法然(1133~1212)。浄土宗の開祖。
生涯
法然は、美作国久米(現在の岡山県)に生まれた。父の死により菩提寺に入寺し、15歳(13歳とも)で比叡山に登り、源光・皇円に師事し天台教学を学んだ。
1150年、比叡山西塔の黒谷に隠棲していた叡空をたずねて弟子となった。
黒谷は、源信らがはじめた二十五三昧会の伝統があるところで、僧侶としての栄達を棄て、墨染めの衣を着て念仏するものの集まるところとなっており、その指導者が叡空であった。法然は、この黒谷の経蔵(報恩蔵)にある一切経(すべての経典)を読破し、比叡山で「智慧第一の法然房」と呼ばれるまでになった。やがて法然は、称名念仏に傾倒していくようになり、師である叡空と「称名(仏の名号を口に称えること)」と「観仏(仏を観察思念すること)」のどちらが勝れているのかで論争になったと伝えられている(『法然上人行状絵図(四十八巻伝)』)。
1175年、黒谷の経蔵で善導の『観経疏』の一文により専修念仏(専ら称名念仏をすること)に帰した。まもなく比叡山を下って東山吉水に移り、この専修念仏の教えをひろめた。浄土宗ではこの年を立教開宗とする。1186年、諸宗の学僧と大原の勝林院で浄土宗の教義について討論をし(大原問答)、専修念仏が末法の世に相応することを主張した。この時に参加した諸宗のすべての学僧を論破したと伝えられている。
1198年、九条兼実の願いに応じ『選択本願念仏集』を著すなどして法然教団の勢力は拡大していった。しかし、専修念仏が「生まれつきのままにて念仏する」(『禅勝房に示される御詞』)という誰もが無条件に肯定される教えであり、
これまでの聖道門の教えに対し批判的になることから、南都(奈良の興福寺等)北嶺(延暦寺)との軋轢が生じていった。1207年、これらの軋轢が生じる中、後鳥羽上皇は専修念仏を禁止し、法然教団の4名を死罪、法然や親鸞など8名を流罪とした(承元の法難)。法然は、土佐国に流罪(実際は讃岐国に)となった。同年の12月には赦免されたが京都に戻ることは許されず、摂津箕面の勝尾寺に滞在した。1211年、京都に戻ることが許され、東山大谷に戻るものの、翌年1212年に没した。法然の「専修」の思想は、弟子の親鸞をはじめ、その後の日本仏教に大きな影響を与えた。著書に『選択本願念仏集』等がある。
親鸞の評価
宗祖親鸞は、法然を真宗七高僧の第七祖とし、著書の中で、本師源空・源空聖人・源空法師・本師聖人などと記している。また法然の偉業は、末法の世でもすべての人が阿弥陀如来の本願により往生浄土できるという、真実の教えを日本にひろめたことであるとし、その功績を次のように『正信念仏偈』の中で讃えた。
【現代語訳】
源空聖人は、深く仏の教えをきわめられ、善人も悪人もすべての凡夫を哀れんで、
この国に往生浄土の真実の教えを開いて明らかにされ、選択本願の法を五濁の世にお広めになった。
【現代語訳】
「迷いの世界に輪廻し続けるのは、本願を疑いはからうからである。
速やかにさとりの世界に入るには、ただ本願を信じるよりは他はない」と述べられた。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.151-152)
また、『高僧和讃』においても二十首、法然の功績を讃えている。
参考文献
[1] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『真宗入門 正信偈のこころ』(東本願寺出版部 1987年)
[5] 『正信偈もの知り帳』(野々村智剣 法蔵館 1994年)
[6] 『のこのこおじさんの楽しくわかる正信偈』(和田真雄 法蔵館 1991年)
[7] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『真宗学シリーズ7 真宗聖典学② 七高僧撰述』(信楽峻麿 法蔵館 2012年)
[10] 『親鸞思想と七高僧』(石田瑞麿 大蔵出版 2001年)
[11] 『日本の名著5 法然』(塚本善隆 中央公論社 1983年)
[12] 『法然と親鸞』(佐々木正 青土社 2003年)
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ナーガールジュナ(150~250頃)。漢訳名(かんやくめい)は龍樹。
南インドに生まれる。多くの経典に精通し、「空」の思想を確立した。
龍樹以後の大乗仏教は多大な影響を受け、後に日本では八宗の祖とも称された。
著書に『中論』『大智度論』『十住毘婆沙論』など著書多数。
真宗七高僧第一祖。
ヴァスバンドゥ(400頃~480頃)。漢訳名は天親または世親。
ガンダーラのプルシャプラ(現在パキスタン北西部ペシャワール)に生まれる。
初めは部派仏教に学び『倶舎論』などを撰述するが、兄の無着の勧めで大乗仏教に帰依する。
著書に『唯識三十頌』『唯識二十論』『十地経論』 『浄土論』(往生論)など多数あり、
その著書の多さから「千部の論師」と称えられる。
真宗七高僧第二祖。
曇鸞(476~542頃)。
中国の雁門(がんもん 現在山西省)に生まれる。
『大集経』の注釈中に病に倒れた後、
長生不老の仙経(仏教ではない教え)を陶弘景から授かった。
その帰途に洛陽において、『浄土論』の漢訳者である北インド出身の僧、
菩提流支に会い、『観無量寿経』を示された。
直ちに曇鸞は自らの過ちに気付き、仙経を焼き捨て浄土教に帰依した。
著書に『往生論註』(浄土論註)・『讃阿弥陀仏偈』などがある。
真宗七高僧第三祖。
道綽(562~645)。
中国の汶水(現在山西省)に生まれる(諸説あり)。
14歳で出家し『涅槃(ねはん)経(ぎょう)』を究めた後、
慧瓚禅師の教団に入り禅定の実践に励む。
慧瓚禅師没後、玄中寺の曇鸞の功績を讃えた碑文を読み、浄土教に帰依する。
『観無量寿経』を講ずること二百回以上、日に七万遍の念仏を称えたといわれる。
著書に『安楽集』がある。
真宗七高僧第四祖。
善導(613~681)。
中国浄土教の大成者。
中国の臨淄(現在山東省)に生まれる(諸説あり)。
出家し各地を遍歴し、玄中寺の道綽に師事して『観無量寿経』の教えを受け、浄土教に帰依した。
道綽没後、長安の南の終南山悟真寺に入り厳しい修行に励む。
その後、長安の光明寺や市街において民衆に念仏の教えを弘める。
後に法然や親鸞をはじめ、日本の浄土教にも強い影響を与えた。
著書に『観無量寿経疏』
(観経疏) 『法事讃』『観念法門』『往生礼讃偈』『般舟讃』がある。
真宗七高僧第五祖。
源信(942~1017)。大和国当麻(現在の奈良県)の生まれ。幼くして比叡山に登り、良源に師事し天台教学を究めたが、その名声を嫌い、横川に隠棲した。44歳の時、様々な経・論・釈より往生極楽に関する文を集め、日本において最初の本格的な浄土教の教義書である『往生要集』を撰述した。浄土教はもとより、文学・芸術にも大きな影響を与えた。この他の著書に、『阿弥陀経略記』・『横川法語』・『一乗要決』等、多数がある。真宗七高僧第六祖。