御伝鈔(下巻)を読んで

【ごでんしょうげかんをよんで】

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第一段 師資ししせんちゃく

下巻のはじまりは承元じょうげん法難ほうなんといわれる事件のことからつづられている。浄土教ががったことによって聖道門しょうどうもんすたれていった。奈良や叡山えいざんの僧たちは、このことは親鸞しんらんの師匠である法然ほうねんの罪であると訴えた。この件を親鸞は『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』の「しん文類もんるい」に「聖道門は廃れ浄土教は正しい道として盛んである。しかし様々な僧侶や京都の学者たちは正しい教えと悪い教えの区別ができていない。さらにこうぶくの僧侶たちは太上だじょう天皇(いみな尊成たかひら、号は後鳥羽ごとば院)と今上きんじょう天皇(諱は為仁ためひと、号はつち御門みかど院)に上奏じょうそう(天皇に意見を述べること)した。1207年(承元1)二月上旬のことであった。この上奏によって天皇や臣下達はほう道義どうぎそむき、怒りをあらわにして、法然の弟子数名を罪の内容を吟味ぎんみすることなく死刑にした。また、僧籍そうせき剥奪はくだつされ法名ほうみょうではなく俗名ぞくみょうをつけさせられて遠い国へざい(この時代は死刑の次に重い罪状なので、現在の無期むき懲役ちょうえきに等しい)となった者もいた。私(親鸞)もその一人である。これは僧侶でもなければ俗人でもない。ゆえに禿とくの字を姓とする。師匠の法然や弟子たちはそれぞれ辺境へんきょうに流され五年がった。」とあらわした。法然の罪名ざいみょう藤井ふじいの元彦もとひことして土佐国とさのくに幡多はたへ、親鸞の罪名は藤井ふじいの善信よしざねとして越後国えちごのくに国府こくふへと流された。他にも死罪や流罪になった者もた。時は1211年(建暦けんりゃく1)11月17日、順徳じゅんとく天皇により赦免しゃめんが下った。親鸞はその後もしばらく越後にいた。

第二段 いな興法こうぼう

第二段は文章こそ少ないものの、考え方によっては親鸞の布教の原点ではないであろうか。1214年(建保けんぽう2)越後国を出発した親鸞は常陸ひたちのくに笠間郡かさまのこおり稲田いなだのごう隠居いんきょをしていた。ひっそりとしていたはずであったが、次第にたくさんの人が親鸞のまわりに集まってきて、親鸞は仏法を人に伝えるという念願がここにかなった。

第三段 弁円べんねんさい

親鸞は常陸国で専修念仏せんじゅねんぶつを多くの人にひろめていた。山で寝泊ねとまりをして修行する僧である弁円べんねんは念仏の教えを良く思っていなく親鸞を襲おうとしていた。親鸞は板敷山いたじきやまという深い山を往復に使っていたので、弁円は幾度もせをしたが機会が全く無かった。こうなれば弁円は発想を転換して直接会う決意をして親鸞のもとに行った。すると弁円は親鸞の顔を見て自分の行いを後悔して落涙らくるいした。弁円は経緯を説明したが、親鸞は襲われそうになっていたことを全く驚かなかった。弁円は所持していた全ての武器、山伏の象徴である頭巾ときんと柿色の衣を捨てて、あらためて弁円は仏教に帰依きえした。

第四段 はこ霊告れいこく

親鸞は関東から京都へ帰る途中であった。箱根の山を歩いていたが次第に辺りは真っ暗になり、ようやく民家を見つけた。深夜から明け方に近い時間のことであった。家の前に行くと立派な装束しょうぞくにまとった高齢者が出てきた。その者は出てくるなり「この辺は箱根権現ごんげんやしろに近いところで、この地の習慣として神に仕える者が徹夜で遊びます。自分のような年齢でも一緒に遊んでいましたが、寝てしまいました。その時、夢か幻か定かではないが、権現さまが『私が尊敬する客人きゃくじんがこの前を通るから、失礼無く丁寧にもてなしてください。』と目の前で語りかけた。するとあなたが突然としてやってきたわけです。権現さまのお告げが明らかにしているわけで、あなたのことを敬わなければいけません。」と言い、親鸞を招きごそうした。

第五段 くま霊告れいこく

親鸞は京都に帰り(六十二、六十三歳の頃とされる)、人生を振り返るとそれは夢やまぼろしの様に思うことがあった。京都での住まいも、右京や左京と移住を繰り返していたが、五条西洞院ごじょうにしのとういんに住むことにした。この頃、関東で布教していた時代の門徒達が、遠い東の地より親鸞を訪ね京都にやって来た。その中で常陸国ひたちのくに西郡さいのこおり大部おおぶのごう(茨城県水戸市飯富町いいとみちょう)の平太郎へいたろうという人がいた。親鸞の教えを信じ疑いはなかった者である。ある時、平太郎は地元の領主に仕えていた縁で熊野にまいることになった。神社にお参りすることが教えに背くのではないかと心配になり親鸞のもとにやってきた。親鸞は平太郎に言った。

「あらためて自力の聖道門でのさとりを開くことは難しく、ひたすら阿弥陀あみだ如来にょらいの本願を信じて念仏をとなえること。これらの教えは親鸞ではなくインド、中国、日本の高僧たちがお説きになっている。また証誠殿しょうじょうでんと呼ばれる熊野本宮ほんぐうにある熊野権現そのものが阿弥陀如来である。阿弥陀如来は人々を救う願いから阿弥陀如来本体の姿を変えて神の姿になり現れたのである。また、阿弥陀如来の誓願せいがんを信じている者が公的な所縁しょえんで神社にまいることがあっても、それで結構です。そのままの姿勢で良いです。これは神を侮辱ぶじょくや軽視しているものではい。神も怒るようなことはしないでしょう。」

これを親鸞から直接聞いた平太郎は熊野へ詣る旅に出て、道中の神道しんとうの作法などを行わず阿弥陀如来の本願をただただ信じ旅をして熊野に到着した。その晩、平太郎は夢のお告げにあった。証誠殿の扉が開き、貴族の正装せいそうをした俗人が現れ「なぜあなたは道中の作法を守らない体で参詣さんけいをするのだ?」と問いかけられた。その時、俗人の前に突如として親鸞が現れ「平太郎は私の教えによって念仏をする者である」と言った。これを聞いた俗人は姿勢を正しきょうらいの態度をとった。夢が覚めた平太郎はこの不思議な出来事に感動した。帰りに平太郎はもう一度親鸞のもとに参りこの出来事を伝えると親鸞は「そうか、そうか」とわかっていたかのようなうなずきをした。これもまた不思議なことである。

第六段 洛陽らくようせん

1262年(こうちょう2)十一月下旬の頃、親鸞は体調を崩していた。俗世間のことは口にせず、仏恩ぶっとんを頂いた喜びを口にし、またひたすら念仏を称えていた。十一月二十八日正午の頃、頭を北に顔は西に、右脇腹を下にして亡くなった。九十歳の時であった。この時に住んでいた場所はおし小路こうじの南、万里までの小路こうじの東であった。鴨川の東を通って東山の西のふもととり部野べのの南にある延仁えんにんで火葬した。次の日、収骨をして鳥部野の北側にある大谷に納めた。この最後に立ち会った弟子や教化を受けた老若ろうにゃくの人たちは亡くなられた悲しみで皆が落涙された。

第七段 びょうどうそうりゅう

1272年(文永ぶんえい9)冬の頃、親鸞が亡くなってから10年後、東山の西の麓、鳥部野の北、大谷にある親鸞の墓を移転して、同じ東山の西の麓からさらに西にあたる吉水よしみずの北に廟堂を建立して真影しんねいを安置した。親鸞が伝えた浄土真宗はますます盛んになった。それは親鸞が生きていた時代を超える勢いであった。教えを信じる人は数え切れない程であった。僧侶、俗人、老若男女皆がびょうどうに参拝されるようになった。

参考文献

[1] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[3] 『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』(平松令三 本願寺出版社 1997年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『絵物語 親鸞聖人御絵伝 -絵で見るご生涯とご事蹟-』(本願寺出版社 2015年)
[6] 『浄土真宗聖典 御伝鈔 御俗姓(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2020年)

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