恵信尼
恵信尼(1182-)。浄土真宗の宗祖親鸞の妻。かつては架空の人物とも考えられていたが、1921年(大正10)に本願寺の宝庫から10通の「恵信尼消息(恵信尼文書)」が発見されたことにより、実在の人物であることが確認された。
親鸞同様、その生涯については詳しいことはわかっておらず諸説ある部分もある。この記事では主に『恵信尼 ―親鸞とともに歩んだ六十年―』、『日本史のなかの親鸞聖人 ―歴史と信仰のはざまで―』、『浄土真宗辞典』を参考にして解説を行う。また必要に応じて他の書籍も参考にした。
恵信尼の父
本願寺第8代蓮如の息子、実悟が作成した『日野一流系図』に次の記述がある。
図は『浄土真宗聖典全書(六) 補遺編』P.1353 の系図の中から必要な箇所を抜粋し、旧字体を新字体に書き換えたものである。これによれば範宴(親鸞)の娘の1人に小黒女房という人がいた。彼女の母は兵部大輔という官職に就いていた三善為教の娘であり、その法名を恵信といった。
つまり親鸞の妻が恵信尼、その父が三善為教である。なお法名は「恵信」だが浄土真宗では一般的に「恵信尼」と呼ぶ。それ以外の名前(幼名や成人してからの名前など)はわかっていない。
九条兼実(※1)の日記『玉葉』には「越後介」を務めた「三善為則」が登場する。越後介とは越後(今の新潟県)の副知事のようなものであり、都から派遣される役人が就く役職であった。「三善為教」と「三善為則」は同一人物といわれており、恵信尼の父は京都の役人であったと考えられている。
- ※1 九条兼実
- 1149-1207。五摂家(鎌倉時代に朝廷に仕えた貴族の中で頂点に立った5つの一族)の1つである九条家の祖である。親鸞の出家の師とされる慈鎮(慈円)和尚の兄でもある。1186年に摂政、1191年には関白に就いた。浄土宗の宗祖である法然から授戒(戒を授かること)された。専修念仏への批判から法然らを守るために尽力した。法然の主著『選択本願念仏集』は九条兼実に求められて著された。
三善家・九条家・法然の関係
三善家と九条家
三善家は九条兼実に仕える貴族だった。貴族たちは一家の経済的立場を守るために家ごとの特色を出しており、三善家は算術を特色としていた。恵信尼も和歌や読み書きなどさまざまな教養を身につけていたと考えられる。
三善家と黒谷
為教の義理の父に三善為康という人物がいる。為康は為教と同じく越後介を務めたことがある。彼は信心に基づく念仏を重視しており、また比叡山の黒谷で念仏を称えて過ごしていた聖人(聖)たちに経済的な援助を行っていた。このことから三善家は黒谷の念仏者と親しかったと考えられる。黒谷は法然もかつて過ごしていた地である。
九条家と法然
1202年(建仁2)とその前年に九条兼実とその娘任子(または任子)が法然から戒を授かっている。これだけの地位の人の戒師を無位無官の(地位の低い)僧が勤めるのは異例のことであり、それだけ彼らが法然に傾倒していたことがわかる。
これらの関係から三善家と法然にも関わりがあり、恵信尼も法然の教えを受けていたと考えられる。
親鸞との結婚
1201年(建仁1)に親鸞が法然のもとを訪れた。後に示す『恵信尼消息』からは恵信尼が法然のもとに通う親鸞の様子を見ていたことがうかがえる。恵信尼と親鸞が出会い、結婚したのはこの時期だったと考えられる。1201年時点で恵信尼が20才、親鸞が29才であった。
なお元々は日本において僧侶の結婚は禁じられており、9世紀末には処罰された例もある。しかし10世紀から16世紀末までは野放しになっており、そればかりか実子への財産の相続権が認められるなど、僧侶の妻帯は公的に認められていた。僧侶たちも公然と妻帯していた(『改訂 歴史のなかに見る親鸞』P.95-99 を参考にした)。
越後へ行く
親鸞が35歳のときに承元の法難があり、流罪になって越後へ行った。恵信尼もこれに同行した。当時の朝廷の規則では流罪になった罪人は妻を連れて行くようにいわれていた。
なお恵信尼と親鸞が越後で出会って結婚したとする説もある。その場合『日野一流系図』には誤りがあり、恵信尼は三善為教の娘ではなく越後の豪族の出身ということになる(『改訂 歴史のなかに見る親鸞』P.167-175 を参考にした)。そのほか、三善氏を京都の貴族ではなく越後の豪族とみる説もある。
越後は九条家や三善家に関わりの深い土地だった。越後での生活は慣れない農作業をするような厳しいものではなかったといわれている。
関東へ行く
1211年(建暦1)に親鸞の流罪が赦免され、親鸞一家は常陸国(現在の茨城県)の笠間郡稲田郷(現在の笠間市稲田)に行った。常陸国は非常に豊かな国であり、稲田は街道の宿場町で、近くに稲田神社という大きな神社があり賑わっていた。
晩年
親鸞は62-63才の頃(1234-1235年)に京都へと帰ったといわれている。その際に恵信尼が一緒に付いて行ったかどうかはわかっていないが、『恵信尼消息』によれば少なくとも1254年(建長6)には既に親鸞のもとを離れて越後で暮らしていたことがわかっている(このとき親鸞82才、恵信尼73才)。これについては経済的な理由から、越後にあった三善家の領地に住む必要があったのではないかといわれている。
『恵信尼消息』
越後に住む恵信尼は晩年、京都に住む末娘の覚信尼宛てに手紙を書いている。1256年(建長8)(恵信尼75才)から1268年(文永5)(恵信尼87才)までに書かれた計10通の手紙が現存し、これを『恵信尼消息』という。当時の様子を伝える貴重な史料である。
恵信尼が亡くなった年はわかっていないが、最後の手紙が書かれた年の内に亡くなったものと推定されている。
恵信尼の子たち
『日野一流系図』に記された親鸞の子は7名いる。この内、小黒女房(※2)・信蓮房(※3)・有房(※4)・高野禅尼(※5)・覚信尼(※6)の5名は恵信尼の子と考えられる。4名が『恵信尼消息』に登場し、以下のように呼ばれている。当時は実名ではなく地名や官職で呼ぶ慣習があった。
名前 | 『恵信尼消息』での呼び方 |
---|---|
小黒女房 | おぐろの女ばう(小黒女房) |
信蓮房 | しんれんばう(信蓮房)、くりさわ(栗沢) |
有房 | ますかた(益方) |
覚信尼 | わうごぜん(王御前) |
『日野一流系図』には残り2名の名前も載っている。範意については母は九条兼実の娘とも伝えられるが不明な点が多い。善鸞は父親鸞の使いとして関東に行き、そこで間違った教えを伝えた結果現地で混乱を招いてしまい親鸞から義絶された話などが残っている。善鸞の母親が恵信尼であったかどうかは確定できない(※7)。当時は一夫一妻制ではないため他に妻がいてもおかしくはない。
- ※2 小黒女房
- 生没年未詳。小黒(現在の新潟県上越市安塚区小黒と推定される)に住んでいた。男女の子を残した。親鸞より先に亡くなった。
- ※3 信蓮房
- 栗沢信蓮房明信。1211年(承元5)3月3日の昼に越後で誕生した。4歳のとき両親に連れられて関東に移住し、後に越後へと移り、栗沢(現在の新潟県上越市板倉区栗沢と推定される)に住んだ。栗沢はくりざわ、またはくりさわと読む。
- ※4 有房
- 『日野一流系図』には益方大夫入道と書かれている。有房は俗名で、正式の姓名は藤原有房、または日野有房という。後に出家して道性と称した。益方は居住地で、現在の新潟県上越市板倉区関田升方、または板倉区玄藤寺新田升方、または板倉区中之宮桝方といわれる。上洛して親鸞の臨終に立ち会った。
- ※5 高野禅尼
- 現在の新潟県上越市板倉区高野か板倉区新田付近の高野山に住んでいたのではないかと考えられる。高野禅尼とは「高野に住む男性と結婚し、後に出家した女性」もしくは「高野の領主であり、出家した女性」という意味と考えられる。
- ※6 覚信尼
- 1224年に生まれ1283年に没した。親鸞の末娘。王御前とも呼ばれる。関東で生まれ、親鸞とともに京都に行き、日野広綱と結婚し、覚恵と光玉をもうけた。広綱の死後、小野宮禅念と再婚し、唯善を生む。後の本願寺となる親鸞の廟堂を創設し、それを守護する職に就いた。
- ※7 善鸞の母
- 『恵信尼 ―親鸞とともに歩んだ六十年―』P.45-46 では、『親鸞聖人御消息』の中で善鸞が恵信尼のことを「ままはは(継母)」と呼んでいることから、恵信尼は善鸞の実の母ではなかったとされている。一方『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』P.161 では、善鸞が実母である恵信尼を中傷して「ままはは」と述べたものとみる解釈も紹介されている。
参考文献
[2] 『日本史のなかの親鸞聖人 ―歴史と信仰のはざまで―』(岡村喜史 本願寺出版社 2018年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『改訂 歴史のなかに見る親鸞』(平雅行 法蔵館 2021年)
[5] 『浄土真宗聖典全書(六) 補遺篇』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2019年)
[6] 『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2007年)
[7] 『現代語訳 恵信尼からの手紙』(今井雅晴 法蔵館 2012年)