ナーガールジュナ(150~250頃)。漢訳名は龍樹あるいは龍猛とよばれる。ナーガとアルジュナの結合語で漢訳ではナーガは「龍」、アルジュナは「勇士」である。「樹」はアルジュナを音写したものであり、意訳したものが「猛」となる。
生涯
龍樹は南インドのバラモンの家に生まれたとされる。伝説では、若くしてバラモンの学問をすべて習得し、その才能を持て余していた。ある日、友人3人と王宮に忍び入り、王の愛人と戯れるようになり、このことが王に知られ怒りをかう。4人は王に捕らえられ、龍樹以外の3人は惨殺された。龍樹は友人3人を見殺しにしたことを後悔し、このことをきっかけに仏教に帰依し出家をしたという。部派仏教から初期大乗仏教まで広く学び、多くの経典に精通するようになった。
功績
龍樹は「空」の思想を確立し、大乗仏教の教学の基盤を築き、大乗仏教に多大な影響を与えた。後に日本では、龍樹は八宗の祖とも称されるようになった。
著書に
- 『中論』
- 『大智度論』
- 『十住毘婆沙論』
- 『十二礼』
- 『十二門論』
- 『廻諍論』
などその他著書が多数あるが、『大智度論』『十住毘婆沙論』については現在、龍樹の撰述かどうかの疑義が残されている。
親鸞の評価
宗祖親鸞は、龍樹を真宗七高僧の第一祖とし、著書の中で、龍樹菩薩・龍樹大士・龍樹摩訶薩などと記している。また、龍樹の偉業は仏教を「難行」「易行」の二つの道にわけ、「易行」である念仏の教えの素晴らしさを伝えたことであるとし、その功績を次のように『正信念仏偈』の中で讃えた。
【現代語訳】
釈尊は楞伽山で大衆に、「南インドに龍樹菩薩が現れて、有無の邪見をすべて打ち破り、尊い大乗の法を説き、歓喜地の位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生するだろう」と仰せになった。
【現代語訳】
龍樹菩薩は、難行道は苦しい陸路のようであると示し、易行道は楽しい船旅のようであるとお勧めになる。
【現代語訳】
「阿弥陀仏の本願を信じれば、おのずからただちに正定聚に入る
ただ常に阿弥陀仏の名号を称え、本願の大いなる慈悲の恩に報いるがよい」と述べられた。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.146-147 より)
また『高僧和讃』においても十首、龍樹の功績を讃えている。
参考文献
[1] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『真宗入門 正信偈のこころ』(東本願寺出版部 1987年)
[5] 『正信偈もの知り帳』(野々村智剣 法蔵館 1994年)
[6] 『のこのこおじさんの楽しくわかる正信偈』(和田真雄 法蔵館 1991年)
[7] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
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ヴァスバンドゥ(400頃~480頃)。漢訳名は天親または世親。
ガンダーラのプルシャプラ(現在パキスタン北西部ペシャワール)に生まれる。
初めは部派仏教に学び『倶舎論』などを撰述するが、兄の無着の勧めで大乗仏教に帰依する。
著書に『唯識三十頌』『唯識二十論』『十地経論』 『浄土論』(往生論)など多数あり、
その著書の多さから「千部の論師」と称えられる。
真宗七高僧第二祖。
曇鸞(476~542頃)。
中国の雁門(がんもん 現在山西省)に生まれる。
『大集経』の注釈中に病に倒れた後、
長生不老の仙経(仏教ではない教え)を陶弘景から授かった。
その帰途に洛陽において、『浄土論』の漢訳者である北インド出身の僧、
菩提流支に会い、『観無量寿経』を示された。
直ちに曇鸞は自らの過ちに気付き、仙経を焼き捨て浄土教に帰依した。
著書に『往生論註』(浄土論註)・『讃阿弥陀仏偈』などがある。
真宗七高僧第三祖。
道綽(562~645)。
中国の汶水(現在山西省)に生まれる(諸説あり)。
14歳で出家し『涅槃(ねはん)経(ぎょう)』を究めた後、
慧瓚禅師の教団に入り禅定の実践に励む。
慧瓚禅師没後、玄中寺の曇鸞の功績を讃えた碑文を読み、浄土教に帰依する。
『観無量寿経』を講ずること二百回以上、日に七万遍の念仏を称えたといわれる。
著書に『安楽集』がある。
真宗七高僧第四祖。
善導(613~681)。
中国浄土教の大成者。
中国の臨淄(現在山東省)に生まれる(諸説あり)。
出家し各地を遍歴し、玄中寺の道綽に師事して『観無量寿経』の教えを受け、浄土教に帰依した。
道綽没後、長安の南の終南山悟真寺に入り厳しい修行に励む。
その後、長安の光明寺や市街において民衆に念仏の教えを弘める。
後に法然や親鸞をはじめ、日本の浄土教にも強い影響を与えた。
著書に『観無量寿経疏』
(観経疏) 『法事讃』『観念法門』『往生礼讃偈』『般舟讃』がある。
真宗七高僧第五祖。
源信(942~1017)。大和国当麻(現在の奈良県)の生まれ。幼くして比叡山に登り、良源に師事し天台教学を究めたが、その名声を嫌い、横川に隠棲した。44歳の時、様々な経・論・釈より往生極楽に関する文を集め、日本において最初の本格的な浄土教の教義書である『往生要集』を撰述した。浄土教はもとより、文学・芸術にも大きな影響を与えた。この他の著書に、『阿弥陀経略記』・『横川法語』・『一乗要決』等、多数がある。真宗七高僧第六祖。
法然(1133~1212)法然房源空。浄土宗の開祖。
美作国久米(現在の岡山県)に生まれる。
9歳の時、父の死により菩提寺に入寺。15歳(13歳とも)に比叡山に登り、
源光・皇円に師事し天台教学を学んだが、1150年、黒谷に隠棲していた叡空をたずねて弟子となる。
1175年、黒谷の経蔵で善導の『観経疏』の一文により専修念仏に帰した。
まもなく比叡山を下って東山吉水に移り、専修念仏の教えをひろめた。
念仏を禁止とする承元(じょうげん)の法難(ほうなん)により、1207年に土佐国に流罪(実際は讃岐国に)となる。
著書に『選択本願念仏集』があり、弟子である浄土真宗の開祖・親鸞にも大きな影響を与えた。
真宗七高僧第七祖。