宗祖における語句の使い分け①

【しゅうそにおけるごくのつかいわけ 01】

浄土真宗じょうどしんしゅう宗祖親鸞しゅうそしんらんは、著書ちょしょ執筆しっぴつには語句ごくの使用に細心の注意をはらい、その使い分けには一貫性いっかんせいが見られることが多い。

今回はその一例として、「歓喜かんぎ」と「慶喜きょうき」について考えていきたい。

 

親鸞は、「よろこぶ」を意味する言葉として「歓喜」(またはよろこぶ)と「慶喜」(またはよろこぶ)の二つの語句を用いるが、これらを使い分けている。『一念いちねんねんもん』(『一念多念証文しょうもん』)では、『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』「本願ほんがん成就じょうじゅもん」の註釈ちゅうしゃくで「歓喜」について解説している。

歓喜かんぎ」といふは、「かん」はをよろこばしむるなり、「」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.678より)

【現代語訳】
歓喜かんぎ」というのは、「かん」はによろこびがあふれることであり、「」はこころによろこびがあふれることである。すなわち、なければならない浄土往生じょうどおうじょうを、かならるであろうと、あらかじめ往生おうじょう先立さきだってよろこぶという意味いみである。

(『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』P.5より)

また、『唯信鈔ゆいしんしょう文意もんい』では、信心しんじんの註釈で「慶喜」について解説している。

この信心しんじんをうるを慶喜きょうきといふなり。慶喜きょうきするひとは諸仏しょぶつとひとしきひととなづく。きょうはよろこぶといふ、信心しんじんをえてのちによろこぶなり、はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、にもこころにもよろこぶこころなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.712より引用)

【現代語訳】
この信心しんじんることを「慶喜きょうき」というのである。慶喜きょうきするひと諸仏しょぶつひとしいひとという。「きょう」は「よろこぶ」ということである。信心しんじんをすでにてよろこぶのである。「」はこころのうちによろこびがえることなくいつもあることをいう。なければならないことをすでにて、にもこころにもよろこぶという意味いみである。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.28より)

つまり、「歓」はまだ実現はしていないが、必ず実現するであろうことを「よろこぶ」ことであり、「慶」はすでに実現したことを「よろこぶ」という意味となる。

「歓」について『たんしょう』(唯円ゆいえん)では、唯円が「念仏ねんぶつしていても、おどりあがるような歓喜がわかないし、少しでも早く往生おうじょうしたいという心にもならない」との告白に、親鸞が「私もそうであるけど唯円もか」とおうじて、だからこそ往生は間違いないとの会話が記されている。

いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願だいひだいがんはたのもしく、往生おうじょう決定けつじょうぞんそうらへ。踊躍歓喜ゆやくかんぎのこころもあり、いそぎ浄土じょうどへもまゐりたくそうらはんには、煩悩ぼんのうのなきやらんと、あやしくそうらひなましと云々うんぬん

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.837より)

【現代語訳】
はやく往生おうじょうしたいというこころのないわたしどものようなものを、阿弥陀仏あみだぶつはことのほかあわれにおもってくださるのです。このようなわけであるからこそ、おおいなる慈悲じひこころでおこされた本願ほんがんはますますたのもしく、往生おうじょう間違まちがいないとおもいます。

 おどりあがるようなよろこびのこころきおこり、またすこしでもはやく浄土じょうど往生おうじょうしたいというのでしたら、煩悩ぼんのうがないのだろうかと、きっとうたがわしくおもわれることでしょう。

 このように聖人しょうにんおおせになりました。

(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』P.16より)

ここでは、往生についての「よろこび」が語られている。往生は「まだ実現はしていない」ことがらである。従って、「慶喜」ではなく「歓喜」となる。『歎異抄』は親鸞の著書ではないが、著者とされる唯円は、親鸞のそばに長く暮らしており、親鸞の「歓喜」と「慶喜」についての考え方も十分に理解していたはずである。なおかつ親鸞の法語ほうご(教えを説いた言葉)として記しているのであるから、語句の使用を間違えるとは考えられない。

では、「慶」については『けんじょう真実しんじつ教行きょうぎょうしょう文類もんるい』「総序そうじょ」に、

ここに禿とくしゃく親鸞しんらんよろこばしいかな、西蕃せいばん月支げっし聖典しょうてん東夏とうか日域じちいき師釈ししゃくに、ひがたくしていまふことをたり、きがたくしてすでにくことをたり。真宗しんしゅう教行証きょうぎょうしょう敬信きょうしんして、ことに如来にょらい恩徳おんどくふかきことをんぬ。ここをもつてくところをよろこび、るところをたんずるなりと。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.132より)

【現代語訳】
 ここに禿とくしゃく親鸞しんらんは、よろこばしいことに、インド・西域さいいき聖典せいてん中国ちゅうごく日本にっぽん祖師そしがた解釈かいしゃくに、いがたいのにいまうことができ、きがたいのにすでにくことができた。そしてこの真実しんじつきょうぎょうしょうほうこころからしんじ、如来にょらい恩徳おんどくふかいことをあきらかにった。そこで、かせていただいたところをよろこび、させていただいたところをたたえるのである。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.5-6より)

とある。ここでは、親鸞が七高僧しちこうそうの教えに出遇であって真実しんじつ仏法ぶっぽうを信じ、阿弥陀あみだ如来にょらい恩徳おんどくの深いことを知ることができた「よろこび」が記されている。これは「すでに実現したこと」であるから「慶」(慶喜)となる。

漢訳経典かんやくきょうてんや七高僧の聖教しょうぎょうでは、「歓喜」と「慶喜」の厳密な使い分けはないし、親鸞が引用文いんようぶんとしてげる場合には、当然そのままの引用となる。しかし、自身の考えを述べるところでは「歓喜」については「浄土じょうど往生(浄土に生まれること)」や「成仏じょうぶつ(仏となること)」についてのことがらとして、「慶喜」については「信心」や「現生正定聚げんしょうしょうじょうじゅ(仏となることがすでに約束されていること)」、「出逢であい」(仏法や祖師そしたち)についてのことがらとして厳密に使い分けをしているのである。つまり、細心の注意が払われている親鸞の著作からは、「歓喜」と「慶喜」の語句を見ることによって、そこに記されていることがらが「すでに実現したこと」か「まだ実現はしていないこと」なのかその文脈から親鸞の解釈を読みとることができる。従って、私たちは宗祖の選んだ語句やその漢字については、安易な文字の書きえ(平仮名などに開くこと)はつつしんで、その書き換えには十分な配慮と説明が必要となる。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『浄土真宗聖典 一念多念証文(現代語版)』(本願寺出版社 2001年)
[5] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[6] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)
[7] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1998年)

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