六字釈 (1) ―善導大師の六字釈―
六字釈とは
六字の南無阿弥陀仏の字義を解説したものであり、最初に中国の善導大師が行った。宗祖親鸞の六字釈については仏教知識「六字釈 (2) ―親鸞聖人の六字釈―」を参照のこと。
『観経』「下品下生」に説かれる念仏往生
『仏説観無量寿経』(『観経』)の「発起序」にあたる王舎城の悲劇で釈尊は、対告衆となる韋提希に凡夫として浄土に往生する称名念仏を説かれる。また正宗分には散善三観にある下品下生に一生造悪の罪人が命の終わるその時に十声の称名念仏によってすぐさま浄土に往生すると説かれてある。
散善とは心の中が散らかり乱れた状態でも行える観想の方法である。三つの観想があるのでこれを散善三観という。ここでは三つの観想がさらに三種類ずつに分けられ、計九種類の観想(九品)について説かれている。中でも最も能力の低い者を下品下生という。下品下生とはあらゆる悪業を犯した地獄に墜ちるべき者のことである。このような者でも称名念仏をすることによって浄土に往生できるということである。(仏教知識「観無量寿経(仏説観無量寿経)」参照)
摂論学派の指摘
摂論学派(摂論宗(※1)の学僧)は『観経』の下品下生の称名念仏は浄土往生の願のみであって行としてのはたらきが無いとした。
先述した『観経』には下品下生の凡夫でも念仏を称えれば浄土に往生できる散善の行が説かれている。しかし摂論学派の学僧たちは、浄土は崇高なさとりの境地であって、散善の称名では浄土に往生できないという考えである。摂論学派は下品下生に説かれる十念の念仏には、往生しようとする願いはあるが浄土に生まれさせるためのはたらきは具わっておらず、 往生のための行とはなりえないと主張した。ただ願のみあって行がないということでこれを「唯願無行」という。このことから摂論学派は、散善の称名による浄土往生の教えは凡夫を仏道に入らせるための方便であり、そのため彼らの往生は遠い将来であると主張した。これを「念仏別時意説」という。これに反論するために善導大師は『観経疏』を著した。
善導大師の反論
善導は南無阿弥陀仏という六字名号を「南無」と「阿弥陀仏」に分け、これらには「帰命」と「発願回向」と「行」の三つの意味があると解釈した。善導は『観経疏』の「玄義分」に
いまこの『観経』のなかの十声の称仏は、すなはち十願十行ありて具足す。いかんが具足する。「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』 P.325より)
と述べた。「十声の称仏は、すなはち十願十行ありて」と説かれている。これは十種類の称仏や願・行があるという意味ではない。つまり十とは欠け目が無いという意味であり、限りがないことである。ここでは一声一声の念仏に願と行が欠け目無く具わっていることをいっている。
次に南無は帰命(※2)と漢訳される。これは如来がおっしゃることを疑い無く信じるこころのことをいう。この信じるこころというものは浄土に生まれることを願うこころのことである。これは発願回向が具わっていることを意味する。発願とは浄土に往生して仏に成るという願いである。回向は自ら修行を獲た善根功徳の意味を転換することで往生する因にすることであり、他力に帰することも意味する。
「『阿弥陀仏』といふはすなはちこれその行なり。」とはつまり阿弥陀仏という名である名号こそが往生の行の本質となるという意味である。善導は『観経疏』「玄義分」にて六字釈のすぐ後に第十八願を(意訳して)引用している。
もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』 P.326より)
第十八願では阿弥陀仏が衆生に「私の名(名号)を称え、私の国(浄土)に往生したいと願いなさい」といわれる。阿弥陀仏の方から往生のための行として称名を指定しているのだから、その名(阿弥陀仏)は行の本質である。そしてこれは浄土往生を願う信と一対になっている。なお、ここでいう「十念」は称名念仏のことをいい、「下十念に至るまで」は称える念仏の回数が問題にならないことを示している(仏教知識「四十八願」参照)。
まとめ
善導大師の六字釈とは摂論学派に対する主張である。これにより、名号である南無阿弥陀仏には願も行も具わっていること(願行具足)をあきらかにした。そして、『観経』下品下生に説かれる称名念仏が別時意の(方便の)教えではないことを示した。このことを「別時意会通」という。
語注
- ※1 摂論宗
- 真諦が漢訳した『摂大乗論』三巻(無着)に基づく唯識派の一つ。
- ※2 帰命
- 帰順勅命のことをいう。浄土真宗において帰順勅命は必ず救うという阿弥陀如来の勅命に順う(帰順)という意味である。勅命とは取り消すことの出来ない絶対的な命令のことをいう。阿弥陀仏を信じていなかった者が素直に受け入れて従うがゆえの「帰」であり、「命」は阿弥陀仏のことをただちにしたがうことをいう。
参考文献
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[5] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2020年)
[6] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[7] 『聖典セミナー 教行信証 教行の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2004年)
[8] 『親鸞聖人の南無阿弥陀仏 ―六字釈のこころ―』(梯實圓 自照社出版 2019年)
[9] 『聖典セミナー 尊号真像銘文』(白川晴顕 本願寺出版社 2007年)
[10] 『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)