正定聚

【しょうじょうじゅ】

正定聚とは「必ずさとりを開いてぶつになることがまさしくさだまっているともがら」のこと。じゅの字には「寄りあつまる、よせあつめる」という意味があり、ここから「人々の集まり」「ともがら」の意味になる。

退転たいてん

さつ(仏教知識「菩薩」参照)が仏になることを目指して段階的に修行を進めていく中で、あるくらいに到達すると決してそこから退転たいてん(転落)しなくなる。退転しなくなること、あるいはそのようになる位のことを不退転という。親鸞しんらんは不退転を正定聚と同じ意味の言葉として用いたが、元々は両者は異なる段階で得られるものだった。

不退転と正定聚

原始経典きょうてんにおいては不退転と正定聚は生まれ変わり(りんてんしょう)によって得られるものとして説かれる。部派ぶは仏教のろんしょにおいては不退転はぼんの最高の位で得られ、その直後にしょうじゃの位により正定聚が得られると説かれる。大乗経典においてはこの順序が逆転し、先に正定聚を得てから不退転を得るように説かれており、不退転の方が正定聚よりも重要と考えられていた。

また不退転は原始経典では来世において得られるとされ、部派仏教の論書では現世げんぜにおいて得られるとされる。大乗だいじょう仏教の場合は般若はんにゃ経典においてはおおむね現世で得られるものとされ、浄土経典においては浄土に往生してから得るものとされる。

じゅうじゅう毘婆びばしゃろん』における不退転

りゅうじゅ菩薩(しんしゅう七高僧しちこうそうだい)は『十住毘婆沙論』においてげんしょう退たい(現世での不退転)と、不退(浄土に往生してからの不退転)の両方を説いた。前者はしょうぼんけい般若きょうもとづき、後者は『だいぼん般若経』や『りょう寿じゅきょう』の第十八願に基づく考え方である。

なお龍樹は菩薩の階梯かいていの内の初地しょじで不退転が得られるとした。それに対し天親てんじん菩薩(同じく第二祖)は八地はちじで不退転が得られるとした(※1)。

おうじょうろんちゅう』における不退転

曇鸞どんらん大師(真宗七高僧第三祖)は『往生論註』の冒頭で龍樹の『十住毘婆沙論』を引用し、正定聚がばっであると述べた。阿毘跋致とはぼんアヴァイヴァルティカ、またはアヴィニヴァルタニーヤのおんやくで、ゆいおっとも音訳される。これは不退転とやくされる。

つつしみてりゅうじゅさつの『十じゅうしゃ』(意)をあんずるに、いはく、「さつばっもとむるに、二しゅどうあり。一にはなんぎょうどう、二にはぎょうどうなり。 (略) ぎょうどうとは、いはく、ただ信仏しんぶつ因縁いんねんをもつてじょうしょうぜんとがんずれば、仏願力ぶつがんりきじょうじて、すなはちかの清浄しょうじょうおうじょう仏力ぶつりきじゅうして、すなはちだいじょうしょうじょうじゅる。しょうじょうはすなはちこればっなり。 (略) 」と。 (『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.47より)

ここを読めば、曇鸞が正定聚を浄土に往生した後のことだと考えていたこと、また正定聚と不退転(阿毘跋致)を完全に一つに結びつけたことがわかる。

また『じょうろん』の「荘厳しょうごんみょうしょうどくじょうじゅ」を解釈する箇所で曇鸞は次のように述べた。

きょうにのたまはく、「もしひと、ただかのこくしょうじょう安楽あんらくなるをきて、こくねんしてしょうぜんとがんずれば、またおうじょうて、すなはちしょうじょうじゅる」と。

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.119より)

ここでは彼の国土が清浄安楽であることを聞いただけで、心にきざむようにして往生を願う者は、往生を得てただちに正定聚に入ることが述べられる。ここからも曇鸞が正定聚を得るのは浄土に往生した後のことだと考えていたことがわかる。

曇鸞が正定聚を往生した後のことだと考えていた理由は2つある。1つには、後に述べるように『仏説無量寿経』の第十一願文と第十一願成就文において「浄土に往生したものが正定聚に住する」と説かれていたからである。もう1つには、浄土を願生する人は龍樹菩薩や天親菩薩のような例外を除けば皆この世にある限りは煩悩具足の凡夫であり、そのような者たちは阿弥陀如来の本願力によって浄土に往生して初めて正定聚の聖者にならせてもらえると考えていたからである。この考え方は中国・日本の浄土教の祖師方に共通していた。

また、曇鸞は正定聚がもん(※2)の中のごんもんだいしゅもんにあたるとした。

仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』にみられる正定聚

『仏説無量寿経』の第十一がんもんと第十一願じょうじゅもんに正定聚が出てくる。なお漢文の一部は新字に直し、句読点以外の訓点は省略し、『佛事勤行 佛説淨土三部經』を参照して振り仮名をつけた。

【第十一願文】
せつとくぶつ國中こくちゅう人天にんでんじゅ定聚じょうじゅ必至ひっし滅度めつどしゃしゅしょうがく(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.25より)

【第十一願成就文】
しゅじょうしょうこくしゃかいしつじゅしょうじょうじゅしょしゃぶつこくちゅうしょじゃじゅぎゅうじょうじゅ(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.43より)

書き下すと次のようになる。

【第十一願文】
たとひわれぶつたらんに、国中こくちゅう人天にんでん定聚じょうじゅじゅうし、かならず滅度めつどいたらずは、しょうがくらじ。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.17より)

【第十一願成就文】
それ衆生しゅじょうありて、かのくにうまるるものは、みなことごとく正定しょうじょうじゅじゅうす。ゆゑはいかん。かの仏国ぶっこくのなかにはもろもろの邪聚じゃじゅおよびじょうじゅなければなり。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.41より)

第十一願文には浄土に往生した者(国中の人天)が正定聚に入り、必ず浄土においてさとりを開く(滅度に至る)ことが誓われている。つまり、正定聚に入るのは浄土でのことである。

正定聚は浄土か現世か

ここまでみてきたように、『仏説無量寿経』には浄土における正定聚が説かれていた。龍樹が説いた不退転は『無量寿経』に基づく場合は浄土でのことだった。曇鸞は不退転と正定聚を同一のものとみなし、浄土に往生してから得るものだと考えた。

しかし宗祖親鸞は『無量寿経』の教えに基づき、浄土だけでなく現世で正定聚が得られることを主張した。これを現生正定聚という。

さんじょうじゅ

正定聚に対しじゃじょうじゅじょうじゅという語句があり、3つを合わせて三定聚という。これらは先に引用した第十一願成就文の中に「正定之聚」「邪聚」「不定聚」として出てきている。

天親が著した『だつしゃろん』によれば邪定聚とは邪悪な行為によって悪道にちることが決定けつじょうしているものをいう。また不定聚とは正定聚でも邪定聚でもない者をいう。修行をしており、進めば正定聚、退けば邪定聚という不安定な状態にある。

親鸞の解釈

親鸞は『教行信証』「信文類」の標挙の文に

至心信楽之願 正定聚之機

(『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』P.66より)

同じく「化身土文類」の標挙の文に

至心発願之願 邪定聚機

至心回向之願 不定聚機

(『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』P.182より)

と記した(仏教知識「顕浄土真実教行証文類」、仏教知識「生因三願」なども参照のこと)。これにより3つの願を以下のように三定聚に対応させた。このように解釈したのは親鸞が初めてである。

しんしんぎょうの願(第十八願)正定聚の機 第十八願に説かれる他力念仏を
修めるものは正定聚に入る
至心発願ほつがんの願(第十九願)邪定聚の機 第十九願に説かれる自力修行を
修めるものは邪定聚に入る
至心回向えこうの願(第二十願)不定聚の機 第二十願に説かれる自力念仏を
修めるものは不定聚に入る

なお「機」とは仏の説法の対象であり、救済の目当てであるもののことをいう。また機の上に実現している信心の徳を機と呼ぶこともあり、「正定聚の機」などという場合はこちらの意味になる。つまり正定聚の機とは本願の教えを正しく聞いて必ず仏になるべき身に定まった者のことをいう。

親鸞が第十八願の教えを聞くものを正定聚といった理由は2つある。1つには、第十八願に説かれる信心(信楽)は阿弥陀仏の心であり、それは往生成仏の正因しょういんとなるからである。必ず往生成仏するのだから正定聚である。もう1つには、第十八願の信心をいただいたものは阿弥陀仏が摂め取って捨てないからである。このことを「親鸞聖人御消息」第一通だいいっつうで述べている。

真実しんじつ信心しんじんひとは、阿弥陀あみだぶつおさっておてにならないのでしょうじょうじゅくらいさだまっています。

(『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』P.3より)

また第十九願に説かれる自力修行は、阿弥陀仏が選択された正行(正当な往生行)に対し邪雑の行(邪な行)といわれる。だから、その行を修めるものは邪定聚に入るとした。

第二十願に説かれる自力念仏については、阿弥陀仏より与えられた名号(南無阿弥陀仏)を称えているのだから正行であるが、称えるものの心には邪定聚のものと同じように自力心が混じってしまっている。この自力心を離れれば正定聚に入れるが、逆に自力心を強めていくと邪定聚に転落してしまう。このような中間的な存在であるから不定聚と呼ぶのにふさわしいといえる。

語注

※1 初地と八地に解釈が分かれた理由
菩薩の修行階梯である十地について説いた『十地経』の註釈ちゅうしゃくしょとして龍樹は『十住毘婆沙論』を著し、天親は『十地経論』を著した。『真宗の往生論』P.78によれば、『十地経』の鳩摩羅くまらじゅう訳『十住経』には初地で不退転が得られると解釈できる記述があり、同じく菩提ぼだい流支るし訳『十地経』には八地で不退転が得られると解釈できる記述がある。この違いにより2人の解釈が分かれたものとみられる。
※2 五果門
五念門の行を修めることによって浄土に往生し、果として得られる徳のこと。「五種の功徳」「五功徳門」ともいう。
①近門
②大会衆門
宅門たくもん
屋門おくもん
園林おんりん遊戯ゆげもん
がある。

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[2] 『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2011年)
[3] 『佛事勤行 佛説淨土三部經 (第二十刷)』(浄土真宗本願寺派 教学振興委員会 2003年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[5] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[6] 『真宗の往生論 ―親鸞は「現世往生」を説いたか―』(小谷信千代 法蔵館 2015年)
[7] 『親鸞の還相回向論』(小谷信千代 法蔵館 2017年)
[8] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[9] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[10] 『岩波 新漢語辞典 第三版』(山口秋穂・武田晃 編 岩波書店 2014年)

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曇鸞(476~542頃)。 中国の雁門(がんもん 現在山西省)に生まれる。 『大集だいじつきょう』の注釈中に病に倒れた後、 長生不老の仙経(仏教ではない教え)を陶弘景とうこうけいから授かった。 その帰途に洛陽において、『浄土論』の漢訳者である北インド出身の僧、 菩提流支ぼだいるしに会い、『観無量寿経』を示された。 直ちに曇鸞は自らの過ちに気付き、仙経を焼き捨て浄土教に帰依した。 著書に『往生論註』(浄土論註)・『讃阿弥陀仏偈』などがある。 真宗七高僧第三祖。
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