現生正定聚 (2)

【げんしょうしょうじょうじゅ 02】

正定聚しょうじょうじゅについては先に仏教知識「正定聚」を参照されたい。この記事ではしゅう親鸞しんらんが主張した「現生正定聚」について解説する。こちらは後編となる。前編は仏教知識「現生正定聚 (1)」を参照のこと。

親鸞が現生正定聚を主張した理由

仏教知識「正定聚」で述べたように、親鸞以前の浄土教では浄土における正定聚が説かれてきたが、親鸞は現生での正定聚を主張した。ここでは親鸞がそう主張した理由について述べる。『親鸞聖人しょうにんの教え』と『聖典せいてんセミナー 信の巻』によると、「他力の念仏者は凡夫ぼんぶでありながら聖者しょうじゃの徳を持っているから」と「他力の念仏者は如来にょらい摂取せっしゅしゃのはたらきの中にあるから」という2つの理由がある。順に解説する。

凡夫でありながら聖者の徳を持っている

親鸞は『入出にゅうしゅつもん』の中で次のように述べた。

煩悩ぼんのうをそなえたぼんが、ほとけ本願ほんがんのはたらきによって信心しんじんる。
このひとはただのおろかなぼんではなく、どろなかしろはすはなのようなひとなのである。

(『浄土真宗聖典 浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』P.59より)

これによると、信心しんじんをいただいて他力の念仏をとなえる凡夫はもはや凡夫ではなく、聖者であるといえる。親鸞はこのような人を泥沼どろぬまの中に咲くびゃくれん(原文では「ふん」)のようだとたたえた。こう言えるのは、この信心は凡夫の心ではなく、この信心の本体は如来からいただいた慈悲じひ智慧ちえであるからである。『けんじょうしんじつきょうぎょうしょうもんるい』(『きょうぎょうしんしょう』)「信文類しんもんるい」にも次のように述べられている。

このこころ、すなわちしんぎょうは、ぶつおおいなるこころにほかならないから、かならしんじつほうにいたるしょういんとなるのである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.204より)

このように、凡夫の信心は阿弥陀あみだぶつから与えられた慈悲の心であるから、浄土に生まれてさとりを開くまさしきいんとなることが述べられる。

これらのことから、凡夫は現世げんぜ現生げんしょう)において煩悩ぼんのう具足ぐそくの凡夫であるままで聖者の徳をいただいているといえる。だから親鸞はそのようなものを「正定聚の」(本願の教えを正しく聞いて必ずぶつになるべき身に定まった者)といい、等覚とうがくの位にあると述べた(仏教知識「正定聚」の「三定聚」、および仏教知識「現生正定聚(1)」の「次の生においてさとりを開く」参照)。

如来の摂取不捨のはたらきの中にある

親鸞は『親鸞聖人消息しょうそく』「第一通」でこう述べている。

真実しんじつ信心しんじんひとは、ぶつおさっておてにならないのでしょうじょうじゅくらいさだまっています。

(『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』P.3より、下線は筆者が引いた)

下線部の内容は摂取不捨という言葉で表される。詳しくは仏教知識「摂取不捨」を参照のこと。他力の念仏者は阿弥陀仏の摂取不捨のはたらきに救われている。捨てないのだから、浄土に往生しなくなるはずがない。つまり現生において退転たいてんであり、正定聚に入っている。

現生正定聚の根拠

経典に説かれる根拠

親鸞は現生正定聚を主張するために『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』と『じょうろん』のもんを読み替えた(仏教知識「現生正定聚(1)」参照)が、これは自分勝手に読み替えたわけではなくしっかりとした根拠がある。『仏説無量寿経』にはこの経の教えを聞いた時点で不退転になることが説かれている。

もしこのおしえをいたなら、この上ないさとりをひらくまでけっしてあともどりすることはないであろう。

(『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.148 より、下線は筆者が引いた)

また、『仏説阿弥陀経』にも教えを聞いた時点で不退転の位に入ることが説かれている。

しゃほつよ、もし善良ぜんりょうなものたちが、このようにほとけがたがおきになる阿弥陀あみだぶつとこのきょうくなら、これらのものはみな、すべてのほとけがたにまもられて、このうえないさとりにかって退しりぞくことのないくらいいたことができる。

(『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.227-228 より、下線は筆者が引いた)

同様に、浄土に生れることを願った時点で不退転の位に入ることも説かれている。「すでに願い」「今願い」「これから願う」と並べることで、願った時点で不退転の利益を得ることが強調されている。また「これから生れる」と述べられているのは現生で不退転に入ることを表している。

舎利弗しゃりほつよ、もし人々ひとびと阿弥陀あみだぶつくにうまれたいとすでにねがい、または今願いまねがい、あるいはこれからねがうなら、みなこのうえないさとりにかって退しりぞくことのないくらいいた、そのくににすでにうまれているか、または今生いまうまれるか、あるいはこれからうまれるのである。

(『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.228 より、下線は筆者が引いた)

論釈ろんしゃく(※1)に説かれる根拠

さらに真宗しんしゅう七高僧しちこうそうだいである龍樹りゅうじゅ菩薩ぼさつの『十住じゅうじゅう毘婆びば沙論しゃろん』「易行品いぎょうぼん」にも、信を得て念仏するものがただちに不退転の位に至ることが示されている。

ひとよくこのぶつりょうりきとくねんずれば、即時そくじ必定ひつじょうに入る。

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.16より)

また、親鸞は『教行信証』「行文類」において同じく第三祖である曇鸞どんらん大師だいしの『往生おうじょう論註ろんちゅう』を引用した後、次のように述べた。

このようなわけで、真実しんじつぎょうしんると、こころおおきなよろこびにたされるので、このぎょうしんくらいかんというのである。
(略)
そこで、りゅうじゅさつは「そくときひつじょうはいる」といわれ、どんらんだいは「しょうじょうじゅくらいはいる」といわれたのである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.109-110より)

親鸞が龍樹と曇鸞の教えを踏まえていることがわかる。

補足

親鸞が主張した現生正定聚についてここまで解説してきたが、いくつかの点について補足しておく。

親鸞の語句の使い方

親鸞は正定聚・不退転(阿毘あびばっゆいおっ)・かん喜地ぎじいっしょうしょ便べんどうろくとうしょうがくしょ如来にょらいとうなどの語を同じ意味の語句として用いている。その理由についてはここまで述べてきた通りである。

親鸞がすすめるなん往生おうじょう

ここまで「往生」という語句を用いてきたが、親鸞が勧めるのは「難思議往生」である。仏教知識「自力」の「三願転入」や仏教知識「往生」にもあるように、親鸞は自身の信仰体験を通して辿り着いた結論である難思議往生を勧めている。『教行信証』「信文類」において次のように述べた。

念仏ねんぶつ衆生しゅじょう横超おうちょう金剛心こんごうしんきわむるがゆゑに、臨終りんじゅう一念いちねんゆうべ大般だいはつ涅槃ねはん超証ちょうしょうす。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.264より)

【現代語訳】
念仏ねんぶつ衆生しゅじょう他力たりき金剛心こんごうしんているから、このいのちえて浄土じょうどうまれ、たちまちに完全かんぜんなさとりをひらく。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.257より)

大般涅槃とは完全なさとりの境地をいう。ここに書かれているように、他力の金剛心(信心)を阿弥陀仏からいただいて、他力念仏を称え、真実の浄土に生まれてさとりを開くのが難思議往生である。「行文類」にも

往生おうじょうはすなはちなんおうじょうなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.202より)

と述べている。また親鸞は「証文類」のひょうもんに「必至ひっしめつの願(第十一願) 難思議往生」と掲げ(仏教知識「顕浄土真実教行証文類」参照)、正定聚について説かれた第十一願と難思議往生とを結びつけた。

往生おうじょうそく成仏じょうぶつ

なお先に引用した「信文類」の文に書かれているように、親鸞の教えにおいては浄土に往生したものはたちまちに完全なさとりを開いて仏となる。このことを「往生即成仏」という。

  • 往生したならば、必ずさとりを開く
  • さとりを開くのは必ず浄土でのことである(後に述べる「正定しょうじょう滅度めつど」を参照のこと)

これらのことから、親鸞の教えにおいては往生と成仏は同じことをいっている。

正定しょうじょう滅度

浄土真宗の教えにおいては現生において正定聚に入り、浄土に往生してからさとりを開く。これらを混同して、現生においてさとりを開くと解釈するのは誤りである。このことは「安心論題」の中に設けられた「正定滅度」という論題で解説されている。

平生へいぜい業成ごうじょう

現生正定聚とは生きている間に正定聚に入るという考え方である。ここで「いつ正定聚に入るのか?」という問題が考えられる。それは命が終わる時ではなく、阿弥陀仏のはたらきが私に届いた時である。つまり臨終りんじゅう時ではなく平生において浄土に往生できることが決まるのである。このことは「安心論題」の中に設けられた「平生業成」という論題で解説されている。

即得そくとく往生おうじょう

『仏説無量寿経』の本願成就文には「即得往生」が説かれている。「往生」とは書かれているが、これは現生で信心を得たものが即座に正定聚に就き定まることを示しているのであって、現生で往生することを示してはいない。詳しくは仏教知識「即得往生」を参照のこと。

語注

※1 論、釈
仏典ぶってんの分類の一種に経論釈というものがある。経は釈尊しゃくそんが直接説かれた教えを著したもの、論は菩薩方が経をけてその内容を解釈した著述ちょじゅつ、釈は経や論の内容を承けて高僧方がさらに詳しく書いた著述をいう。

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2007年)
[2] 『浄土真宗聖典 浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2009年)
[3] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2011年)
[5] 『佛事勤行 佛説淨土三部經 (第二十刷)』(浄土真宗本願寺派 教学振興委員会 2003年)
[6] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[7] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[10] 『親鸞聖人の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2017年)
[11] 『真宗の往生論 ―親鸞は「現世往生」を説いたか―』(小谷信千代 法蔵館 2015年)
[12] 『親鸞の還相回向論』(小谷信千代 法蔵館 2017年)
[13] 『親鸞の往生思想』(内藤知康 法蔵館 2018年)
[14] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2008年)
[15] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[16] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[17] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[18] 『岩波 新漢語辞典 第三版』(山口秋穂・武田晃 編 岩波書店 2014年)

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