道綽

【どうしゃく】

道綽(562~645)

生涯

道綽どうしゃくは、中国の汶水ぶんすい(現在山西省さんせいしょう)に生まれた(諸説あり)。14歳で出家するものの、574年、北周ほくしゅう武帝ぶてい廃仏はいぶつ(仏教・道教どうきょうを禁止する)により一度は還俗げんぞく俗人ぞくじんにもどる)させられたと考えられる。武帝の没後、宣帝せんていが即位し仏教復興が許され、道綽も再び出家しゅっけしたものと考えられる。わずか数年の廃仏であったが、この出来事は中国仏教に影響をあたえ、「学問仏教から実践を重視する仏教へ」(鎌田茂雄)となる大きな転換期となった。その後『涅槃経ねはんぎょう』を究め、道宣 どうせんの『ぞく高僧こうそうでん』によると、『涅槃経ねはんぎょう』の講義は二十四回にも及んだという。

その後、道綽は30歳を過ぎたころに慧瓚えさんが率いる教団に入った。当時の仏教教団の世俗化・形骸けいがいが進む中、この教団は厳格な戒律かいりつ禅定ぜんじょうを実践し、人々から尊敬を受ける教団であったという。

慧瓚没後、道綽は玄中寺げんちゅうじ曇鸞どんらんの功績を讃えた碑文ひぶんを読み、浄土じょうどきょう帰依きえしたと伝えられている。その後玄中寺に入り、『仏説ぶっせつ観無量寿経かんむりょうじゅきょう』を講義すること二百回以上、一日に七万遍ななまんべんの念仏をとなえたといわれる。道綽は「末法まっぽうに生きる人びと」に目をそそぎ、これらの人びとに浄土教を教化きょうけし念仏をすすめた。645年、玄中寺でぼっした。晩年の弟子には真宗七高僧しちこうそう第五祖だいごそ善導ぜんどうがいる。著書に『安楽集あんらくしゅう』がある。

親鸞の評価

宗祖しゅうそ親鸞しんらんは、道綽を真宗七高僧の第四祖だいよんそとし、著書の中で、本師ほんし道綽禅師ぜんじ・本師道綽大師だいし・玄中寺のしゃっ和尚かしょうなどと記している。また、道綽の偉業は、『安楽集』において、仏教を自ら学問を積み厳しい修行をしてさとりをひらく「聖道門しょうどうもん」と、阿弥陀仏の本願ほんがんを信じて念仏をして浄土に生まれさとりをひらく「浄土門じょうどもん」の二つであると示し、「浄土門」は、末法まっぽう法滅ほうめつの時代も含め、どのような時代であっても、どのような人間であってもさとりをひらくことができると明らかにしたことであるとし、その功績を次のように『正信しょうしん念仏ねんぶつ』の中で讃えた。

【現代語訳】 道綽禅師は、聖道門の教えによってさとるのは難しく、浄土門の教えによってのみさとりに至ることができることを明らかにされた。 自力の行はいくら修めても劣っているとして、ひとすじにあらゆる功徳をそなえた名号を称えることをお勧めになる。

【現代語訳】 三信と三不信の教えを懇切に示し、正法・像法・末法・法滅、いつの時代においても、本願念仏の法は変らず人々を救い続けることを明かされる。 「たとえ生涯悪をつくり続けても、阿弥陀仏の本願を信じれば、浄土に往生しこの上のないさとりを開く」と述べられた。

『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)P.149-150

また、『高僧和讃』においても七首、道綽の功績を讃えている。

参考文献

[1] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『正信偈もの知り帳』(野々村智剣 法蔵館 1994年)
[5] 『のこのこおじさんの楽しくわかる正信偈』(和田真雄 法蔵館 1991年)
[6] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[7] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[8] 『真宗学シリーズ7 真宗聖典学② 七高僧撰述』(信楽峻麿 法蔵館 2012年)
[9] 『親鸞思想と七高僧』(石田瑞麿 大蔵出版 2001年)
[10] 『シリーズ親鸞第三巻 釈尊から親鸞へ―七祖の伝統』(狐野秀存 筑摩書房 2010年)
[11] 『新 中国仏教史』(鎌田茂雄 大東出版社 2001年)

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ヴァスバンドゥ(400頃~480頃)。漢訳名は天親または世親。 ガンダーラのプルシャプラ(現在パキスタン北西部ペシャワール)に生まれる。 初めは部派仏教に学び『倶舎論』などを撰述するが、兄の無着の勧めで大乗仏教に帰依する。 著書に『唯識三十頌』『唯識二十論』『十地経論』 『浄土論』(往生論)など多数あり、 その著書の多さから「千部の論師」と称えられる。 真宗七高僧第二祖。
曇鸞
曇鸞(476~542頃)。 中国の雁門(がんもん 現在山西省)に生まれる。 『大集だいじつきょう』の注釈中に病に倒れた後、 長生不老の仙経(仏教ではない教え)を陶弘景とうこうけいから授かった。 その帰途に洛陽において、『浄土論』の漢訳者である北インド出身の僧、 菩提流支ぼだいるしに会い、『観無量寿経』を示された。 直ちに曇鸞は自らの過ちに気付き、仙経を焼き捨て浄土教に帰依した。 著書に『往生論註』(浄土論註)・『讃阿弥陀仏偈』などがある。 真宗七高僧第三祖。
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善導(613~681)。 中国浄土教の大成者。 中国の臨淄りんし(現在山東省)に生まれる(諸説あり)。 出家し各地を遍歴し、玄中寺の道綽に師事して『観無量寿経』の教えを受け、浄土教に帰依した。 道綽没後、長安の南の終南山悟真寺に入り厳しい修行に励む。 その後、長安の光明寺や市街において民衆に念仏の教えを弘める。 後に法然や親鸞をはじめ、日本の浄土教にも強い影響を与えた。 著書に『観無量寿経かんむりょうじゅきょうしょ』 (観経疏かんぎょうしょ) 『法事讃』『観念法門』『往生礼讃偈』『般舟讃』がある。 真宗七高僧第五祖。
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源信(942~1017)。大和国当麻(現在の奈良県)の生まれ。幼くして比叡山に登り、良源に師事し天台教学を究めたが、その名声を嫌い、横川に隠棲いんせいした。44歳の時、様々な経・論・釈より往生極楽に関する文を集め、日本において最初の本格的な浄土教の教義書である『往生要集』を撰述した。浄土教はもとより、文学・芸術にも大きな影響を与えた。この他の著書に、『阿弥陀経略記』・『横川法語』・『一乗要決』等、多数がある。真宗七高僧第六祖。
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法然(1133~1212)法然房源空。浄土宗の開祖。 美作国みまさかのくに久米(現在の岡山県)に生まれる。 9歳の時、父の死により菩提寺に入寺。15歳(13歳とも)に比叡山に登り、 源光・皇円に師事し天台教学を学んだが、1150年、黒谷に隠棲していた叡空をたずねて弟子となる。 1175年、黒谷の経蔵で善導の『観経疏かんぎょうしょ』の一文により専修念仏に帰した。 まもなく比叡山を下って東山吉水に移り、専修念仏の教えをひろめた。 念仏を禁止とする承元(じょうげん)法難(ほうなん)により、1207年に土佐国に流罪(実際は讃岐国に)となる。 著書に『選択本願念仏集』があり、弟子である浄土真宗の開祖・親鸞にも大きな影響を与えた。 真宗七高僧第七祖。