六三法門
六三法門
宗祖親鸞の教義体系を表す「六三法門」という語がある。これは浄土門における真実の教えと方便の教えについて六種の名目をもって示されたものである。親鸞は真実と方便の教えを分けることにより、方便を捨てて真実の教えに帰すべきことを勧めた。
(三願) | 第十八願 | 第十九願 | 第二十願 |
(三経) | 仏説無量寿経 | 仏説観無量寿経 | 仏説阿弥陀経 |
(三門) | 弘願 | 要門 | 真門 |
(三蔵) | 福智蔵 | 福徳蔵 | 功徳蔵 |
(三機) | 正定聚 | 邪定聚 | 不定聚 |
(三往生) | 難思議往生 | 双樹林下往生 | 難思往生 |
なおこの表は『親鸞聖人の教え』P.112を参考に構成したものである。ルビも筆者が加えた。以下では表中の「三門」「三蔵」について解説する。残りの「三願」「三経」「三機」「三往生」については仏教知識「生因三願」、仏教知識「浄土三部経」を参照のこと。
三門
三門とは要門・真門・弘願(弘願門)の三つの法門のことをいう(法門とは仏の教えのことで、「真理に到るための入り口」ということからこのようにいう)。
- 要門 …… 「浄土に往生するための肝要な門」
- 真門 …… 「真実の法門」
- 弘願 …… 「広弘の誓願」
要弘二門
七高僧第五祖の善導大師は『観無量寿経疏』(『観経疏』)「玄義分」の中で、『仏説観無量寿経』(『観経』)の内容について要門と弘願門の2つの解釈を示した。ここは「要弘二門」と呼ばれている。
しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.300より)
ここでは
- 韋提希の要請に応えて釈尊が浄土の要門について説いた
- 阿弥陀仏が弘願を明らかにした
ことが述べられている。「安楽」とは浄土のことをいう。「別意」というのは特別の意味ということで、「阿弥陀仏が本当に説きたかったこと」になる。別意の弘願とは特別に阿弥陀仏が衆生救済のためにおこした広弘の誓願、すなわち第十八願のことをいう。釈尊が本当に説きたかったこともこれである。
要門
先に引用した文に続き、善導大師は要門についてこう述べている。
その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.300-301より)
つまり要門とは『観経』に説かれる定善十三観の観察行と、散善三観(九品)の世・戒・行の三福の行のことをいう。
弘願門
さらに続けて善導大師は弘願門についてこう述べている。
弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.301より)
つまり弘願門とは『仏説無量寿経』(『大経』)に説かれる他力念仏往生のことである。定散二善の行に対応させて表現するなら、第十八願に説かれる念仏による往生のことをいう。
念観廃立
仏教知識「顕彰隠密」にあるように善導は『観経』の解釈に「顕」と「隠」の2つがあることを述べた。つまり『観経』には表面的には定善と散善の諸行による往生が勧められているが、釈尊が『観経』を通して真に伝えたかったことは弥陀の本願に任せきる他力念仏による往生であるとした。
このようにして善導は『観経』を解釈するにあたり念観廃立(念仏を立てて定散二善の観察行を廃する)を明らかにした。
親鸞の用例
親鸞は『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「化身土文類」で先ほど挙げた善導の文を引用し、『観経』に顕彰隠密の義があることを示した。さらに親鸞は『小経』にも同様に顕彰隠密の義があることを明らかにした。そして、『観経』『小経』ともに顕説で説かれる(表面的に説かれている)内容は他力の教えに誘引するための方便であることを示した。
親鸞は『観経』『小経』の隠顕について述べる箇所において弘願、要門、真門の語を用いた。
弘願
親鸞は善導と同じく弘願を第十八願の意とし、他力念仏の法門を顕す語として用いた。これは第十九願・第二十願の教えである要門・真門に対する語である。
彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.381-382 より)
要門
親鸞は第十九願とこれを広げて説いた『観経』の顕説の教えにもとづく自力諸行往生の法門のことを要門とし、弘願に対する語とした。また、要門を弘願に転じ入らせる法門とした。
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.392 より)
真門
親鸞は第二十願とこれを広げて説いた『小経』の顕説の教えにもとづく自力念仏往生の法門のことを真門とし、弘願に対する語とした。
いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.397より)
三蔵
三蔵とは福智蔵・福徳蔵・功徳蔵のことをいう。
福智蔵
まず福智蔵については『教行信証』「行文類」に
福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.202より)
と示される。福智とは福徳と智慧のことである。六波羅蜜の布施・持戒・忍辱・精進・禅定が福徳、般若が智慧とされる。阿弥陀仏の名号は六波羅蜜の功徳を円満に具えているから、名号を称えて往生する弘願の法門を福智蔵という。
また、ここに示される方便蔵とは福徳蔵と功徳蔵のことである。
福徳蔵
『教行信証』「化身土文類」に福徳蔵が示されている。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.375-376より)
ここでは釈尊が福徳蔵の教えを説いて人々を誘い入れ、阿弥陀仏が第十九願をおこして人々を導いてくださるということが述べられている。
福徳は『仏説阿弥陀経』に次のように示される。
舎利弗、少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.124より)
ここでは念仏以外のすべての行は善根功徳が少ないとして、そのような諸行によって浄土に往生することはできないといっている。この諸行は『観経』に説かれる要門の定散二善であり、これにより往生しようとすることからこの法門を福徳蔵という。
功徳蔵
同じく『教行信証』「化身土文類」に功徳蔵が示されている。
しかればすなはち、釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓 この果遂の願とは二十願なり を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく、また至心回向の願と名づくべきなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.399-400より)
ここでは釈尊が功徳蔵の教えを説いて人々を導き、阿弥陀仏が第二十願をおこして人々を他力念仏の法に引き入れてくださるということが述べられている。
『小経』には次のように、自力念仏の功徳によって往生することが説かれている。
舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.124-125より)
阿弥陀仏の名号に具わる功徳を自分のものとし、自力念仏の功徳によって往生しようとすることから、この法門を功徳蔵という。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『浄土三部経と七祖の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2008年)
[6] 『親鸞聖人の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2017年)