教相判釈

【きょうそうはんじゃく】

教判、きょうせつともいう。漢訳かんやくされたさまざまな経典を、釈尊しゃくそんの生涯において説かれたものとして、それらの説かれた形式、方法、順序、説かれた内容などによって分類し、体系づけ、価値を決めて、仏の真意を明らかにしようとすること。教相判釈(教判)という言葉は日本で作成された「せいかん」であり、中国においてははんぎょう、釈教相などさまざまな呼び方をされていた。

インドにおいては、釈尊の語った言葉は弟子たちによって徐々に編纂へんさんされ、「仏典」としてしだいに整理されていった。しかし、それらの仏典がインドでの成立過程に関係なく中国に伝来し漢訳されていったために、中国における仏教徒はそれらの漢訳仏典を体系化する必要があった。教相判釈は、多数の漢訳仏典(以下「経典」とする)が入手できるようになった中国東晋とうしん時代(317-420)に始まり、南北朝時代(439-589)以降、盛んに行われるようになった。その後、日本に伝わったさいには、日本仏教の「りっきょうかいしゅう」(新しく宗派を立てること)に不可欠な要素となっていった。

初期の教判

道生どうしょうじく道生)(355?-434)は頓悟とんごとんぎょう、一気に直感的にさとる)の立場から、諸経典を「ぜんじょう法輪ほうりん」「方便ほうべん法輪ほうりん」「真実法輪」「無余むよ法輪」の四つに分類されるとし、教相判釈のさきがけとなった。かん(生没年不詳)は、道生に対してぜんぜんぎょう、さまざまな修行を経て徐々にさとる)の立場から批判を行った。慧観は釈尊の生涯を五つの時代に分けて、浅い理解から深い真実に至るまでを、その時々に応じて説かれた経典として分類した「五時ごじの教判」を主張した。しかし、慧観の「五時の教判」は経典の優劣を説くものとして、天台てんだい智顗ちぎ(538-598)による教判で批判されていく。これが後にいう「五時ごじはっきょう」の教判である。

智顗による「五時八教」(五時八教判)

中国における教相判釈の中でもっとも代表的なものは、天台宗の第三祖である智顗による「五時八教」の教判である。先行する諸師の教判を批判し、天台宗の宗義を確立した。

五時

1. ごん
仏がさとったときにすぐれた者に対して説いた教え
2. 鹿ろくおん
部派仏教の教え
3. ほうどう
大乗仏教の教え
4. 般若はんにゃ
2. と 3. のどちらにもとらわれることがないよう「空」を説いた教え
5. ほっはん
正しい法を説いた『法華経』とそこからもれた者のための『涅槃経』

八教

の四教(衆生しゅじょうきょうする方法によって四つに分類)

  1. 頓教……ただちにさとりをえるように説かれた教え
  2. 漸教……浅い理解から深い理解へと段階をふんでさとりをえるように説かれた教え
  3. 秘密教……さまざまな場所でさまざまな内容が「同時」に説かれた教え。それを聴くものたちは、他の場所でどのような内容が説かれているのか、どのような人たちが聴いているのかを知ることはない。
  4. じょう教……説く教えの内容は一定ではあるが、聴くものの能力に応じてしょうが異なるように説かれた教え

化法けほうの四教(経典の説く内容によって四つに分類)

  1. 三蔵教……部派仏教の教え
  2. つうぎょう……しょうもん縁覚えんがくさつの三じょうに共通する入門的な教え
  3. べっきょう……菩薩がさとりをえるために説かれた教え。声聞、縁覚には理解ができないとされた。
  4. えんぎょう……さとりも迷いも本質的には区別がなく、仏のさとりの内容をそのまま説いた大乗仏教の最高の教え。

智顗はこのように経典を分類し、『法華経』が釈尊の真理が説かれている円教であるとした。しかし、前述の慧観が主張するような、経典間での優越を決定していくような立場を取らず、法華経に説かれている内容は他の経典にも含まれているとし、釈尊の説いた諸経典の価値は平等であるとの立場を取った(『法華経思想史から学ぶ仏教』菅野博史/大蔵出版/2018 P.171参照)。

また、晩年にまとめた『摩訶止まかしかん』では、当時はまだ確立されていなかった禅の修行法(観察かんざつ)も定めており、南朝と北朝に別れて発展していた中国仏教を統一する仏教体系をつくり上げた。

教相判釈は中国で盛んにみられ、それが後のさまざまな仏教宗派を形成していくこととなった。例えば、華厳宗第三祖の法蔵ほうぞう(643-712)は智顗の五時八教判を批判し、華厳経を最優位とする「きょう十宗判じっしゅうはん」を建てて華厳宗の教義を確立させた。また、浄土教においては曇鸞どんらん(476-542?)の『往生論註おうじょうろんちゅう』における「難易なんい二道判にどうはん」、道綽どうしゃく(562-645)の『安楽集あんらくしゅう』における「しょうじょう二門判にもんはん」などがある。日本浄土教では法然ほうねん(1135-1212)が『選択せんじゃく本願ほんがん念仏集ねんぶつしゅう』の「二門章」において曇鸞と道綽の教判を結び付け、親鸞しんらん(1173-1263)が『けん浄土じょうど真実しんじつきょうぎょう証文類しょうもんるい』で論を展開した「そう四重判しじゅうはん」へとつながっていった。

参考文献

[1] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2014年)
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2009年)
[3] 『新・仏教辞典』(中村元 監修、石田瑞麿 他 編集 誠信書房 2000年)
[4] 『東アジア仏教史』(石井公成 岩波書店 2009年)
[5] 『法華経思想史から学ぶ仏教』(菅野博史 大蔵出版 2018年)
[6] 『法華玄義を読む』(菅野博史 大蔵出版 2013年)

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道綽(562~645)。 中国の汶水ぶんすい(現在山西省)に生まれる(諸説あり)。 14歳で出家し『涅槃(ねはん)経(ぎょう)』を究めた後、 慧瓚えさん禅師の教団に入り禅定の実践に励む。 慧瓚えさん禅師没後、玄中寺の曇鸞の功績を讃えた碑文を読み、浄土教に帰依する。 『観無量寿経』を講ずること二百回以上、日に七万遍の念仏を称えたといわれる。 著書に『安楽集』がある。 真宗七高僧第四祖。
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法然(1133~1212)法然房源空。浄土宗の開祖。 美作国みまさかのくに久米(現在の岡山県)に生まれる。 9歳の時、父の死により菩提寺に入寺。15歳(13歳とも)に比叡山に登り、 源光・皇円に師事し天台教学を学んだが、1150年、黒谷に隠棲していた叡空をたずねて弟子となる。 1175年、黒谷の経蔵で善導の『観経疏かんぎょうしょ』の一文により専修念仏に帰した。 まもなく比叡山を下って東山吉水に移り、専修念仏の教えをひろめた。 念仏を禁止とする承元(じょうげん)法難(ほうなん)により、1207年に土佐国に流罪(実際は讃岐国に)となる。 著書に『選択本願念仏集』があり、弟子である浄土真宗の開祖・親鸞にも大きな影響を与えた。 真宗七高僧第七祖。
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