余間

【よま】

寺院の本堂において、本尊ほんぞんを安置する空間を内陣ないじんという。内陣を中心とし、その左右に余間、手前に外陣げじん、後方にうしろどうが配置される。

左右の余間の呼称

向かって右の余間を「ひだり余間よま」、向かって左の余間を「みぎ余間よま」という。以前は左右の呼称が逆であったが、2013年4月8日に現在の呼称へと変更され「本尊から見て左・右」となった(脇壇わきだん・余間の呼称の変更について参照)。なお、左余間の方が右余間よりもかみにあたる。

本堂の配置図

余間の荘厳しょうごん

『浄土真宗本願寺派 法式ほっしき規範』によれば平常時は左余間に聖徳しょうとく太子たいしえいを掲げ、まえじょく荘厳しょうごんみつそく花瓶かひん蠟燭立ろうそくたて香炉こうろ)とし、菊灯きくとう(台座がきくの形になった灯明台とうみょうだい一基いっきを置く。右余間には七高僧しちこうそう御影ごえいを掲げ、前卓の荘厳は三具足とし、菊灯一基を置く。御影とは影像えいぞう(肖像)のことであり、一般的には掛け軸を掛ける。

法式規範に掲載される余間の荘厳

なお補足として以下の説明も記載されている。

本堂の構造によっては、両余間の荘厳は、原則を外れない範囲で適宜に変更してもよい。

由緒ゆいしょある宗主しゅうしゅまたは開基かいきなどの御影ごえいを安置する場合は、両余間に適宜に奉懸ほうけんする。

(『浄土真宗本願寺派 法式規範 増補版』P.229-230より抜粋)

歴史的経緯

左右に掲げる御影については変更されてきた歴史がある。かつては左余間に七高僧、右余間に聖徳太子の影像を掲げていた。つまり七高僧が上座、聖徳太子が下座であった。

かつての余間の荘厳

戦前(1939年)に、皇族である聖徳太子の影像が外国人を含む七高僧の影像よりも下座しもざになることは許されないという理由から、聖徳太子を上座かみざ、七高僧を下座に置くようにとのたつ(命令)が出された。

2004年の「宗告しゅうこく第八号」によると、その後、当時の総局そうきょくは「遅くとも1948年4月にはこの達示が失効している」との見解を示した。

したがって七高僧を上座(左余間)、聖徳太子を下座(右余間)に安置するのが正しいが「法式規範」の記述はそうなってはいない。

以下は参考資料である。

1939年 甲達二十二号

甲達二十二号

末寺一般

  今般 聖徳太子奉安様式を別記の通相定ム
   昭和十四年九月十六日

執行長 本多恵隆

  (別記)
   一、太子影ヲ本堂ニ安置スル場合ハ向ッテ右余間二奉安スヘシ
     追而七高僧御影は向ッテ左余間ニ安置ス
     由緒宗主御影等安置ノ場合ハ其左側トス

1996年『戦後問題』検討委員会答申

聖徳太子尊像安置をめぐる「達示」(達示甲第二二号 一九三九年九月三〇日付)は、宗祖の聖徳太子敬慕を「国体」護持の太子像へと変容するものであり、失効すべきである。

(3.教団の今日的課題 第四)

2004年「宗令第二号」(2004年5月24日)

 このたび、宗門が一九三一(昭和六)年から一九四五(昭和二〇)年にいたるまでの一五年にわたる先の戦争に関して発布した、消息・直諭・親示・教示・垂示などは、今後これを依用しない。
  (後略)

2004年「宗告第八号」(2004年5月24日)

 このたび、二〇〇四(平成一六)年五月二四日付発宗令第二号による、「宗門が一九三一(昭和六)年から一九四五(昭和二〇)年にいたるまでの一五年にわたる先の戦争に関して発布した、消息などは、今後これを依用しない」とする主旨をふまえ、また「聖徳太子奉安様式」制定にかかる達示及び「聖教の拝読並びに引用の心得」通達にかかる総局の対応を明らかにするため、ここに別紙のとおり「宗門における戦後問題への対応に関する総局見解」を告知する。
  (日付・記名 略)

宗門における「戦後問題への」対応に関する総局見解(全文)
 このたび、宗務執行の責任を負う総局は、一九三一(昭和六)年から一九四五(昭和二〇)年に至るまでの一五年にわたる先の戦争において、宗門が発布した消息・直諭・親示・教示・教諭・垂示・達示・通達・訓告及び訓示その他の法規的措置によるすべての事項について、御同朋の社会をめざした基幹運動の推進のために、真摯に過去の歴史に向き合い、問題解決に向け取り組んでまいりました。

 ついては、本日、宗門の先の戦争にかかる責任を深く受けとめ、宗門内外に対して宗門が発布したこれらの文書の検証をもとに、その見解を明らかにするものであります。

  一 戦時下に発布した「消息」などの取り扱い
  二 一九三九(昭和一四)年九月一六日に発布(甲達二二号)の「聖徳太子奉安様式」を定めた達示
  三 一九四〇(昭和一五)年四月五日に発布の「聖教の拝読並びに引用の心得」に関する通達

 上記一の、戦時下に発布した「消息」などの取り扱いについては、国策としての戦争に協力するものであったことを認め、これらの文書を慚愧の対象とし、全てのいのちを尊ぶ宗門としてこれを依用しないことを広く宗門内外に周知するため法的措置を講じたものであります。

 また、二、三については、宗門の最高法規たる「浄土真宗本願寺派宗法」が一九四六(昭和二一)年九月一一日に発布、翌一九四七(昭和二二)年四月一日に施行されており、その附則第一〇〇条において「本宗法発布以前に制定され、現に施行中の諸規則で、本宗法施行に際し、本宗法及びこれに基く諸規制に抵触しないものは、本宗法施行の日から一年に以内、その効力を有する。」との経過措置が講じられました。

 従って、これ以前の一八八六(明治一九)年に発布された「宗制寺法」に基づく全ての諸法規は、遅くとも一九四八(昭和二三)年四月一日には、全て失効しているものであります。

(後略)

参考文献

[1] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[2] 『同朋運動ブックレット⑦ 十五年戦争下の西本願寺教団―その思想と行動―』(神戸修 同和教育振興会 2009年)
[3] 『同朋運動ブックレット⑧ 十五年戦争下の西本願寺教団―その思想と行動―(資料編)』(神戸修 同和教育振興会 2009年)
[4] 『親鸞と差別問題』(小武正教 法蔵館 2004年)

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