ヴァスバンドゥ(400頃~480頃)。婆藪槃豆と音写し、漢訳名は天親(旧訳)または世親(新訳)である。
生涯
天親はガンダーラのプルシャプラ(現在パキスタン北西部ペシャワール)に生まれた。初めは部派仏教に学び、当時多くの学派に分かれていた部派仏教の教えを体系的にまとめ、その問題点を指摘した『阿毘達磨倶舎論』(三十巻)を撰述した。部派仏教で名声を得たが、兄の無着(アサンガ)の勧めで大乗仏教に帰依する。その後唯識思想を確立し、主著『唯識三十頌』を撰述するなど、唯識派三大論師の一人とされた。また、天親が『仏説無量寿経』に依って、自ら浄土に生まれたいと願った意を述べ、その往生浄土(浄土に生まれる)の行を大乗仏教の実践の一つとして表した『無量寿経優婆提舎願生偈』、略して『浄土論』(『往生論』)を撰述した。後に浄土宗の宗祖法然は、『浄土三部経』(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)にこの『浄土論』を加えた三経一論を浄土宗の正依の聖典とした。その他著書に、『唯識二十論』『十地経論』『大乗五蘊論』『摂大乗論釈』『仏性論』等多数あり、その数の多さから「千部の論師」と称えられる。
親鸞の評価
宗祖親鸞は、天親を真宗七高僧の第二祖とし、著書の中で、
天親菩薩・世親菩薩・聖者婆藪槃豆菩薩・天親論主などと記している。また、天親の偉業は、『浄土論』において『無量寿経』の「本願文」の三心を他力(仏力・本願力)の信心の一心であると明らかにしたことであるとし、その功績を次のように『正信念仏偈』の中で讃えた。
【現代語訳】
天親菩薩は、『浄土論』を著して、「無礙光如来に帰依したてまつる」と述べられた。
浄土の経典にもとづいて阿弥陀仏のまことをあらわされ、横超のすぐれた誓願を広くお示しになり、
【現代語訳】
本願力の回向によってすべてのものを救うために、一心すなわち他力の信心の徳を明らかにされた。
「本願の名号に帰し、大いなる功徳の海に入れば、浄土に往生する身に定まる。
【現代語訳】
阿弥陀仏の浄土に往生すれば、ただちに真如をさとった身となり、
さらに迷いの世界に還り、神通力をあらわして自在に衆生を救うことができる」と述べられた。
『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)P.147~148
また、『高僧和讃』においても十首、天親の功績を讃えている。
参考文献
[1] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『真宗入門 正信偈のこころ』(東本願寺出版部 1987年)
[5] 『正信偈もの知り帳』(野々村智剣 法蔵館 1994年)
[6] 『のこのこおじさんの楽しくわかる正信偈』(和田真雄 法蔵館 1991年)
[7] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『真宗学シリーズ7 真宗聖典学② 七高僧撰述』(信楽峻麿 法蔵館 2012年)
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ナーガールジュナ(150~250頃)。漢訳名(かんやくめい)は龍樹。
南インドに生まれる。多くの経典に精通し、「空」の思想を確立した。
龍樹以後の大乗仏教は多大な影響を受け、後に日本では八宗の祖とも称された。
著書に『中論』『大智度論』『十住毘婆沙論』など著書多数。
真宗七高僧第一祖。
曇鸞(476~542頃)。
中国の雁門(がんもん 現在山西省)に生まれる。
『大集経』の注釈中に病に倒れた後、
長生不老の仙経(仏教ではない教え)を陶弘景から授かった。
その帰途に洛陽において、『浄土論』の漢訳者である北インド出身の僧、
菩提流支に会い、『観無量寿経』を示された。
直ちに曇鸞は自らの過ちに気付き、仙経を焼き捨て浄土教に帰依した。
著書に『往生論註』(浄土論註)・『讃阿弥陀仏偈』などがある。
真宗七高僧第三祖。
道綽(562~645)。
中国の汶水(現在山西省)に生まれる(諸説あり)。
14歳で出家し『涅槃(ねはん)経(ぎょう)』を究めた後、
慧瓚禅師の教団に入り禅定の実践に励む。
慧瓚禅師没後、玄中寺の曇鸞の功績を讃えた碑文を読み、浄土教に帰依する。
『観無量寿経』を講ずること二百回以上、日に七万遍の念仏を称えたといわれる。
著書に『安楽集』がある。
真宗七高僧第四祖。
善導(613~681)。
中国浄土教の大成者。
中国の臨淄(現在山東省)に生まれる(諸説あり)。
出家し各地を遍歴し、玄中寺の道綽に師事して『観無量寿経』の教えを受け、浄土教に帰依した。
道綽没後、長安の南の終南山悟真寺に入り厳しい修行に励む。
その後、長安の光明寺や市街において民衆に念仏の教えを弘める。
後に法然や親鸞をはじめ、日本の浄土教にも強い影響を与えた。
著書に『観無量寿経疏』
(観経疏) 『法事讃』『観念法門』『往生礼讃偈』『般舟讃』がある。
真宗七高僧第五祖。
源信(942~1017)。大和国当麻(現在の奈良県)の生まれ。幼くして比叡山に登り、良源に師事し天台教学を究めたが、その名声を嫌い、横川に隠棲した。44歳の時、様々な経・論・釈より往生極楽に関する文を集め、日本において最初の本格的な浄土教の教義書である『往生要集』を撰述した。浄土教はもとより、文学・芸術にも大きな影響を与えた。この他の著書に、『阿弥陀経略記』・『横川法語』・『一乗要決』等、多数がある。真宗七高僧第六祖。
法然(1133~1212)法然房源空。浄土宗の開祖。
美作国久米(現在の岡山県)に生まれる。
9歳の時、父の死により菩提寺に入寺。15歳(13歳とも)に比叡山に登り、
源光・皇円に師事し天台教学を学んだが、1150年、黒谷に隠棲していた叡空をたずねて弟子となる。
1175年、黒谷の経蔵で善導の『観経疏』の一文により専修念仏に帰した。
まもなく比叡山を下って東山吉水に移り、専修念仏の教えをひろめた。
念仏を禁止とする承元(じょうげん)の法難(ほうなん)により、1207年に土佐国に流罪(実際は讃岐国に)となる。
著書に『選択本願念仏集』があり、弟子である浄土真宗の開祖・親鸞にも大きな影響を与えた。
真宗七高僧第七祖。