本願成就文
「本願成就文」とは他でもないこの私がどのようにすれば救われるのかということが示されている文である。『浄土三部経』の一つ、『仏説無量寿経』の「四十八願」にある「第十八願」が成就されたことを釈尊が衆生に対して告げたものである(第十八願(本願)や成就文については 仏教知識「四十八願」を参照)。本願文は第十八願文のことをあらわし、成就文は仏の誓願が成就したことをあらわした文章のことをいう。
「第十八願」
設我得佛、十方衆生、至心信楽欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覚。唯除五逆誹謗正法。
(『真宗聖教全書 一 三経七祖部』P.9より、筆者が一部旧字を新字に変換)
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.18より)
もし、わたしが仏になるとき、あらゆる人人が至心から(至心)信じ喜び(信楽)、往生安堵の想いより(欲生)、ただ念仏して(乃至十念)、そしてわたしの国に生れることができぬようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、正法を謗ったりするものだけは除かれます。
(『聖典意訳 浄土三部経』P.23より)
「本願成就文」
諸有衆生、聞其名號、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生被國、即得往生、住不退轉。唯除五逆誹謗正法。
(『真宗聖教全書 一 三経七祖部』P.24より、筆者が一部旧字を新字に変換)
これを宗祖親鸞は『顕浄土真実教行証文類』「信文類」にて次のように引用した。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.212より)
すべての人人は、その名号のいわれを聞いて信心歓喜する一念のとき、それは仏の至心より与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退の位に入るのである。ただし、五逆の罪を犯したり正法を謗ったりするものだけは除かれる。
(『聖典意訳 教行信証』P.100より)
本願成就文の意味
諸有衆生
あらゆる衆生(人人)とは如来の救いを求める凡夫や聖者すべての者のことをいう。
聞其名號 信心歓喜
信心をいただくということは、阿弥陀仏の名号(南無阿弥陀仏)を疑いなく聞き入れて(聞其名号)、この名号を拠り所として必ずたすかると喜ぶこころがおこる時である。これは本願である第十八願の信楽のことである。
乃至一念 至心廻向 願生被國 即得往生 住不退轉
乃至一念については、源空(法然)が一声の称名とあらわしたのに対して、親鸞は、まずは信楽が開いた(信心をいただいた)最初の時をあらわすとしている(時剋釈)。また、一念には二心が無く(疑いの心が無く)、この信楽が生涯相続するものであるとの解釈(信相釈)も施した。つまり信心歓喜する一念の時に往生することが決定する。阿弥陀仏より至心(まこと)を回向された(与えられた)からこそ信心が生まれ、信心が生まれたからこそ往生できるのである(仏教知識「信心正因」参照)。また、往生が決定した後は、この決定が覆されることのない位(正定聚)に就くとされる。
唯除五逆誹謗正法
ただし、五逆(※1)の罪を犯した者、正法を謗った者は除かれると説かれており、「あらゆる衆生」との関係をどのように考えればよいのだろうか。
唯除五逆誹謗正法について
曇鸞の解釈
『観無量寿経』(『観経』)の「下品下生釈」において五逆の人でも称名念仏によって救われるということであるが、本願成就文の唯除五逆誹謗正法と全くの矛盾が生じる。この矛盾を最初に考えたのは曇鸞であった。曇鸞は五逆、謗法ともに犯した者は往生できないとした。特に謗法は五逆の根源になるため救われないとした。そして仏も浄土も信じない者には信心も念仏も無いのだから、救いの道は無い。『観経』においては五逆を造ったが謗法は造っていないので念仏によって往生できるとした。しかし曇鸞の『往生論註』下巻には正法を謗法した者でもこころを翻して阿弥陀如来を信じて称名念仏すれば犯した罪が転換されるとした。
善導の解釈
次に善導は六字釈(仏教知識「六字釈 (1) ―善導大師の六字釈―」参照)においては、あらゆる悪業を犯し、地獄に墜ちるべき者でも称名念仏をすることによって浄土に往生できることを説いた。善導も往生する気持ちが無い者や、仏を謗る者はそもそも浄土往生を願う気持ちはないと考えた。しかし、その気持ちに対して反省をして、間違いに気がつき改心をし、あらためて称名念仏をして浄土往生を願う者は救われるということである。善導は本願成就文の唯除とは、まだ五逆や謗法を造っていない者に対して、五逆や謗法を行うと往生できないことを示した法門であり、この極罪を犯してはならないと抑え止めた。これを善導は「抑止門」とした。これに対して五逆の人も称名念仏して、謗法の者も心をあらためて摂取することを示す法門を「摂取門」という。
親鸞の解釈
親鸞は浄土真宗の肝要を著した『尊号真像銘文』冒頭において、『仏説無量寿経』の「第十八願」に誓われた内容を解説した。
「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.644より)
「唯除五逆誹謗正法」というのは、「唯除」というのは「ただ除く」という言葉であり、五逆の罪を犯す人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことを知らせようとしているのである。この二つの罪の重いことを示して、すべての世界のあらゆるものがみなもれることなく往生できるということを知らせようとしているのである。
(『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』P.6より)
親鸞は、「ただ除く」という言葉には、阿弥陀如来があらゆる衆生に本願のはたらきを「しらせん」がためであるという意味があると解釈した。この「しらせん」には、二つの意味があるとする。一つには、極重の悪人が抑止すべき五逆や謗法の大罪をすでに犯していることを「知らせる」ものである。親鸞は自分自身がこのような罪人であるとの自覚があった。二つには、このような極重の悪人であるからこそ必ず救うと「知らせる」ものである。(コラム「親鸞にとっての「唯除の文」~しらせんとなり~」参照)しかし、このような罪人にはまこと(至心)が存在しない。したがって、自らのまことを差し向けて、真実の信心を完成することはできない。これでは往生できないから「乃至一念せん」で区切り、「至心に回向したまえり」とした。如来から差し向けられた真実の心、すなわち大信心を「乃至一念」するだけで往生できるとした。
まとめ
本願成就文は第十八願が根拠となり、第十八願が完成した時に衆生が浄土へ往生することをあきらかにした文である。また本願成就文は阿弥陀如来から衆生への回向として考えた。これは阿弥陀如来からの他力回向として捉えたものである。本願成就文は浄土真宗の教義の中心となる「信心正因」の根幹である。
語注
- ※1 五逆
- 五逆とは、父を殺すこと、母を殺すこと、尊敬され拝まれる存在(阿羅漢)を殺すこと、仏の身体を傷つけ出血させること、教団の秩序を破壊し分断すること。この五つの重罪のことである。また、謗法は仏の教えを謗る(非難する、悪くいう)ことをいう。
参考文献
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[5] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2013年)
[6] 『真宗の教義と安心』(勧学寮 本願寺出版社 1998年)
[7] 『聖典セミナー 浄土三部経Ⅰ 無量寿経』(稲城選恵 本願寺出版社 2009年)
[8] 『聖典セミナー 尊号真像銘文』(白川晴顕 本願寺出版社 2007年)
[9] 『真宗聖教全書 一 三経七祖部』(真宗聖教全書編纂所 大八木実 1978年)
[10] 『聖典意訳 浄土三部経』(大遠忌記念聖典意訳編纂委員会 浄土真宗本願寺派出版部 1984年)
[11] 『聖典意訳 教行信証』(浄土真宗本願寺派総長 浄土真宗本願寺派出版部 1983年)
[12] 『浄土三部経と七祖の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2009年)
[13] 『本願のこころ『尊号真像銘文』を読む』(梯實圓 法藏館 2014年)
[14] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)