親鸞

【しんらん】

浄土真宗の開祖。鎌倉時代の僧侶である。

開祖とは宗派を開いた人のこと。「宗祖」「開山」「祖師」とも呼ばれる。また敬称をつけて「親鸞聖人」と呼ばれる。

生涯

親鸞は自らの生涯についてはあまり書き残していないため、その生涯については不明な部分が多い。架空の人物ではないかと疑われていたこともあったが、1921年(大正10)に妻である恵信尼えしんにの手紙(「恵信尼消息」)が見つかり、実在の人物であることが確認された。

後に本願寺第3代覚如かくにょ(1271-1351)が親鸞の生涯を記した『御伝鈔ごでんしょう』を著しているが、史実と一致しない箇所も見受けられる。

本項では大まかな部分のみ紹介する。詳しい情報については本願寺ホームページ等を参照のこと。

誕生

1173年(承安3)に誕生した。

出家

『御伝鈔』によれば1181年(養和1)、9歳のときに京都の青蓮院しょうれんいんにて、慈鎮じちん慈円じえん和尚かしょうのもとで出家したとされる。出家後は「範宴はんねん」という名前になった。

比叡山

出家した後は比叡山ひえいざんに入り、以後20年間に渡り堂僧として修行していたと考えられる。

夢告

1201年(建仁1)、29歳のときに比叡山を下り、六角堂に参籠さんろうし、95日目の夢の中に聖徳太子が現れたといわれる。そのお告げに従って法然ほうねんのもとを訪れることになる(当時の法然は69歳)。

法然門下

法然の教えが人々に広まっていく一方で既存の仏教教団との間に軋轢あつれきが生じるようになり、1204年(元久1)に比叡山より専修せんじゅ念仏ねんぶつ停止ちょうじの弾圧が加えられた。これに対し、法然は比叡山の天台座主ざすに対して「起請文きしょうもん」を送った。同時に門弟もんていに対しても守るべき内容を七ヵ条にまとめた『七箇条しちかじょう制誡せいかい』を示し、これに署名させた。この中に「僧綽空しゃくくう」と書かれている。後に述べるが、これは親鸞の当時の名前である。

また、1205年(元久2)には法然の著書である『選択せんじゃく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう』(『選択集せんじゃくしゅう』)の書写と法然の肖像画の制作を許可されている。このことは親鸞の著書『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』(『教行信証きょうぎょうしんしょう』)「化身土けしんど文類もんるい」の「後序ごじょ」に記されている。

ここには親鸞が書写した『選択集』に法然が「しゃくの綽空しゃくくう」と書いてくれたことも記されている。このことから、法然の弟子になった親鸞が「綽空」と名乗るようになったことがわかる。

また、この時代に恵信えしんと結婚したものと考えられている。

親鸞の名前について

また同じく『教行信証』「化身土文類」「後序」には、夢のお告げを受けて「綽空」の名前を改めたことが記されている。どのような名前に改めたのかは記されていないが、本願寺第3代覚如の『拾遺古徳伝しゅういことくでん』や存覚ぞんかくの『六要鈔ろくようしょう』によれば「綽空」から「善信ぜんしん」に改めたとみられる。

しかし、「善信」は房号ぼうごう(実名とは別にある、僧侶の呼称)であること、当時房号といみな(実名)を兼ねる例はまれであったことなどから、「善信房綽空」を「善信房親鸞」に改めたとみる説が有力になってきている(参考 : 『浄土真宗聖典 御伝鈔 御俗姓 (現代語版)』、『日本史のなかの親鸞聖人』)。

承元じょうげん法難ほうなん

1207年(承元1)に法然を代表とする教団が、後鳥羽上皇と既存の仏教教団から弾圧される事件があった。これは承元の法難と呼ばれており、4名が死罪、法然・親鸞など8名が流罪るざいとなった。

親鸞は越後(現在の新潟県)、法然は土佐(現在の高知県)への流罪となった(実際には法然は讃岐(現在の香川県)へ配流はいるされた)。このときに親鸞は自らを「非僧ひそう非俗ひぞく」と位置づけ、「愚禿ぐとく」と称した。

数年後、法然・親鸞ともに京都に帰ることを許されるが、法然は京都へ帰った翌年に亡くなっている。 法然が亡くなったときに親鸞は越後に居たため、再会することはできなかった。

関東での布教

1211年(建暦1)に京都に戻る許可が下りたが、京都には戻らず1214年(建保2)に妻子とともに関東へと移り住んだ。 常陸国ひたちのくにの稲田(現在の茨城県)で布教活動を行った。

また、この頃に主著『教行信証』の執筆を開始した。『教行信証』はその後も長年に渡り加筆修正が行われている。

帰京

62-63歳頃に京都へと帰り、以後90歳で亡くなるまで布教・執筆等の活動を行った。 1256年(建長8)には息子である善鸞を義絶(勘当)する事件があった。

命日は弘長2年11月28日。弘長2年は西暦1262年にあたるが、11月28日は新暦の1月16日にあたるため没年を表すときは1263年と表記する。

著書

  • 『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)
  • 『浄土和讃わさん
  • 高僧こうそう和讃』
  • 正像末しょうぞうまつ和讃』
  • 浄土じょうど三経さんぎょう往生おうじょう文類もんるい
  • 浄土じょうど文類もんるい聚鈔じゅしょう
  • 入出にゅうしゅつ二門にもん偈頌げじゅ
  • 愚禿ぐとくしょう
  • 尊号そんごう真像しんぞう銘文めいもん
  • 一念多念いちねんたねん文意もんい
  • 唯信鈔ゆいしんしょう文意もんい

など、数多く存在する。

また『歎異たんにしょう』が有名であるが、これは弟子の唯円の著作だといわれている。

参考文献

[1] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[2] 『宗祖親鸞聖人|浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺)』 (http://www.hongwanji.or.jp/mioshie/shinran.html)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[4] 『浄土真宗聖典 御伝鈔 御俗姓 (現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2020年)
[5] 『日本史のなかの親鸞聖人』(岡村喜史 本願寺出版社 2018年)

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