三一問答 (1)
『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「信巻」で展開された親鸞独自の論。ここでは三一問答として「字訓釈」から「法義釈」の「大信嘆徳」までを解説する。
『仏説無量寿経』の本願(第十八願)に誓われた至心、信楽、欲生の「本願の三心」
設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
(『浄土真宗聖典全書(一)三経七祖篇』P.25より、旧字は新字に直した)
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
(『浄土真宗聖典 註釈版』P.18より)
と、天親(400頃~480頃)が『浄土論』の冒頭で説いた「一心」
世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来 願生安楽国
(『浄土真宗聖典全書(一)三経七祖篇』P.433より、旧字は新字に直した)
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.29より)
について、なぜ「三心」と「一心」の違いがあるのかを論じた。
構成
① 第一問答(字訓釈)
本願の三心をもって、天親の一心を問う問答。至心、信楽、欲生の三心を「至」「心」「信」「楽」「欲」「生」の六字に分け、それぞれの漢字の意味を他の漢字を用いて解釈し、信楽の一心に三心が摂ることを示す。
② 第二問答(法義釈)
天親の一心をもって、本願の三心を問う問答。至心、信楽、欲生の三心が信楽の一心に摂ることを「機無、円成、回施、成一」の構造や三重出体の論を用い、三心それぞれの関係性を法義の上で明らかにする。
以上の二つの問答から構成されており、「信楽」の一心については、つづく「菩提心釈」(仏教知識「二双四重(二双四重判)」参照)で、信心をめぐる問題として詳細に展開されていく。
第一問答
親鸞は『教行信証』「信巻」の「別序」(「信巻」のために特別に置かれた序文)で次のように述べている。
広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。
(『浄土真宗聖典 註釈版』P.209より)
【現代語訳】
広く三経の輝かしい恩恵を受けて、とくに、一心をあらわされた『浄土論』のご文をひらく。ひとまず疑問を設け、最後にそれを証された文を示そう。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.156より)
このように、「信巻」全体が「一心 = 信楽」について論じた章であることを示し、そのことを具体的に問答形式で論じていくのが「三一問答」である。
問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに論主(天親)一心といふや。
答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主(天親)、三を合して一とせるか。
(『浄土真宗聖典 註釈版』P.229より)
【現代語訳】
問うていう。阿弥陀仏の本願には、すでに「至心・信楽・欲生」」の三心が誓われている。それなのに、なぜ天親菩薩は「一心」といわれたのであろうか。 答えていう。それは愚かな衆生に容易にわからせるためである。阿弥陀仏は「至心・信楽・欲生」の三心を誓われているけれども、さとりにいたる真実の因は、ただ信心一つである。だから、天親菩薩は本願の三心を合せて一心といわれたのであろう。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.193より)
ここでは、阿弥陀如来は本願に三心を誓っているのに天親はなぜ一心としたのかという問いと、さとりにいたる真実の因は信心一つであるから天親は一心といわれたのであろうという答えが置かれる。
この問答に続き、親鸞は三心の一文字ずつに詳細な字訓を施していく(仏教知識「字訓釈」参照)。それらの字訓を組み合わせて、次のような熟語をつくっていく(会訓)。
- 至心 ...... 真実誠種の心
- 信楽 ...... 真実誠満の心、極成用重の心、審験宣忠の心、欲願愛悦の心、歓喜賀慶の心
- 欲生 ...... 願楽覚知の心、成作為興の心、大悲回向の心
そして、これらはすべて真実の心なので、「疑蓋雑はることなきなり」(「自力の心から出てくる疑いがまじることはありません」)とした。
なお、欲生における「大悲回向」の熟語のみ、字訓より導き出されたものではない。このことについて浄土真宗本願寺派の梯實圓は『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(P.147-148)において、欲生は『観無量寿経』の三心と対比したときに「回向発願心」にあたることから、また、本願の三心じたいが阿弥陀如来から回向された心であることを強調するために、最後に「大悲回向」の語句を用いたものと考えられるとしている。
第一問答の結論
親鸞は次のように第一問答を結論づけた。
まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。
(『浄土真宗聖典 註釈版』P.230-231より)
【現代語訳】
まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。この信楽がすなわち一心であり、一心はすなわち真実の信心である。だから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「一心」といわれたのである。よく知るがよい。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.195-196より)
疑いの心がまじることがないから、信楽という名前がついたのであり、本願の三心それぞれにも疑いの心はまじることはない。そのために、信楽の一心が本願の三心をすべて取り込み、本願の三心をすべて兼ねそなえた信楽の一心こそが真実の信心である、と結論づけた。
つづく第二問答では、天親が一心としたのに、阿弥陀如来はなぜ本願に三心を誓うとしたのかという問いとその答えが置かれる。
第二問答
また問ふ。字訓のごとき、論主(天親)の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
答ふ。仏意測りがたし。
(『浄土真宗聖典 註釈版』P.231より)
【現代語訳】
また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるために本願の三心を一心と示された天親菩薩のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことは、どう考えたらよいのであろうか。答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.196より)
親鸞は仏意はとてもわからないと述べたものの、自分なりの解釈を「法義釈」として展開していく。仏教知識「三一問答 (2)」では「法義釈」の「至心釈」を解説する。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[5] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[6] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[7] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)