聖徳太子
聖徳太子とは
聖徳太子(574-622)。飛鳥時代の皇族・政治家。父は用明天皇(?-587)。『日本書紀』などにその生涯が記されている。摂政として推古天皇(554-628)を助け、政治を行った。「冠位十二階」「憲法十七条」の制定、遣隋使の派遣など多大な功績があり、昭和時代には日本の紙幣の肖像としてよく用いられた。
また日本の仏教興隆に尽力した。法隆寺・四天王寺等の寺院建立、『法華経』『勝鬘経』『維摩経』(※1)の義疏(註釈書)製作などこちらにも多大な功績がある。「世間虚仮 唯仏是真」(世間は虚しく、仮のものである。ただ仏の教えのみが真実である。)という言葉を遺したともいわれている。
親鸞と聖徳太子
ここでは浄土真宗の宗祖親鸞と聖徳太子との関わりを中心に述べる。実在していなかったとする説もあるが、ここでは親鸞や当時の人々にとって確かに「実在」していた聖徳太子について述べる。
当時の聖徳太子信仰
聖徳太子の死後『日本書紀』や『聖徳太子伝暦』などにその生涯が記され、超人的な存在として描かれる。また、救世観音(観音菩薩)が仮の姿としてこの世に現れたもの(化身)と考えられるようになった。
六角堂参籠と聖徳太子の夢告
親鸞は29歳のときに比叡山を下り、六角堂(頂法寺)に100日間の参籠(※2)をした。この95日目に見た夢をきっかけとして法然のもとを訪れ、専修念仏の道(専ら称名念仏を修める教え)を歩むようになった。現代の我々とは違い当時の人々は夢をとても重要なことだと考えていた。夢の中で仏や菩薩が語った言葉には人の意思がはたらいておらず、それらは純粋なものであると考えられていた。この参籠について『恵信尼消息』(※3)と『御伝鈔』(仏教知識「親鸞伝絵(御伝鈔)」参照)に書かれている。
この文は、親鸞聖人が比叡山で堂僧をつとめておられたとき、山を下りて六角堂に百日間こもり、来世の救いを求めて祈っておられた九十五日目の明け方に、夢の中に聖徳太子が現れてお示しくださったお言葉です。ご覧になっていただこうと思い、書き記してお送りします。 (『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』P.127-128より)
『恵信尼消息』によれば親鸞の夢の中に聖徳太子が現れ、ある言葉を示したという。その言葉はこの手紙に同封されていたはずであるが現存していない。そのためどのような言葉だったのかはわかっておらず、以下のどちらかではないかと考えられている。
聖徳太子廟窟偈(三骨一廟文)
我身救世観世音 定慧契女大勢至
生育我身大悲母 西方教主弥陀尊
為度末世諸衆生 父母所生血肉身
遺留勝地此廟崛 三骨一廟三尊位(『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』P.981より、一部漢字は筆者が新字体に直した)
河内国の磯長(現在の大阪府太子町)の聖徳太子の廟所には聖徳太子夫妻と母の3人が葬られている。そのことからこの廟所は「三骨一廟」と呼ばれる。この偈文はここにあったとされる石碑に書かれたものの一部であり、ここでは聖徳太子が自分は観音菩薩の化身であり、妻は勢至菩薩の化身であり、母は阿弥陀仏であるといっている。親鸞はこれを書き写しており、関心の高さが伺える。
行者宿報の偈
建仁三年四月五日の深夜、明け方に親鸞聖人が夢のお告げを受けられた。『親鸞夢記』には、次のように記されている。
「六角堂の本尊である救世観音菩薩が、厳かで端正な顔立ちをした尊い僧のお姿を現し、 (中略) 〈もし行者が過去からの因縁により女犯の罪を犯してしまうなら、わたしが美しい女の身となりその相手となろう。そして一生の間よく支え、臨終には導いて極楽に往生させよう〉とお告げになり、(『浄土真宗聖典 御伝鈔 御俗姓 (現代語版)』 P.5より、下線は筆者が引いた)
『御伝鈔』上巻第三段「六角夢想」にはこのときの様子が書かれている。引用文の中の下線を引いた一文が「行者宿報の偈」である。なお『親鸞夢記』は現存しない。この「六角夢想」には
救世観音菩薩とはすなわち聖徳太子の本地であり、 (『浄土真宗聖典 御伝鈔 御俗姓 (現代語版)』 P.7より)
という親鸞の言葉も記されている。本地とは本体という意味である。親鸞は観音菩薩が聖徳太子の姿をとって夢の中に現れたと解釈した。
聖徳太子に関する和讃
親鸞は教えを広めるために数多くの和讃を製作した。中でも浄土真宗の教えについて書かれた「三帖和讃」(※4)が代表的であるが、その他にも聖徳太子を讃嘆した和讃が多数存在する。
『皇太子聖徳奉讃』
75首からなる。聖徳太子が日本で仏教を興隆したことを讃嘆した。六角堂、四天王寺、「憲法十七条」に関する和讃がある。1255年(建長7)に製作された。
『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』
114首からなる。主に『三宝絵詞』を忠実に和訳し、聖徳太子の生涯を讃嘆した。1257年(康元2)に製作された。
「皇太子聖徳奉讃」
11首からなる。先に挙げた2種類の和讃に比べると親鸞自身の言葉によって聖徳太子を讃えたものが多い。なおこちらは「三帖和讃」の『正像末和讃』の中にあり、先に挙げた同名のものとは別である。これらの和讃の中で親鸞は聖徳太子を観世音菩薩の化身と崇め、日本において仏教を弘め興した人として「和国の教主」と讃えた。
(八四)
救世観音大菩薩 聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして 阿摩のごとくにそひたまふ
(現代語訳)
救世観音は、聖徳太子としてこの世にそのお姿を現され、
まるで父や母がわが子を思うように、見捨てることなくいつも付き添っていてくださる。(九〇)
和国の教主聖徳皇 広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり 奉讃不退ならしめよ
(現代語訳)
日本に初めて仏教を説きひろめてくださった聖徳太子の広大な恩徳は、どれほど感謝してもし尽せるものではない。
その教えにしたがって一心に阿弥陀仏に帰命し、敬いたたえ続けるがよい。 (『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』P.177, P.180より)
親鸞が晩年に聖徳太子について書いた理由
親鸞は他にも1257年(正嘉元)に『上宮太子御記』を著している。また1258年(正嘉2)に著した『尊号真像銘文』にも聖徳太子に関する記述がある。
聖徳太子に関する和讃やその他の書物が晩年に多く著された理由としては、伝道をする上で必要だったといわれている。当時、聖徳太子信仰が広まった地域で布教を行うときには聖徳太子に関連させて教えを語ることが有力な手段だった。親鸞は聖徳太子に導かれた一人として、法然から受け継いだ本願念仏の伝統の中に聖徳太子を位置づけていった。
浄土真宗本願寺派と聖徳太子
先に述べたような親鸞の姿勢を受け継ぎ、浄土真宗本願寺派の寺院では本堂に聖徳太子の影像(掛け軸)を七高僧の影像とともに左右の余間に掲げている(左右どちらに掲げるかについては仏教知識「余間」を参照のこと)。
本願寺では毎年4月10-11日に阿弥陀堂で聖徳太子の祥月法要(聖徳太子会)が勤められている。この法要では「皇太子聖徳奉讃」から先ほど引用した(九〇)(和国の教主~)の和讃と次に引用する和讃の2首が読まれている。
(八七)
他力の信をえんひとは 仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を 十方にひとしくひろむべし
(現代語訳)
他力の信心を得ている人は、仏のご恩に報いるために、
往相・還相の回向による阿弥陀仏のはたらきを、すべての世界にあまねくひろめるがよい。 (『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』P.178より)
2021年4月13-14日には1400回忌法要が勤められた。余談ではあるが参考文献に挙げた『観音菩薩の化身 聖徳太子 ― 浄土真宗「和国の教主」―』、『はじめて読む 浄土真宗の聖徳太子』の2冊がそれぞれ本願寺出版社、東本願寺出版から同年4月に出版されている。
語注
- ※1 『法華経』『勝鬘経』『維摩経』
- 正式名称はそれぞれ『妙法蓮華経』、『勝鬘師子吼一乗大方便方広経』、『維摩詰所説経』
- ※2 参籠
- 寺社や神社の特定の場所で、時には断食や不眠不臥(不眠不休)をしながら礼拝・読誦などを行うこと。そのような行業によって仏や神が夢の中に現れ、いろいろな指示を受けることを期待した。
- ※3 恵信尼消息
- 親鸞の妻である恵心尼が書いた手紙。末娘の覚信尼宛てに書かれた10通が残っている。
- ※4 三帖和讃
- 『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』の三部の総称。1248年(宝治2)に『浄土和讃』『高僧和讃』、1258年(正嘉2)に『正像末和讃』が成立した。「和語の教行信証(仏教知識「顕浄土真実教行証文類」参照)」ともいわれる。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[3] 『浄土真宗聖典 親鸞聖人御消息 恵信尼消息(現代語版)』(本願寺教学伝道研究所 聖典編纂監修委員会 本願寺出版社 2007年)
[4] 『浄土真宗聖典 御伝鈔 御俗姓(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2020年)
[5] 『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2016年)
[6] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[7] 『日本史のなかの親鸞聖人 ―歴史と信仰のはざまで―』(岡村喜史 本願寺出版社 2018年)
[8] 『観音菩薩の化身 聖徳太子 ― 浄土真宗「和国の教主」―』(本願寺出版社 2021年)
[9] 『はじめて読む 浄土真宗の聖徳太子』(真宗大谷派教学研究所 東本願寺出版 2021年)