摂取不捨
摂取不捨とは、阿弥陀仏が念仏を称えるものを摂め救い取って決して捨てないことをいう。これは亡くなったときに必ず極楽浄土へと生まれさせ、さとりを開かせるということである。この言葉は『仏説観無量寿経』(『観経』)の「正宗分」、定善十三観の中の真身観について説かれた箇所に出てきている。
一一光明、徧照十方世界念仏衆生、摂取不捨。
(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.87より
下線は筆者が引いた。旧字は新字に直した。返り点、送り仮名は省略した。)【書き下し文】
一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.102より、下線は筆者が引いた)
【現代語訳】
(前略)その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである。(『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.184より、下線は筆者が引いた)
善導の解釈
このように『観経』には念仏者が摂め救い取られることが説かれている。ではなぜ阿弥陀仏は念仏者だけを摂め取られるのか。その理由について、真宗七高僧第五祖である善導大師は『観無量寿経疏』の「定善義」の中で次のように述べている。
三縁
まず「さまざまな行を修めて、それをさとりのために回向すれば誰でも往生ができる。それにも関わらず、阿弥陀仏の光明は全てを照らしながらもただ念仏者だけを摂め取られる。それは何故なのか?その意図はどこにあるのか?」と問いを設けている。そして「親縁」「近縁」「増上縁」の三つの理由を挙げ、それぞれについて解説する。
善導によれば親縁とは阿弥陀仏と念仏者との「親しい関係」である。衆生が阿弥陀仏の名を口に称えれば、阿弥陀仏はそれをお聞きになる。衆生が阿弥陀仏を礼拝し敬うならば、阿弥陀仏はその様子をご覧になる。衆生が阿弥陀仏を憶念(※1)すれば、阿弥陀仏もまた衆生を憶念される。このように、仏と衆生の身口意の三つのはたらき(彼此三業)が離れることはない。
近縁とは「近しい関係」である。衆生が阿弥陀仏を見たいと願うとき、阿弥陀仏はその願いに応じて目の前に姿を現される。
増上縁とは「特にすぐれた関係」である。衆生が称名念仏すれば遙かなる過去より犯してきた罪が除かれ、命終わる時に阿弥陀仏が迎えに来て浄土に導き入れてくださる。どのような悪い行為や煩悩もその妨げにはならない。無障礙ともいわれる。
「浄土三部経」で讃えられる念仏の功徳
さらに善導は念仏以外の行について、どのような善行であっても念仏とは比べものにならないと述べる。そして、そのような理由があるから諸々の経典の中で念仏の功徳(はたらき)が広く讃えられているのだと述べ、「浄土三部経」のそれぞれの経典から称名念仏について讃えた部分を紹介している。ここに善導独自の見方がある。
まず『仏説無量寿経』について「四十八願の中で専ら称名念仏して浄土に往生することが明かされている」と述べる。次に『仏説阿弥陀経』について「一日あるいは七日の間、専ら称名念仏することによって往生できること」と、「十方世界の無数の諸仏がそれを真実であると証明してくださっていること」が説かれていると述べる。さらに『仏説観無量寿経』について「定善の行、散善の行について説かれた文の中に、専ら阿弥陀仏の名号を称えて往生できることが説かれている」と述べる。
このようにして善導はひたすら称名念仏することがいかに大切かを明らかにした。
法然の解釈
『観無量寿経疏』に述べられた前節の内容は、真宗七高僧第七祖の法然聖人が著した『選択本願念仏集』の「摂取章」に全て引用されている。法然はこれを引用した後に自らの解釈を述べた。
まず善導と同じように「阿弥陀仏の光明がただ念仏する者だけを照らし、他の行を修める者を照らさないのにはどのような意図があるのか?」と問いを設ける。
次にこれに答えて「二つの意義がある」とし、その一つに善導が述べた「親縁」「近縁」「増上縁」を挙げている。それからもう一つの意義として「本願の義」を挙げる。つまり念仏は本願に基づいた行であるから、阿弥陀仏は念仏する者を照らして摂め取る。他の行は本願に基づく行ではないから、阿弥陀仏はその行者たちを摂め取らない。その後善導の著した『往生礼讃』の「六時礼讃」の文を引用し、本願の重要性を強調している。
そして法然は前節で述べた善導の「念仏以外の行はどのような善行であっても念仏とは比べものにならない」という旨の文を再び引用し、「これは浄土門の行について述べられた文である」と説明する。続けて「念仏は二百十億ある仏の国の中から選び取られた勝れた行であり、それ以外の行は選び捨てられた劣った行である」「念仏は本願に基づくがそれ以外の行は本願に基づかない」「だからこれらは全く比較にならない」と述べた。
このようにして法然は善導の教えを承けて念仏の重要性を述べた。念仏を称えている者が阿弥陀仏の光明に摂取されていることを説くことにより、今の救い、現生の救いを強調した。
親鸞の解釈
浄土真宗の宗祖親鸞は、『浄土和讃』「弥陀経讃」において「摂取不捨であるから、阿弥陀仏なのである」といった。つまり摂取不捨が阿弥陀仏の本質であるとみた。
十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし
摂取して捨てざれば 阿弥陀となづけたてまつる(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.571より、下線は筆者が引いた)
【現代語訳】
数限りないすべての世界の念仏するものを見通され、
摂め取って決してお捨てにならないので、阿弥陀と申しあげる。(『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』P.50より、下線は筆者が引いた)
親鸞はこの「摂取してすてざれば」の左訓(※2)に「ヒトタビトリテナガクステヌナリ」「セフハモノヽニグルヲオワエトルナリ」と記している。この左訓は『三帖和讃』の国宝本(真宗高田派専修寺蔵国宝本)などに記される(『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』P.379に収録)。漢字で書くと「ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」となる(表記は『親鸞聖人の教え』P.282に従った)。
逃げようとしても摂め救い取られる
これは「逃げるものを追いかけて捕らえる」、「一度捕らえたならば決して逃がさない」ということを意味する。もう少し詳しく述べると「衆生が自力の心にとらわれて阿弥陀仏の本願に背を向けてしまっていても、阿弥陀仏はそのような衆生のために他力念仏を与えて自力の心を他力の心に転換させる。そしてその光の中に摂め取って捨てない。たとえ衆生が逃げようとしても追いかけて捕らえ、決して逃がしはしない。」ということである。
この考え方は善導が述べた親縁の解釈(阿弥陀仏と衆生の身口意の三つのはたらきが相応し一つになっている)をさらに発展させたものとなっている。
親鸞自身も逃げることができない
果てしなく遠い昔からこれまで生れ変り死に変りし続けてきた、苦悩に満ちたこの迷いの世界は捨てがたく、まだ生れたことのない安らかなさとりの世界に心ひかれないのは、まことに煩悩が盛んだからなのです。どれほど名残惜しいと思っても、この世の縁が尽き、どうすることもできないで命を終えるとき、浄土に往生させていただくのです。
(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』P.15-16より)
『歎異抄』「第九条」にはこのような親鸞の言葉が書かれている。つまり親鸞は「いくらこの世界における生が捨てがたいものであっても、この親鸞は既に阿弥陀仏の光明に照らされ摂め取られているのだから、亡くなったときにはそのまま浄土に生まれさせられるのである」と言った。親鸞にとって阿弥陀仏の救いとは、もはや逃げることのできないものであった。
衆生には見えなくとも、阿弥陀仏は照らしてくださっている
真宗七高僧第六祖である源信和尚は『往生要集』において次のように述べた。
われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.956-957より)
これを承けた親鸞は「正信念仏偈」において次のように述べた。
われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつねにわれを照らしたまふ
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.207より)
わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.151より)
つまり、煩悩があるために衆生には阿弥陀仏の救いの光明が見えないのである。しかし、見えてはいなくとも阿弥陀仏は確かに衆生を照らしてくださっている。これは先の『歎異抄』の内容とも一致する。同様の内容が『高僧和讃』「源信讃」にもみられる。
摂取不捨であるから正定聚である
さらに親鸞は『親鸞聖人御消息』「第一通」でこう述べている。
真実の信心を得た人は、阿弥陀仏が摂め取ってお捨てにならないので正定聚の位に定まっています。
(『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』P.3より、下線は筆者が引いた)
『尊号真像銘文』においてもこう述べている。
この真実の信心を得る時、光明の中に摂め取って決して捨てない阿弥陀仏のお心のうちに入るので、正定聚の位に定まると示されている。
(『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』P.5より、下線は筆者が引いた)
ここでは摂取不捨と正定聚の関連が述べられている。逃げることができないのだから、浄土に往生してさとりを開くことはもはや決まっている。つまりこれは正定聚の位に入っているということである(仏教知識「現生正定聚(2)」も参照のこと)。
まとめ
摂取不捨は『観経』に説かれている。善導は念仏者だけが摂取される理由について「親縁」「近縁」「増上縁」の三つを挙げ、また称名念仏が他の行に比べていかに勝れているかを解説した。法然はそれを全て引用した後、本願と念仏の重要性を強調した。念仏を称えている者が阿弥陀仏の救いの中にあるということで、これは親鸞の現生正定聚の考え方に繋がっていく。
親鸞は摂取不捨を「背を向けて逃げようとする衆生を阿弥陀仏が追いかけて捕らえ、摂め取って救う」と考えた。これは善導の「親縁」の考え方をさらに発展させたものである。また源信の主張を承けて「煩悩に邪魔をされて衆生は阿弥陀仏に照らされていることに気づけないが、阿弥陀仏は確かに衆生を照らしてくださっている」と述べた。そして、摂取不捨であるから正定聚であるということを述べた。
語注
- ※1 憶念
- 心に思いたもつこと。心に念じて忘れないこと。なお親鸞は『顕浄土真実教行証文類』などで「阿弥陀仏の本願を信じること」という意味でこの言葉を用いている。
- ※2 左訓
- 聖教の本文に対する註の一つ。説明の対象となる本文の左に、語句の説明や漢字の読みなどを記したもの。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2011年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[5] 『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[6] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[7] 『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2016年)
[8] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1998年)
[9] 『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2007年)
[10] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)
[11] 『親鸞聖人の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2017年)
[12] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[13] 『聖典セミナー 選択本願念仏集』(浅井成海 本願寺出版社 2017年)
[14] 『選択本願念仏集 法然の教え』(阿満利麿 KADOKAWA 2007年)
[15] 『選択本願念仏集』(石上善應 筑摩書房 2010年)
[16] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)