御伝鈔(上巻)を読んで

【ごでんしょうじょうかんをよんで】

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第一段 しゅっ学道がくどう

最初は親鸞しんらんちが記載されている。親鸞は藤原ふじわらの鎌足かまたりを祖先とする日野ひの家に生まれ、父は日野有範ありのりと伝えられている。1181年(養和ようわ1)、親鸞が九歳の春の頃伯父おじにあたる日野範綱のりつなに連れられて、青蓮院しょうれんいんにて親鸞は得度とくどを受け、範宴はんねんと名のることになった。それから天台てんだいしゅうを学び、えいざん横川よかわで源信和尚かしょうが伝えた浄土教も学んだ。

第二段 吉水きっすい入室にゅうしつ

比叡山を下山して、1201年(建仁けんにん1)二十九歳の春に親鸞は浄土教を学ぶために吉水よしみず禅坊ぜんぼう法然ほうねんを訪ねた。法然は親鸞に本願ほんがん他力たりきの根本である四十八しじゅうはちがんの第十八願を丁寧に説明すると、親鸞はたちまちに他力の趣旨しゅし受得じゅとくして信心しんじん決定けつじょうされた。

第三段 六角ろっかくそう

1203年※(建仁3)親鸞が三十一歳の時、四月五日の明け方に六角堂の救世くせ観音かんのんより夢想(夢をみる)にあう。それは以下のような内容だった。

  • 救世観音が「あなた(親鸞)がいままでの因縁いんねんから、たとえ女犯にょぼんをしても私(観音)が玉女ぎょくにょという女の姿になり、肉体のまじわりを受ける。あなたの一生を立派にして、臨終りんじゅうには極楽浄土に導こう。」、そして「このことを全ての人々に伝えるように」と親鸞に告げた。
  • 親鸞が六角堂の外に出てみると、東方の山岳さんがく群集ぐんしゅうするたくさんの人々が見えた。そこにおもむき、先ほどのおげの内容をき聞かせ、それを終えたところで目がめた。

その後(いつかは不明であるが数十年先)親鸞は「日本に仏教を伝来した聖徳しょうとく太子たいしは観音菩薩の化身であり、法然が勢至せいし菩薩ぼさつの化身である。両菩薩の引導いんどうに順じて、如来の本願をひろめることで真宗がこうじて、念仏もさかんになる。ただちに阿弥陀仏をあおぐべし」とおっしゃった。

※法然に会う前の建仁元年という説がある

上記の救世観音のお告げは筆者の私訳である。浄土真宗本願寺派のかけはし實圓じつえん

「そなたが避けることのできない罪業の報いによって、もし戒律を破って妻をめとることがあるならば、私が玉女身ぎょくにょしんとなってそなたの妻になりましょう。そしてあなたの一生涯を美しく荘厳しょうごんして、臨終りんじゅうにはあなたを浄土に送りとどけましょう。これが私の誓願です」 (『梯實圓和上講和集『歎異抄』師訓篇を読む1 ―前序・第一条・第二条より―』P.175 より)

と訳している。

四段しだん れんそう

1256年(建長けんちょう8)親鸞が八十四歳の時、弟子の蓮位房れんいぼうは夢想のお告げにあう。その内容は聖徳太子が親鸞を礼拝らいはいし、「私(聖徳太子)は阿弥陀如来を敬礼きょうらいします。親鸞が教えを伝えるためこの世を生きるのは、五濁ごじょく悪時あくじ悪世界あくせかいの中で、たくさんの人々にこの上ないさとりを得させるためです。」といったお告げであった。親鸞は阿弥陀如来の化身であるというのは間違いない。

※これまでは時系列で進んできたが、ここだけ晩年のことが出てきたのは覚如はいかに親鸞が素晴らしいかと伝えたい思いが込められている。

第五段 せんじゃくぞく

1205年(元久げんきゅう2)親鸞が三十三歳の時に法然の『選択せんじゃく本願ほんがん念仏ねんぶつしゅう』の書き写しを許可されて、その写し本にしゃくのしゃくくうという法名を書いていただいた。また、法然の真影しんねい肖像画しょうぞうが)を書くことも許可をいただいた。さらに南無阿弥陀仏と往生おうじょう礼讃らいさんもんの一部(礼讃七一一)を書いていただかれた。そして夢想のお告げにより新たな法名である綽空の文字も書いていただいた。法然が七十三歳の時のことであった。もともと『選択せんじゃくしゅう』とは九条兼実くじょうかねざねの願いによって完成され、浄土真宗の根本になった書物である。これを書き写し、真影を書く許可をいただいた人は数少なく、親鸞は悲喜ひきの涙(※)を抑えながらこのことを『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』の「化身けしん文類もんるい」に著した。

※「悲喜の涙」とは歓喜の涙のことであり、親鸞からすればこの上にない喜びであったのであろう。

第六段 しんぎょうりょう

法然が布教した他力往生の教えは世に広く伝わり、多くの人々がこれに帰依きえした。それは辺国へんごくの人々、貴賤きせんわず広まった。法然の僧庵そうあんの周りには三百八十人余りの僧侶がいたたが、教えの真意にまでいたる者は数が少なく、五、六人しか居なかった。親鸞は「弟子が集まったとき、真に浄土へ往生できる信心をいただけているかどうかを聞いてみたい」と法然に願い出た。法然は「明日にでもこの議題を提案してください」と親鸞に仰った。親鸞は次の日集まられた三百人余りの弟子達に「しん退たい(※)であるか、ぎょう退たい(※)であるか。どちらかの座に着席下さい。」と問いかけた。多くの法然の弟子達はどちらが正しいのか迷った。せい覚法印かくほういん(天台宗の僧であり法然の弟子)とほう蓮房れんぼうしんくう(比叡山のえいくう師事しじしていたが叡空死後に法然に帰依した)が信不退の座に座り、遅れて来た法力房ほうりきぼう蓮生れんせい(俗名熊谷くまがいなおざね。源頼朝に仕えていたが出家して法然門下に入った)は信不退の座に座り、親鸞もここに座った。そして法然も信不退に座り、多くの弟子は信不退に座った者をみて尊敬され、また行不退に座ったことを後悔したという。

※信不退、行不退とは

信不退

阿弥陀如来の本願を信じる一念に浄土往生が決定するという立場。

行不退

念仏の行をはげみ、その功徳によって浄土往生が決定するという立場。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.1049より)

しち段 信心しんじんじょうろん

法然が居る部屋に親鸞と正信房しょうしんぼう(比叡山の実全じつぜんに師事していたが法然門下へ)・せい観房かんぼう源智げんち。知恩院第二世)・念仏房ねんぶつぼう(比叡山の僧であったが法然に帰依する)等の弟子達がいる場で親鸞が「法然聖人の信心は、この善信(親鸞)の信心は変わるところはなくおなじものです。」と話したところ思いもよらない論争となった。他の弟子達から「法然聖人と善信(親鸞)の信心が同じはずではないだろう。なぜ同じだといえるのか」と責められ親鸞は「他力の信心においては知恵のしといったわたくしごとは関係がないからです」と答えた。すると法然も「信心が異なるのであれば自力の信です。他力の信は法然の信心も善信(親鸞)の信心も阿弥陀如来からいただく信心であるから少しも異なったところのあるはずがない。ただ一つではないか。もし違うとなれば私(法然)が参る浄土に行くことはあるまい」と言った。

第八段 入西にゅうさい鑑察かんざつ

1242年(仁治にんじ3)、にゅう西房さいぼう(比叡山に入り晩年に親鸞の弟子になる)が親鸞の真影の書写を日頃から親鸞に願っていたところ、親鸞はさっして「七条の定禅じょうぜんほっきょうに頼んでみてはどうか」と仰った。そして定禅法橋が親鸞のもとに参り、顔を拝見して「昨日、夢に出てきたしょうそうと目の前の容貌ようぼうは全く同じであります」と言った。その夢の中にでてきた僧の一人に「この聖僧はどなたでしょうか?」とたずねたら「善光寺の本願御房ごぼうです。」という答えであった。定禅法橋は善光ぜんこうの本願御房とはしょうじんの阿弥陀如来であると耳にしていた。まさに同じ姿をしていた親鸞を見て定禅法橋はその場で合掌をしたといわれている。

※本文中に出てくる年齢表記は数え年である。

※この段も時系列から外れている。

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[3] 『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』(平松令三 本願寺出版社 1997年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『絵物語 親鸞聖人御絵伝 -絵で見るご生涯とご事蹟-』(本願寺出版社 2015年)
[6] 『浄土真宗聖典 御伝鈔 御俗姓(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2020年)

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