はこの読み換えによって「生れんと願ふひと(浄土に生まれたいと願う者)」と「またすでに往生を得たるひと(既に浄土に往生した者)」との2種の正定聚があることを示した。これらはそれぞれ現生正定聚と彼土正定聚(浄土に往生した後に得る正定聚)にあたる。
広門示現相
親鸞の教えは往生即成仏であり、浄土に生まれたならばすぐにさとりを開いて仏になる。だから浄土には仏しかおられないことになる。しかし浄土には仏以外にも声聞・菩薩・天・人などがおられる。彼らは確かにさとりを開いているはずなのに、仏ではない。これをどう考えるか。
ここでは、さとりそのものが展開したすがたが仏・声聞・菩薩・天・人であり浄土の世界そのものであると考える。言い換えると、浄土も仏も声聞・菩薩・天・人もすべてさとりそのものにおさまってしまう。ここでいうさとりそのものを「略」、それが展開した浄土、仏、声聞・菩薩・天・人などを「広」とし、略は広に展開し、広は略におさまるという構造がある。
さらに言い換えると、浄土の菩薩方は外からみれば菩薩のすがたをしているが、実は内には仏のさとりを開いていることになる。このように外に菩薩のすがたをあらわすことを「広門示現相」という。親鸞がいう彼土正定聚とはこの広門示現相のことをいう。既に仏のさとりを開いているのだから正定聚に入っているのは当然のことである。
語注
- ※1 左訓
- 聖教の本文に対する註の一つ。説明の対象となる本文の左に、語句の説明や漢字の読みなどを記したもの。
- ※2 一生補処
- 一生を過ぎると、次の生涯には仏になることができる位。菩薩の最高位。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2011年)
[4] 『佛事勤行 佛説淨土三部經 (第二十刷)』(浄土真宗本願寺派 教学振興委員会 2003年)
[5] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[6] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[7] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[8] 『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[9] 『親鸞聖人の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2017年)
[10] 『真宗の往生論 ―親鸞は「現世往生」を説いたか―』(小谷信千代 法蔵館 2015年)
[11] 『親鸞の還相回向論』(小谷信千代 法蔵館 2017年)
[12] 『親鸞の往生思想』(内藤知康 法蔵館 2018年)
[13] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2008年)
[14] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[15] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[16] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[17] 『岩波 新漢語辞典 第三版』(山口秋穂・武田晃 編 岩波書店 2014年)