聖徳太子展に思う
2021年9月4日から10月24日まで大阪市立美術館にて開催されていた「聖徳太子 日出づる処の天子」という展覧会に、最近、日本史に興味を持ちだした娘にせがまれて行ってきました。
この展覧会は、聖徳太子の没後1400年を記念して開催されたもので、ほかにも奈良国立博物館と東京国立博物館を巡回する「聖徳太子と法隆寺」展が別に開催されています。2021年は、ちょっとした「聖徳太子イヤー」だったといえるでしょう。
さて、今回の聖徳太子展では、地元である四天王寺が全面協力しただけあって、かなりの点数の展示品が集まりました。中には、大阪鶴林寺の秘仏なども展示されており、聖徳太子(以下、太子)を菩薩の化身とし信仰の対象とした「太子信仰」が、どれほど民衆の間に深く根ざし、広まっていったかを誇示するような展示となっていました。まさに、太子信仰の総本山ともいえる四天王寺の面目躍如といったところでしょうか。
この膨大な展示品に囲まれながら、私は不思議と感動することなく、どちらかと言えば居心地の悪さを感じながら、ある話を思い出していました。それは、このホームページの仏教知識「聖徳太子」でも触れられている「太子は実在していなかった」とする「太子非実在説」です。これは歴史学者の大山誠一氏が中心となって唱えた学説で、1999年に発表された当時はセンセーショナルにとらえられ、マスコミ等でもさかんに報道されました。その学説に従って、2017年に文部科学省は教科書における太子の表記を「小学校では聖徳太子(厩戸王)とし、中学校では厩戸王(聖徳太子)とする」旨を発表しました。この件も「教科書から聖徳太子が消える」として報道されたことを覚えている方も多いと思います(とはいえ、これは批判も多くのちに文部科学省は撤回をしています)。
大山氏によると、「聖徳太子という人物は、日本書紀の編纂時に当時の権力者(皇族・藤原氏・仏教界)が天皇の権威を高めるために捏造したものであり、太子の業績もそのときに付け加えられたものである。聖徳太子のモデルは地方の一王族であった『厩戸王』で、彼は政治に参加する権限などなかった」として、「聖徳太子」という神格化された人物は、皇国史観を補強するために捏造されたもので、太子信仰は仏教を通じて天皇崇拝を広めるために意図的に流布された、としています。
やはりというべきか、案の定というべきか、この大山説については批判的な論証も数多くなされています。その中では、コンピューターを活用した「大蔵経」の研究で有名な石井公成氏による仏教文献学の立場からなされた反論は、石井氏の最新の研究成果を反映しており、たいへん興味深く読ませて頂きました。少し、ご紹介いたしましょう。
石井氏の『聖徳太子 実像と伝説の間』(石井公成/春秋社/2016)によれば、まず大山説が採用する「厩戸王」という単語自体が日本書紀には記されておらず、この語句は日本史学者の小倉豊文(1899-1966)氏が創唱した語句であると指摘しています。また、大山氏が後世の捏造とした『十七条の憲法』は、その文体から太子と同時代の日本人が書いたものであり、内容を見ても次期天皇の候補者が書いたとして、後世の潤色はあるにしても大筋は太子が書いたとみて良い、としています。同様に、『勝鬘経』『維摩経』『法華経』の註釈書である『三経義疏』についても、大山氏は唐からの帰国僧である道慈(?-744)の作であるとしていますが、石井氏は隋に伝わる註釈書が種本であり、漢文が和製漢文で書かれていることから、やはり太子の作であると反論しました。
このように、石井氏は大山説に反論した上で、日本書紀の太子に関する記述を詳細に分析していきます。そこに立ち現われてくるのは、「実在しない太子」でもなく「太子信仰の対象となった超人的な活躍をする太子」でもありませんでした。大叔父の蘇我馬子とともに推古天皇に替わり政治を行い、当時の最先進国であった隋の政治様式を取り入れ(冠位十二階)、天皇継承に際しての決まりごとを制定し(十七条の憲法)、これもまた当時の最新の考え方であった仏教を学び(三経義疏)、それを天皇の権威と結びつけた(三宝興隆)、優秀な皇族政治家としての太子の姿でした。後世における太子信仰の広まりは、天皇の権威を広めるという意味では、太子の思惑通りだったのかもしれません。その太子自身は天皇になることなく没し、その子孫の上宮家も歴史の中に埋没していくのですが。
そもそも、「聖徳太子」という存在自体が毀誉褒貶の激しい、評価の定まらない存在だったと、石井氏は指摘しています。戦国時代には守屋合戦で華々しい活躍をした軍神として崇められていました。そして、江戸末期に水戸国学が盛んになると、天皇を謀殺した蘇我馬子をいさめなかったとして逆賊扱いをされています。それは、太子創建の法隆寺が明治の廃仏毀釈で窮乏し、太子ゆかりの宝物を宮内庁に差し出すことで生き延びた、という事実にも現れています。その後、国家神道が確立されると、ナショナリズムの面から「隋との対等外交を果たした太子」という再評価が始まります。また、昭和初期から太平洋戦争下においては、「天皇絶対主義の元祖」「背私向公(個人の感情を抑えて、公・国家のためにつくす、『十七条の憲法』の「十五条」)の人」として、国家を挙げて称賛されていきます。そして、その称賛のための理論的支柱を担ったのは、金子大栄氏や花山信勝氏などの浄土真宗の僧侶たちでした。
石井氏は前掲書の終わりに、このように書いています。
どの時代にあっても、むろん、太子が生きていた時代にあっても、人々がいだく聖徳太子のイメージは、その当時の社会状況を反映したものであり、また、それぞれの人の心の願いを反映したものでした。最近の日本社会について言えば、戦後盛んになった批判的研究を、かたよった方向におし進めた聖徳太子虚構説がマスコミを通じてかなり影響を与えた一方で、戦時中のように「背私向公」を説く聖徳太子像が再び評価されつつあるように思われるのは、筆者の思い過ごしでしょうか。 (『聖徳太子 実像と伝説の間』 P.240より)
私たちは、ひとつの事象をあるがままに見るのではなく、自分の見たいようにみて、とらえてしまいがちです。その偏見を捨て去ることはたいへん難しいことですが、同じあやまちを繰り返さないためにもその努力は怠ってはいけない、と石井氏の著作より学ぶことができました。聖徳太子という一人の人物が、多種多様な評価をされてきた中、その評価をいったん白紙に戻し偏見を排したうえで書かれた石井氏の労作には、頭が下がるばかりです。