高弁(明恵)
高弁(1173~1232)は華厳宗の僧侶。明恵と称した。
1173年、平重国の子として紀伊(和歌山県)に生まれた。幼くして両親を亡くしたために、髙雄(京都)の神護寺に送られ、上覚房行慈(母方の叔父)の弟子となった。16歳の時、上覚に剃髪を受け、東大寺で受戒し正式な僧侶となり、『華厳経』を中心に学んだ。19歳の時、京都の勧修寺の興然から真言の教え(※1)を授かり、その後は、仏眼仏母尊(※2)をみずからの本尊とした。23歳から11年間は、紀伊の白上峰に修行のために籠り、京都にはほとんど帰らなかったといわれる。この頃に、高弁の仏道を歩む激しさを物語るものとして、仏眼仏母尊の前で「形をやつして(顔を変えて)人間を辞し、志を堅くして如来の跡を踏まん」ことを願い、仏壇の足に右耳を縛りつけて、剃刀で右耳を切り落とした逸話がある。その際に迸った血は本尊や仏具に飛び散ったという。また、釈尊を慕うあまりにインドへの渡航計画を立てるものの周囲に止められたという。高弁の著した『印度路程記』は、長安(中国)から王舎城(インド)までの距離と毎日の歩行距離が計算された渡航計画である。
1206年、34歳の時に後鳥羽上皇の院宣(※3)により、栂尾(京都)に高山寺を建てた。翌年には再び後鳥羽上皇から「東大寺尊勝院の学頭(※4)として華厳宗を興隆すべし」との院宣が下り、名実ともに華厳宗の第一人者となる。以後、高山寺には僧侶、在家の信者が教えを請うために集まるようになり、教団としても発展していった。
1212年、浄土宗の法然が没するとその弟子たちが『選択本願念仏集』(※5)を開版して刊行した。高弁は、この新版『選択本願念仏集』を読み、法然が示した「念仏の教え」は「反仏教的」な危険な思想であり邪見に満ちているとして、法然批判の書『摧邪輪』三巻を著した。翌年には、『摧邪輪』を慌てて著したために補足をするとして、『摧邪輪荘厳記』一巻を著し前著を補強した。
『摧邪輪』では、法然の教えの主な過失として、「菩提心を捨てる過失」「聖道門を群賊に譬える過失」の二つを挙げている。特に前者について詳しく批判がなされた。法然の念仏の教えには、往生するためにさとりの智慧を求める心(菩提心)を必要としないという誤りがあるなどとした。後に法然の弟子である親鸞は、この高弁の『摧邪輪』に対する反論の書として『顕浄土真実教行証文類』を著し、他力回向の「菩提心論」を展開した。
その後、高弁は聖教の講義だけにとどまらず、講式とよばれる多人数で行われる仏教儀礼を多く制定した。例を挙げると、「涅槃講式」「十六羅漢講式」「遺跡講式」「舎利講式」などがあり、これら四つを合わせて「四座講式」とよぶ。また、華厳教学に真言の実践を取り入れて融合させ、厳密の祖ともよばれている。
高弁の業績は教学の他にも、歌人としても高く評価されるなど文化人としての一面もあった。また、夢もまた現実の世界に他ならないのであって、忘却してはならないと『夢記』として自らの夢を記録し続けるなど、24時間すべてが仏道修行と捉えていた。高弁は、親鸞と同年の生まれだったが、親鸞よりも30年早い1232年、高山寺で没す。
著書に『華厳修禅観照入解脱門義』『自行三時礼功徳義』『三時三宝礼釈』『印度路程記』『摧邪輪』『摧邪輪荘厳記』などがある。
- ※1真言の教え
- 密教。特定の資格のある者にしか伝授されない非公開の教え。
- ※2仏眼仏母尊
- 如来の眼(仏眼)を象徴化して信仰の対象としたもの。
- ※3院宣
- 上皇または法皇の命令を受けて出す公文書。「院の宣旨」の略。
- ※4学頭
- 一宗派の学問の統轄者。
- ※5選択本願念仏集
- 浄土宗など多くの宗派は、「選択」は「せんちゃく」と読む。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『日本の名著5 法然』(塚本善隆 中央公論社 1983年)
[5] 『法然対明恵』(町田宗鳳 講談社 1998年)
[6] 『明恵上人集』(久保田淳 山口明穂 校注 岩波書店 1981年)
[7] 『世界の宗教から見た親鸞の信仰―親鸞の独自性とは何か』(加藤智見 法蔵館 2015年)