即得往生

【そくとくおうじょう】

出典

「即得往生」の語は、「浄土じょうどさんきょう」では『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』(『無量寿経』)と『仏説阿弥陀あみだきょう』(『阿弥陀経』)の中に現れる。また『無量寿経』のやく(同じ原典げんてんから翻訳ほんやくされた別のきょうてん)である『仏説だいじょうりょう寿じゅしょうごんぎょう』(『しょうごんきょう』)(※1)と、親鸞のあらわした『一念いちねんねんもん』(『一念多念しょうもん』)・『唯信ゆいしんしょうもん』・『禿とくしょう』にも現れる。この記事では主に『無量寿経』における「即得往生」の意味を解説し、他の箇所については軽く触れる。

概要

先に結論を書くと、『無量寿経』における「即得往生」とは「げんにおいて、真実の信心を得て即座に阿弥陀あみだぶつ摂取せっしゅしゃやくにあずかり、しょうじょうじゅくらいき定まること」を表した語である。「往生」とあるが、ここではじょうへの往生ではなく正定聚を意味している。しゅう親鸞しんらんが説いたのは現世で正定聚の位に入る教えであり、「即得往生」は決して現世での浄土往生を表してはいない。この記事ではこのことを解説する。

なおこの記事の執筆に際しては真宗大谷派のだにのぶ氏が著した『真宗の往生論 ―親鸞は「現世往生」を説いたか―』の「第二章 親鸞の往生論」や、浄土真宗本願寺派のかけはし實圓じつえん氏が著した『聖典セミナー 教行信証 信の巻』の「即得往生について」の項を参考にした。特に小谷氏は他にも多数の本を著し、「現世往生説は即得往生の誤解に基づく誤りである」と厳しく指摘している。また、記事中の引用文いんようもんにおいては一部の漢字を筆者が新字体に直した。引かれた下線も筆者によるものである。

本願ほんがんじょうじゅもんにおける「即得往生」

『無量寿経』ではだいじゅうはちがん成就文(本願成就文)(仏教知識「本願成就文」参照)に「即得往生」が現れる。

諸有衆生聞其名号、信心歓喜、乃至一念至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転。唯除五逆誹謗正法。

(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.43より)

【書き下し文】
あらゆるしゅじょう、その名号みょうごうきて信心しんじん歓喜かんぎせんこと、ない一念いちねんせん。しんこうしたまへり。かのくにうまれんとがんずれば、すなはちおうじょう退転たいてんじゅうせん。ただぎゃくほうしょうぼうとをばのぞ

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.41 より)

下線部は「かの国に生れようと願えば、すぐに往生して」と、生きている間に往生するかのように読むことができる。親鸞は『一念多念文意』でこれを解説している。

即得そくとくおうじょう」といふは、「そく」はすなはちといふ、ときをへず、をもへだてぬなり。また「そく」はつくといふ、そのくらいさだまりつくといふことばなり。「とく」はうべきことをえたりといふ。真実しんじつ信心しんじんをうれば、すなはち無礙むげ光仏こうぶつおんこころのうちに摂取せっしゅしててたまはざるなり。せつはをさめたまふ、しゅはむかへとるともうすなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・をもへだてず、正定聚しょうじょうじゅくらいにつき定まるを「往生おうじょう」とはのたまへるなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.678-679 より)

また、上記の「正定聚」のくん(※2)に「往生すべき身とさだまるなり」と記している(仏教知識「現生げんしょう正定聚 (1)」参照)。ここに書かれた語句説明をまとめると次のようになる。

    • すなはち、ときをへず(経ず)、日をもへだてぬ(隔てぬ)
    • つく(就く)、その位に定まりつく
    • うべきことをえたり(得るべきことを得た)
    • をさめたまふ(摂めたまふ)
    • むかへとる(迎え取る)
  • 往生を得
    • とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まる
  • 正定聚
    • ワウジャウスベキミトサダマルナリ(往生すべき身とさだまるなり)

下線部で親鸞は「本願成就文に『往生を得』と書かれているのは、ただちに正定聚の位に就くことを意味している」と解説している。本願成就文では往生の語が特殊な使い方をされているため、親鸞はそれを解説する必要があった。この解釈を往生全般に拡げて「親鸞は、正定聚の位に就くことがただちに往生を得ることになると考えていた」と解釈するのは誤りである。

また、「得」を「うべきことをえたり」と解説しているのは「亡くなった後に得なければならない浄土往生が、今すでに約束されたものとして得られた」ということである。さらに正定聚の左訓は「正定聚 = 往生すべき身と定まること」を解説している。ここでもし「正定聚 = 浄土往生」になるのであれば「正定聚 = 浄土往生 = 往生すべき身と定まること」となってしまう。もう浄土往生しているのを「往生すべき身と定まる」と表現するのはおかしい。つまり本願成就文において現世で「即得」されるのは正定聚であり、往生ではない。

同様に、親鸞は『唯信鈔文意』でも「即得往生」を解説している。ここでも往生が文字通りの往生ではないことが述べられている。

即得往生そくとくおうじょう」は、信心しんじんをうればすなはち往生おうじょうすといふ。すなはち往生おうじょうすといふは不退転ふたいてんじゅうするをいふ。不退転ふたいてんじゅうすといふはすなはち正定聚しょうじょうじゅくらいさだまるとのたまふのりなり。これを「即得往生そくとくおうじょう」とはもうすなり。「そく」はすなはちといふ。すなはちといふは、ときをへず、をへだてぬをいふなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.703より)

『荘厳経』『阿弥陀経』における「即得往生」

『無量寿経』の他、「即得往生」は『荘厳経』に2箇所、『阿弥陀経』に1箇所現れる。『荘厳経』では「にんりんじゅう」という語の後に、『阿弥陀経』においては「にんじゅう」という語の後に「即得往生」が現れる。つまりいずれも亡くなった後の往生である(原文を付録に載せる)。

『愚禿鈔』における「即得往生」

善導ぜんどうだい(真宗しち高僧こうそう第五)は『おうじょうらいさん』「ぜんじょ」に

(前略)前念ぜんねん命終みょうじゅうしてねんにすなはちかのくにしょうじ、じょうようごうにつねに無為むい法楽ほうらくく。

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』 P.660-661より)

と述べた。親鸞はこれをけて『愚禿鈔』に次のように述べた。

本願ほんがん信受しんじゅするは、前念ぜんねんみょうじゅうなり。「すなはち正定聚しょうじょうじゅかずる」(論註・上意)と。文
即得往生そくとくおうじょうは、後念ごねん即生そくしょうなり。「そくとき必定ひつじょうる」(易行品 一六)と。文
また「必定ひつじょう菩薩ぼさつづくるなり」(地相品・意)と。文

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.509 より)

善導は「前念命終」を今生こんじょうの命が終わること、「後念即生」を死後浄土へと生まれることとした。しかし親鸞はこの意味を転換し「前念命終」を本願を信受することとした。これは本願成就文でいうと「信心しんじんかん」「がんしょうこく」にあたる。自力の心を離れることになるので「命終」としている。また「後念即生」を本願成就文における「即得往生」、つまり摂取不捨の利益にあずかることとした。如来にょらいの救いの光明こうみょうの中に生れることになるので「即生」としている。

これを承けて本願寺第3代覚如かくにょは『最要さいようしょう』に命終には「しんの命終」と「しんの命終」の2つがあるといった。心の命終とは、本願を聞いて自力のはからいが死んで本願他力を信じるようになり、それと同時に摂取不捨の利益にあずかって正定聚の位に住する身としてよみがえることをいう。覚如はこれを即得往生とした。

「即得往生」の二つの意味

親鸞は『けんじょうしんじつきょうぎょうしょうもんるい』(『きょうぎょうしんしょう』)「ぎょうもんるい」の中で「即得往生」に代えて「ひつとくおうじょう」という語を用いている。

 「必得往生ひつとくおうじょう」とは、この不退転ふたいてんくらいいたることをあらわしている。『無量寿経むりょうじゅきょう』には「即得そくとく」とかれ、『十住じゅうじゅう毘婆びば沙論しゃろん』には「必定ひつじょう」といわれている。「そく」のは、本願ほんがんのはたらきのいわれをくことによって、真実しんじつ報土ほうど往生おうじょうできるいんさだまるまさにそのときということをあきらかにしめされたものである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.75-76より)

親鸞は「必得往生」を「(浄土に往生することではなく)正定聚・不退転の位に至ることを意味する語である」と説明した(※正定聚は親鸞にとっては不退転と同じ意味である)。そしてこれは『無量寿経』においては「即得」であり、「即」とは「真実の浄土に往生できる因が定まるまさにその時」であると述べた。つまり、この語は浄土への往生がけつじょうすることではなく、浄土に往生できる因が決定することを意味していると述べた。

もともと「必得往生」は善導が『往生おうじょう礼讃らいさん』の中で本願成就文をしゅ的に(筆者の意図するところをくみ取って言い換えて)引用した箇所に出てきている。親鸞はこの善導の文を引用した後に先の文を書いて説明した。

かのぶついまげんにましまして成仏じょうぶつしたまへり。まさにるべし、ほんぜいじゅうがんむなしからず、衆生しゅじょう称念しょうねんすればかならず往生おうじょう

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』 P.711より)

下線部が「必得往生」にあたる。本来「即得往生」は亡くなった後の往生を表す語である。しかし本願成就文では亡くなった後のことについては言及されていない。そのため、ここで「即得往生」の語が用いられるのは不適切である。そう考えた親鸞は「即得往生」に代えて「必得往生」を引用し、注釈を加えた。これにより親鸞は本願成就文が「信心を得れば即時ではなく、やがて必ず往生する」ことを述べたものであることを明らかにした。

この文により親鸞は「即得往生」に二通りの用法があることを示した。一つは『荘厳経』『阿弥陀経』にみられる「亡くなった後に往生を得ること」という本来の用法である。もう一つはここで述べた「必得往生」としての用法である。

なぜ『無量寿経』に「即得往生」と説かれたのか

では、なぜ本願成就文において本来の用法とは違った使い方で「即得往生」が用いられたのか。その理由について梯氏は

信心を得て、往生するべき身に定まったとき、浄土へ往生するという果徳の顕現は、一分の不確かさもなく必然のこととして成就していくことから、念仏の衆生は、娑婆にありながら、阿弥陀仏の眷属であり、根源的には如来の秩序下に置かれていることを強調するため

(『聖典セミナー 教行信証 信の巻』P.338より)

と親鸞が考えていたのではないかと述べている。小谷氏は次のように述べている。

「即得往生」をこのような意味で用いることは明らかに用語の間違いである。しかし親鸞にとって『無量寿経』は真実の教であり間違いとして認めるわけにはいかない。それゆえ右記のように会通せざるを得なかったのである。

(『真宗の往生論 ―親鸞は「現世往生」を説いたか―』P.234より)

異訳との比較

『無量寿経』の異訳の中にも本願成就文に相当する文がある。『荘厳経』には「皆得往生」とあり、これが「即得往生」に相当する。直前に「是人命終」という語が付いているので、ここで言及されているのは亡くなった後の往生であることがわかる。『無量寿如来会』(『如来会』)には「随願皆生」とあり、これが「即得往生」に相当する。この文からは往生が生きている間のことか亡くなった後のことかはわからないが、「即得」とは書かれていないので生きている間のこととは明言されていない。これら異訳の本願成就文を付録に載せておく。小谷氏は異訳との比較を行い、『無量寿経』や本願成就文の成立時期に触れた後、次のように述べている。

これら諸教授の研究を参考にするとき、新たに挿入された段落中の「即得往生」の教説が、浄土教本来の往生思想とは相容れない般若思想に基づくものであることが明らかになる。般若思想の影響を受けて、『無量寿経』第十八願成就文に無量寿経本来の命終・往生とは異なる「即得往生」の教説が登場することになったと考えられる。
(中略)
上記のように親鸞はその教説の特異性に気づいており、それゆえそれが文字通り「真実信心を得れば即座に往生すること」を意味するものでなく、「真実信心を得れば即座に正定聚につくこと」を意図するものであることを、「往生すべき身と定まるなり」という左訓を付して示そうとしたのである。

(『真宗の往生論 ―親鸞は「現世往生」を説いたか―』P.241より)

まとめ

親鸞の解釈では「浄土三部経」に現れる「即得往生」はいずれも亡くなった後の浄土往生のことである。親鸞は現世での往生を説いてはいない。『無量寿経』の本願成就文にみられる「即得往生」は紛らわしいが、これは文字通りの往生ではなく現生正定聚を表している。正定聚の位についた者はやがて必ず往生するので、親鸞はこれを「必得往生」とも表現した。

「即得往生」が説かれる本願成就文には「他でもないこの私が、どのように救われるのか」ということが示されている。すなわち、自力の心を無くし本願他力の教えを受け入れることによって(『愚禿鈔』でいうところの)「命終」し、そして現世で阿弥陀仏の摂取不捨の利益にあずかって往生成仏すべき身として(『愚禿鈔』でいうところの)「即生」することが説かれる。そしてその者はやがて亡くなれば必ず浄土へと往生していくのである。

語注

※1 仏説大乗無量寿荘厳経(荘厳経)
『浄土真宗辞典』P.577には「ぶっせつだいじょうむりょうじゅしょうごんょう」のだしで記載されているが、P.346には「ぶっせつだいじょうむりょうじゅしょうごんょう」と表記されている。略称の『荘厳経』についてはP.346で「しょうごんょう」の見出語で記載されている。統一感がないが、この記事では読み方はそれぞれの見出語に従い「ぶっせつだいじょうむりょうじゅしょうごんょう」、「しょうごんょう」とした。
※2 左訓
聖教の本文に対する註の一つ。説明の対象となる本文の左に、語句の説明や漢字の読みなどを記したもの。

付録

『荘厳経』に現れる「即得往生」

是人臨終、無量寿如来与諸聖衆現在其前、経須臾間、即得往生極楽世界、不退転於阿耨多羅三藐三菩提。

(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.367より)

 

是人臨終、不驚不怖、心不顛倒、即得往生彼仏国土。

(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.368より)

『仏説阿弥陀経』に現れる「即得往生」

是人終時、心不顛倒、即得往生阿弥陀仏極楽国土。

(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.108より)

『荘厳経』に説かれる本願成就文

欲令衆生聞彼仏名、発清浄心、憶念受持、帰依供養、求生彼土。是人命終、皆得往生極楽世界、不退転於阿耨多羅三藐三菩提。

(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.367より)

『如来会』に説かれる本願成就文

他方仏国所有衆生、聞无量寿如来名号乃至能発一念浄信、歓喜愛楽、所有善根廻向、願生無量寿国者、随願皆生、得不退転乃至無上正等菩提。除五無間誹毀正法及謗聖者。

(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.321-322より)

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『浄土真宗聖典全書(四) 相伝篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2016年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[6] 『真宗の往生論 ―親鸞は「現世往生」を説いたか―』(小谷信千代 法蔵館 2015年)
[7] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2008年)
[8] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)

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