信心正因

【しんじんしょういん】

浄土じょうど真宗しんしゅうにおける往生おうじょう成仏じょうぶつまさしきいん信心しんじん一つであるということ。信心正因は信心と正因に語句が分かれる。浄土真宗でいう信心とは、『仏説ぶっせつりょう寿じゅきょう』のだいじゅうはちがん本願ほんがん)にちかわれている信心のことである(詳しくは仏教知識「四十八願」がんかい参照)。しゅう親鸞しんらんは『けんじょう真実しんじつ教行きょうぎょうしょう文類もんるい』(『教行きょうぎょうしんしょう』)に

信楽しんぎょうすなはちこれ一心いっしんなり、一心いっしんすなはちこれ真実信心しんじつしんじんなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.230より)

【現代語訳】
この信楽しんぎょうがすなわち一しんであり、一しんがすなわち真実しんじつ信心しんじんである。

(『聖典意訳 教行信証』P.121より)

と書いた。信楽とは第十八願に誓われる至心ししん信楽しんぎょう欲生よくしょうの三心の一つであり、この三心は信楽一心におさまる(詳しくは仏教知識「三一問答 」参照)。信楽とは無疑むぎ心のことであって、疑心なく本願の名号みょうごう領受りょうじゅした心をいう。

しょういんは正しき因種たねという意味である。衆生しゅじょう南無なむ阿弥陀あみだぶつを疑いなく領受する心(信心)が起こるときに、往生成仏する身と定まる。このことから信心こそが往生成仏の正因であるとする。

このように親鸞が解釈したのは、親鸞の師である真宗しんしゅう七高僧しちこうそうだいしち源空げんくう法然ほうねん)の『選択せんじゃく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう』(『選択集せんじゃくしゅう』)の影響によるものである。

法然の『選択集』より

法然は『選択集』の「三心章さんしんしょう」において

つぎに「じんしん」とは、いはく深信じんしんしんなり。まさにるべし、生死しょうじいえにはうたがいをもつて所止しょしとなし、涅槃ねはんみやこにはしんをもつて能入のうにゅうとなす。

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.1248より)

と書いている。深信とは深く信じる心のことをいう。法然は輪廻りんね(迷い)の世界にとどまるのは本願を疑うからであり、さとりの城(浄土)に入るのは本願を信じるからであると説いた。これを信疑決判しんぎけっぱんという。これにより法然は信心が往生成仏の因であることを顕らかにした。

これをけて宗祖親鸞は『教行信証』の「信文類しんもんるい」(「信巻」)、三一問答さんいちもんどう

涅槃ねはん真因しんいんはただ信心しんじんをもつてす。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.229より)

【現代語訳】
さとりにいたる真実しんじつたねは、ただ信心しんじん(信楽)一つである。

(『聖典意訳 教行信証』P.119より)

と述べた。

この信心をいただいて往生するという考えは、先に真宗七高僧第三祖曇鸞大師しんしゅうしちこうそうだいさんそどんらんだいしも説いている。

曇鸞大師の『往生おうじょう論註ろんちゅう』(『浄土論註』)(※1)より

曇鸞大師があらわした『往生論註』には、

易行道いぎょうどう」とは、いはく、ただ信仏しんぶつ因縁いんねんをもつて浄土じょうどしょうぜんとがんずれば、仏願力ぶつがんりきじょうじて、すなはちかの清浄しょうじょう往生おうじょう仏力住持ぶつりきじゅうじして、すなはち大乗正定だいじょうしょうじょうじゅる。正定しょうじょうはすなはちこれ阿毘跋致あびばっちなり。

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.47より)

とある。

ここでは仏を信じて浄土へ往生することを願うこと(信心)によって、仏の願力で清らかな浄土に生まれることができ、これによって正定しょうじょうじゅ(※2)に入ることができる、と説いている。

これを承けて親鸞は、本願寺の晨朝勤行じんじょうごんぎょうようされる『教行信証』「行文類ぎょうもんるい」の「しょうしんねんぶつ」の依経段えきょうだん曇鸞どんらん章にて次のように述べた。

天親菩薩てんじんぼさつの『ろん』(同)註解ちゅうげして、
報土ほうど因果誓願いんがせいがんあらわす。
往還おうげん回向えこう他力たりきによる。
正定しょうじょういんはただ信心(しんじん)なり。
惑染わくぜん凡夫ぼんぷ信心発しんじんほつすれば、
生死しょうじすなはち涅槃ねはんなりと証知しょうちせしむ。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.205より)

天親菩薩の『浄土論』を註釈して(『浄土論註』を著し)、
私たちがみほとけの国(報土ほうど)にまれるのも、成仏の結果として衆生を済度するのも、すべてのみほとけ誓願ちかいによることをあきらかにし、
浄土にくのも、ほとけとなって衆生しゅじょうを導くのも、すべて阿弥陀如来の誓願せいがん他力たりきるのであり、
かならほとけになるさだまる(正定しょうじょう)のはただただ信心しんじんるとお説きになった。
心まどい、あくまった者でも、信心しんじんおこせば、
まよい(生死しょうじ)の身のままに、さとり(涅槃ねはん)をることを教えたまい、

(『日常勤行聖典 解説と聖典意訳』P.27-28より)

この箇所で親鸞は、「天親菩薩(真宗七高僧第二祖)の『浄土論』を曇鸞大師が註釈した『浄土論註』(『往生論註』)には我々が浄土に往生することも、成仏の結果として衆生を救うことも、すべて仏の誓いによることと示されているとして、浄土に往生することや仏と成って衆生を導くことも、すべて阿弥陀如来による誓願せいがんりきによるものである。ゆえに正定はただただ信心によるものであると説かれた。」と讃歎さんだんしている。

ここで「唯信心」というもんが依用されているが、称名念仏や願や行といったものではなく信心こそが往生成仏の正因であることをあらためてあらわしている。これゆえに親鸞は信心というものを

正定之因唯信心しょうじょうしいんゆいしんじん

かならほとけになるさだまる(正定しょうじょう)のはただただ信心にるとお説きになった。

(『日常勤行聖典 解説と聖典意訳』P.27より)

と述べた。このように、親鸞は浄土に往生してさとりを得る因はただ信心のみであるといった。

信心は阿弥陀如来のはたらきであるから信心だけで往生の因が出来上がる。すなわち信心以外の行いは往生成仏の正因ではなく、称名念仏は正因にならない。つまり称名念仏は報恩ほうおんぎょうであり、阿弥陀如来の救いに感謝と喜びを表したものである。また、念仏を称える回数は限定されない(詳しくは仏教知識「称名報恩」参照)。

親鸞の『尊号そんごう真像しんぞう銘文めいもん』より

『尊号真像銘文』では

ぶつおうじょうごうねんぶつほん」といふは、安養浄土あんにょうじょうど往生おうじょう正因しょういん念仏ねんぶつほんとすともうことなりとしるべし。正因しょういんといふは、浄土じょうどまれてぶつにかならずるたねともうすなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.665より)

【現代語訳】
ぶつおうじょうごうねんぶつほん」というのは、安養浄土あんにょうじょうど往生おうじょうする正因しょういん本願ほんがん念仏ねんぶつ根本こんぽんとするというお言葉ことばであるとらなければならない。「正因しょういん」というのは、浄土じょうどうまれて間違まちがいなくほとけになるいんということである。

(『浄土真宗聖典 尊号真像銘文 現代語版』 P.43より)

信心しんじん菩提ぼだいのたねなり、無上涅槃むじょうねはんをさとるたねなりとしるべしなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.667より)

【現代語訳】
信心しんじんはさとりをひらいんであり、このうえない涅槃ねはんいたいんであるとるがよいというのである。

(『浄土真宗聖典 尊号真像銘文 現代語版』 P.46より)

とある。

これはえいざんえんりゃく黒谷くろだに源空げんくうしょうにんの真像しんぞうと題される、法然がていしょうした『選択集』を解釈した箇所である。「南無なも阿弥陀あみだぶつおうじょうごう念仏ねんぶつほん」は「南無阿弥陀仏」と「往生之業念仏為本」に分けられる。「南無阿弥陀仏」はひょうしゅうといい、称名念仏が『選択集』のかなめであることを標示している。「往生之業念仏為本」はさいちゅうといい、念仏が往生するための行業(行い)の根本こんぽんであることを表す。

法然が『選択集』を著す以前の日本仏教では称名念仏も往生の行のひとつとしてとらえられていたが、称名念仏一つで往生するという考えは全くなかった。法然は称名念仏を阿弥陀如来のひとりばたらきでおこるものであると提唱した。南無阿弥陀仏が心の中ではたらくことを信心として、口ではたらくことを称名念仏とした。信心も念仏も名号のはたらきによっておこるものであるとした。ただ単に称名念仏をするだけではなく、信心が無ければ全くの意味を成さない。本願を疑いなく信じる念仏であるがゆえに信心はさとりのたねであり、浄土に往生する要因であると顕した。

まとめ

これゆえに信心正因とは浄土真宗の根幹をあらわすものであり、信心があるからこそ往生の正因とされる。後の本願寺第三代覚如かくにょが親鸞の信心正因や称名報恩の説をしゅうとしてあらわし、本願寺第八代れんにょが人々に伝道して世の中に広まり、今日まで信心を大切にすることを浄土真宗本願寺派ではきょうしている。そのなかでも蓮如が著した、百通以上ある『御文章』の中で今日最も有名な「聖人一流章しょうにんいちりゅうしょう」の冒頭においては

聖人しょうにん(親鸞)一流いちりゅう御勧化ごかんけのおもむきは、信心しんじんをもつてほんとせられそうろふ。

(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.1196より) 【現代語訳】
親鸞聖人のひらかれた浄土真宗のみ教えでは、信心が根本です。

(『御文章 ひらがな版-拝読のために-』P.11, P.13より)

とある。このように親鸞の教えは信心が根本であると記載されている。

※1 往生論註
天親菩薩が著した『浄土論じょうどろん』を曇鸞大師が註解ちゅうかいを施した註釈書。『浄土論註じょうどろんちゅう』『無量寿経論註むりょうじゅきょうろんちゅう』『論註』などともいう。
※2 正定聚
往生が正しく定まり必ずさとりをひらくことができること。真実信心(金剛心)を獲得した仲間。(『真宗新辞典』P.269より引用)

参考文献

[1] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[5] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[6] 『親鸞聖人の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2018年)
[7] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2020年)
[8] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[9] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2013年)
[10] 『聖典セミナー 選択本願念仏集』(浅井成海 本願寺出版社 2017年)
[11] 『聖典セミナー 尊号真像銘文』(白川晴顕 本願寺出版社 2007年)
[12] 『真宗新辞典』(法蔵館 1994年)
[13] 『日常勤行聖典 解説と聖典意訳』(豊原大成 自照社出版 2014年)
[14] 『御文章 ひらがな版 -拝読のために-』(浄土真宗教学研究所(現 教学伝道研究センター) 本願寺出版社 1999年)
[15] 『真宗の教義と安心』(勧学寮 本願寺出版社 1998年)
[16] 『聖典セミナー 浄土三部経Ⅰ 無量寿経』(稲城選恵 本願寺出版社 2009年)
[17] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)
[18] 『聖典意訳 教行信証』(浄土真宗本願寺派総長 浄土真宗本願寺派出版部 1983年)

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