二双四重(二双四重判)
浄土真宗の宗祖、親鸞(1173-1263)によって展開された論。浄土真宗の教えを確立するための教相判釈(教判、釈尊の教えを分類し段階づけたもの)といわれている。『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「信巻」や「化身土巻」、『愚禿鈔』などにおいて展開された。(仏教知識「教相判釈」参照)
ここでは、『教行信証』「信巻」「菩提心釈」の記述に沿って、「二双四重」の構造を見ていく。
しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくる なり。横竪の菩提心、その言一つにしてその心異なりといへども、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。 (「浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-」P.246より)
構造
「竪」と「横」
まず、親鸞は釈尊の説いた経典を「竪」と「横」の二つに分類する。「竪」とは「たてさま」(親鸞の表記では「たたさま」)のことであり、自力をもって段階を追い修行を重ねていくことを説いた教えであり、道綽(562-645)が『安楽集』で提唱し、親鸞の師法然(1133-1212)が展開した「聖浄二門判」における「聖道門」に該当するとした。それに対して、「横」とは「よこさま」のことであり、阿弥陀如来の本願他力を信じることによって凡夫が浄土へと往生していく教えのことであり、「聖道門」の説く教えの道理からは外れているので、「横」(よこさま)とあらわし「浄土門」に該当するとした。
つまり、竪とは、私たち凡夫にとって因果関係がはっきりと理解できる形でさとりを得る道であり、対して横はそういった因果関係を超えた不可思議な力によってさとりを得る道といえる。この「竪」と「横」について、真宗大谷派僧侶である藤場俊基は以下のように書いている。
竪は秩序や筋道を前提にしていますが、横はそういう必然性がない。全然予定通りにならない。秩序や筋道がでたらめである。少なくとも我々凡人にはそのように見える、というのがこの場合の横という意味です。だから、目の前で起こったことが、何が何だかわからない。それこそ不可思議としか言いようのないこととしてあるということです。予期する結果を必然させる因が見当たらないわけです。 (『親鸞の教行信証を読み解くⅡ―信巻―』 P.170より)
「超」と「出」
続いて、親鸞は竪と横の教えにもそれぞれ「超」と「出」がある、とする。この場合、超は「頓教=時間をかけずにいっきにさとりの境地に導く教え」であり、出は「漸教=長い時間をかけてさまざまな修行を積んで徐々にさとりの境地に近づいていく教え」であるとした。
① 竪超
華厳宗、天台宗、真言宗、禅宗などで説かれる頓教。菩提心(仏となって衆生をすくいたいと思う心)が起こった瞬間にさとりの境地に入る教え(一念頓悟)。または、この身のままですみやかに仏陀の位に到達するという教え(即身成仏)。聖道門では真実の教え(実教)とされる。(仏教知識「菩提心」参照)
② 竪出
倶舎宗や成実宗、法相宗などで説かれる漸教。とほうもない時間をかけて修行をしてさとりにいたるという教え。聖道門では権仮方便(真実に導くための仮)の教え(権教)とされる。
③ 横超
浄土門における頓教。親鸞は浄土真宗の教えとした(法然の教えも含む)。第十八願に説かれる弘願の教えのこと。阿弥陀如来の本願を聴き信じ、菩提心が起こった瞬間に摂取不捨の利益にあずかり真実報土に往生する身となることから真実の教え(実教)とする。善導(613-681)は『観無量寿経疏』(『観経疏』)の中でこの菩提心を「横超の金剛志」と讃えている。
④ 横出
浄土門における漸教。親鸞は浄土真宗以外の浄土門とした(法然の教えは含まない)。定散二善の修行をし、臨終来迎を待ち望む人のために説かれた四十八願の中の第十九願(要門)や、念仏を称えた功徳を頼んで来迎を望む人たちに説かれた第二十願(真門)のこと。どちらも方便化土への往生であり権教とされた。(仏教知識「六三法門」参照)
以上を図示するとこのようになる。
このように、親鸞は仏教の菩提心を四つに分類し、末法の世では聖道門の教えは正しく伝わることはなく、凡夫がそのまますくわれる道は、阿弥陀仏の本願を聴き横超の菩提心をおこすことの他はないとした。
なお、『教行信証』においての二双四重の教判は、「二権二実」(二つの方便の教えと二つの真実の教え)の相対判であるが、『愚禿鈔』においては「三権一実」(三つの方便の教えと一つの真実の教え)として、横超のみが真実の教えとする絶対判となっている。
教判の背景
親鸞がこのような教判をおこなった背景には、師の法然が撰述した『選択本願念仏集』に対する批判があった。とくに、明恵(1173-1232)(仏教知識「高弁(明恵)」参照)が著した『摧邪輪』で指摘された「菩提心の撥去」に対する反論として、この教判が組み立てられた。親鸞はこの教判の中で、法然に倣って聖道門と浄土門をはっきりと区別し、法然が選び捨てたのは聖道門の菩提心であることを示した。と同時に、明恵の「仏教における菩提心は浅深の差はあるが、ひとつのものである」という主張に対して「浄土門の菩提心は阿弥陀仏から回向された他力の菩提心であり、聖道門の自力の菩提心とは異なる」として、善導の言葉(「帰三宝偈」の「共発金剛志 横超断四流」)をもとに「横超の金剛心」とした。さらに、北宋の僧択瑛の『楽邦文類』より「弁横竪二出文」にみられる横竪の区別や、先述した善導の『観経疏』の「横超」の言葉を参考にしながら、「他力の菩提心」を仏教の教えの中に位置づけた。
教判の特徴
この教判の特徴として、天台宗における「五時八教判」のように釈尊が説いた教えの「時期」によって諸経典を分類するのではなく、釈尊が説いた教えの「内容」によって分類したことが挙げられる。しかし、教えの内容によって分類する方法は、決して親鸞独自の分類法ではない。龍樹や曇鸞における「難易二道判」や、先に挙げた道綽から法然にいたる「聖浄二門判」などにも用いられている。親鸞の教判の特徴は、このような浄土教における諸師の論を整理統合し、二双四重という教判を用いて、きわめて明確に浄土真宗の教えを体系づけたことにあるといえる。
参考文献
[2] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 2012年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『親鸞 主上臣下、法に背く』(末木文美士 ミネルヴァ書房 2016年)