源信

【げんしん】

源信げんしん (942~1017)

生涯

源信げんしんは、大和国やまとのくに当麻たいま(現在の奈良県)に生まれた。幼くして比叡山ひえいざんに登り、天台宗てんだいしゅう中興ちゅうこうともいわれる良源りょうげん師事しじ天台てんだい教学きょうがくを学んだ。15歳で天皇の前で経典きょうてんを解説する講師こうしに選ばれたとされるが、その真偽は不明である。973年、天台宗の学者がくしゃとしての最終試験ともいえる広学こうがく竪義りゅうぎの受験者である竪者りっしゃに選ばれ及第きゅうだい(合格)し、天台宗の学者として認められるようになった。しかし、やがてその名声めいせいを嫌い、横川よかわ隠棲いんせい恵心院えしんいんに住した。

985年、様々なきょうろんしゃくより往生おうじょう極楽ごくらくに関するもんを集め、日本において最初の本格的な浄土教じょうどきょう教義きょうぎしょである『往生要集おうじょうようしゅう』三巻を撰述せんじゅつした。この著書は、数多くの経・論・釈の中からかなめとなることばを集めたことから「小一切経しょういっさいきょう」とも呼ばれており、浄土教はもとより文学・芸術にも大きな影響を与えた。翌年、夜を徹して念仏三昧ねんぶつざんまいを行う念仏結社けっしゃ二十五にじゅうご三昧さんまい」を主導し、学問だけではなく実践にも力を入れた。988年、九州で出会ったそうの僧斉隠さいいんに『往生要集』を宋の仏教界に届けるように託し、斉隠は天台山てんだいさん国清寺こくせいじへ持ち帰ったとされる。本場の天台宗にその評価を仰いだものと思われるが、宋でも高い評価を得たと伝えられている。

1004年、権少ごんのしょう僧都そうずに任じられるが、翌年に辞退した。その後も多くの書物を著し天台宗の発展に貢献し、恵心えしんりゅうといわれる学派がくはの祖となった。1017年、阿弥陀あみだ仏像ぶつぞうの左手かららしたひもを持って念仏しつつぼっしたと伝えられている。著書に『往生要集』『阿弥陀あみだきょう略記りゃっき』『横川よかわ法語ほうご』『一乗いちじょう要決ようけつ』等、多数がある。 2017年2月、西本願寺阿弥陀堂で源信の千回忌法要が天台宗と合同で勤められ、歴史上初めて天台宗最高位の僧侶である天台座主ざすが西本願寺で法要の導師どうしとなった。

親鸞の評価

宗祖しゅうそ親鸞しんらんは、源信を真宗七高僧しちこうそう第六祖だいろくそとし、著書の中で源信和尚かしょう・源信大師だいし本師ほんし源信・源信僧都そうず首楞厳院しゅりょうごんいん楞厳りょうごんの和尚などと記している。また、源信の偉業は『往生要集』において報土ほうど化土けどの二つの浄土を示したことであるとした。源信は自力じりきなどのさまざまな行をまじえる浅い信心しんじんでは方便ほうべん(仮)の浄土である化土に往生するとし、他力たりきによる深い信心でのみ真実の浄土である報土に往生するとした。そして、私(源信)のような極重悪人ごくじゅうあくにんが救われるには、ただ念仏をして真実の浄土に往生をするほかにはないと示された。親鸞はその功績を次のように『正信しょうしん念仏ねんぶつ』の中でたたえた。

【現代語訳】 源信和尚は、釈尊の説かれた教えを広く学ばれて、ひとえに浄土を願い、また世のすべての人々にもお勧めになった。 さまざまな行をまじえて修める自力の信心は浅く、化土にしか往生できないが、念仏一つをもっぱら修める他力の信心は深く、報土に往生できると明らかに示された。

【現代語訳】 「きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら、阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」と述べられた。

(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.150-151 より)

また、『高僧こうそう和讃わさん』においても十首じっしゅ、源信の功績を讃えている。

参考文献

[1] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『正信偈もの知り帳』(野々村智剣 法蔵館 1994年)
[5] 『のこのこおじさんの楽しくわかる正信偈』(和田真雄 法蔵館 1991年)
[6] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[7] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[8] 『真宗シリーズ7 真宗聖典学② 七高僧撰述』(信楽峻麿 法蔵館 2012年)
[9] 『親鸞思想と七高僧』(石田瑞麿 大蔵出版 2001年)
[10] 『シリーズ親鸞第三巻 釈尊から親鸞へ―七祖の伝統』(狐野秀存 筑摩書房 2010年)

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ナーガールジュナ(150~250頃)。漢訳名(かんやくめい)は龍樹。 南インドに生まれる。多くの経典に精通し、「空」の思想を確立した。 龍樹以後の大乗仏教は多大な影響を受け、後に日本では八宗の祖とも称された。 著書に『中論』『大智度論』『十住毘婆沙論』など著書多数。 真宗七高僧第一祖。
天親
ヴァスバンドゥ(400頃~480頃)。漢訳名は天親または世親。 ガンダーラのプルシャプラ(現在パキスタン北西部ペシャワール)に生まれる。 初めは部派仏教に学び『倶舎論』などを撰述するが、兄の無着の勧めで大乗仏教に帰依する。 著書に『唯識三十頌』『唯識二十論』『十地経論』 『浄土論』(往生論)など多数あり、 その著書の多さから「千部の論師」と称えられる。 真宗七高僧第二祖。
曇鸞
曇鸞(476~542頃)。 中国の雁門(がんもん 現在山西省)に生まれる。 『大集だいじつきょう』の注釈中に病に倒れた後、 長生不老の仙経(仏教ではない教え)を陶弘景とうこうけいから授かった。 その帰途に洛陽において、『浄土論』の漢訳者である北インド出身の僧、 菩提流支ぼだいるしに会い、『観無量寿経』を示された。 直ちに曇鸞は自らの過ちに気付き、仙経を焼き捨て浄土教に帰依した。 著書に『往生論註』(浄土論註)・『讃阿弥陀仏偈』などがある。 真宗七高僧第三祖。
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道綽(562~645)。 中国の汶水ぶんすい(現在山西省)に生まれる(諸説あり)。 14歳で出家し『涅槃(ねはん)経(ぎょう)』を究めた後、 慧瓚えさん禅師の教団に入り禅定の実践に励む。 慧瓚えさん禅師没後、玄中寺の曇鸞の功績を讃えた碑文を読み、浄土教に帰依する。 『観無量寿経』を講ずること二百回以上、日に七万遍の念仏を称えたといわれる。 著書に『安楽集』がある。 真宗七高僧第四祖。
善導
善導(613~681)。 中国浄土教の大成者。 中国の臨淄りんし(現在山東省)に生まれる(諸説あり)。 出家し各地を遍歴し、玄中寺の道綽に師事して『観無量寿経』の教えを受け、浄土教に帰依した。 道綽没後、長安の南の終南山悟真寺に入り厳しい修行に励む。 その後、長安の光明寺や市街において民衆に念仏の教えを弘める。 後に法然や親鸞をはじめ、日本の浄土教にも強い影響を与えた。 著書に『観無量寿経かんむりょうじゅきょうしょ』 (観経疏かんぎょうしょ) 『法事讃』『観念法門』『往生礼讃偈』『般舟讃』がある。 真宗七高僧第五祖。
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法然(1133~1212)法然房源空。浄土宗の開祖。 美作国みまさかのくに久米(現在の岡山県)に生まれる。 9歳の時、父の死により菩提寺に入寺。15歳(13歳とも)に比叡山に登り、 源光・皇円に師事し天台教学を学んだが、1150年、黒谷に隠棲していた叡空をたずねて弟子となる。 1175年、黒谷の経蔵で善導の『観経疏かんぎょうしょ』の一文により専修念仏に帰した。 まもなく比叡山を下って東山吉水に移り、専修念仏の教えをひろめた。 念仏を禁止とする承元(じょうげん)法難(ほうなん)により、1207年に土佐国に流罪(実際は讃岐国に)となる。 著書に『選択本願念仏集』があり、弟子である浄土真宗の開祖・親鸞にも大きな影響を与えた。 真宗七高僧第七祖。