顕彰隠密
親鸞が主著『顕浄土真実教行証文類』の「化身土巻」において、『阿弥陀経』(『小経』)と『観無量寿経』(『観経』)を解釈する際に使われた考え方。略して「隠顕」ともいう。
「顕」とは顕説ともいい、経典において顕らかな形で説かれている教説のことである。『小経』においては「一心に念仏を称える自力念仏」での往生であり、『観経』においては「定善(雑念を払い浄土を観想すること)」と「散善(雑念を持ちながらもさまざまな善行を修すること)」の二善を勧めることである。
「隠」とは隠彰ともいい、経典において顕らかには説かれていないが、釈尊がその経典で真に伝えたかった教説のことである。親鸞は『小経』も『観経』もその隠彰は、弥陀の本願に任せきる他力念仏による往生を説いているとして、両経の顕説はあくまでも他力念仏へ導きいれるための方便であるとした。
親鸞が「化身土巻」において引用した善導の『観経疏』も同様の解釈をしており、親鸞の師法然も親鸞と全く同じ善導の文章を引用しながらも「諸善を廃して念仏を立てる」と「廃立」の視点で『観経』を解釈している。また、親鸞が若き日に学んだ天台教学にも「当分跨節」(※以下の引用文を参照)という同様の経典の解釈法がある。親鸞はそれらの思想を学びながら、独自の「顕」と「彰隠密」という解釈を確立させたといえる。
『「当分」とは天台学などで、跨節に対する言葉として用いられ、文面に見えているままの法義のことをいいます。それに対して、文面には直接表われていないが、法義のうえから文面を超えて(跨いで)解釈することを跨節というのです。』 (『宗報 1996年4月号』「「註釈版聖典 七祖篇」を読む その一(梯実圓)」より)
出拠
また、それぞれの隠顕の出拠について示しておく。親鸞は善導の解釈にしたがうと『観経』に顕彰隠密の義、すなわち「顕」と「隠」の二つの見方があるとした。
釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.381より)
また、『観経』に準じて考えると『小経』についても「顕」と「隠」の二つの見方ができることを示した。
『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.397より)
このように善導が『観経』の隠顕を明らかにし、親鸞が『小経』の隠顕を明らかにした。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2009年)
[3] 『阿弥陀経に聞く』(藤場俊基 響流書房 2014年)
[4] 『宗報 1996年4月号』(浄土真宗本願寺派 本願寺出版社 1996年)