三一問答 (3)
信楽釈
① 【機無】
しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。② 【円成】
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。③ 【回施】
如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.234-235より)
【現代語訳】
① 【機無】
ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。
② 【円成】
なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。
③ 【回施】
如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.203-204より)
このように親鸞は、迷いの世界を輪廻しつづける私たち衆生には、もともと仏を信じる能力はそなわっておらず、また修行をしてもみせかけだけの修行なので往生の因となるような信心は獲ることができない(機無)。そのような衆生を往生成仏させようと、如来は身口意の三業がどんなときも清らかなままで修行をし、衆生を救済する心に疑いがまじることは無く、浄土に往生する因となる大いなる慈悲の心を完成した(円成)。そして、そのように成就された清浄な信心を、すべての迷える衆生のために回向し(ふりむけ)た(回施)。これが如来よりたまわった「利他真実の信心」(他力の真実の信心)である、とした。
なお、信楽は三心がおさまる一心である無疑心(疑いなく受け入れる心)そのものであることから、成一の釈(信楽の一心におさまることを示す解釈)はない。
そのことについて、親鸞は信楽釈冒頭の「略釈」と呼ばれる部分において
次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.234より)
【現代語訳】
次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。こようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.202-203より)
と述べ、如来の疑いのまじらないすべてを兼ね備えた衆生救済の心こそが「信楽」であると讃嘆している。
信楽釈の引証
親鸞はまず、『仏説無量寿経』の本願成就文のうち、「本願信心の願成就文」と呼ぶ部分を引用する。ここでも親鸞独自の読み替えが施されている。
まず、本願成就文の原文を挙げる。
諸有衆生 聞其名号、信心歓喜、乃至一念 至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転。唯除五逆 誹謗正法。
(『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』P.43より、旧字は筆者が新字に直した)
親鸞以前の読み方は次のようなものであった。曇鸞の『往生論註』より引用する。
諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、すなわち一念に至るまで心を至して回向して、かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得て、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とを除く。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.92-93より、太字は筆者が施した)
それに対し、親鸞は「本願成就文」の最初の一文を二文に分けたうえで、つぎのような読み替えをし「本願信心の願成就文」として引用した。
諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.235より、太字は筆者が施した)
【現代語訳】
すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.204-205より)
このように、親鸞は「信心」と「一念」を一文につなげることによって、「信の一念」としての信心を強調している。なお、「本願成就文」の引用は、つづく「欲生心釈」の引証において、「本願欲生心成就の文」として引き継がれる。
次に、親鸞は『無量寿如来会』の同じく第十八願成就文の中から「一念浄信」を引用する。これらは、信楽が名号を聞信する「一念」に成就する本願力回向であることを証明する。
つづいて、『涅槃経』の「獅子吼品」の四無量心、信心、一子地をそれぞれ仏性と名づけるとした部分を引用し、「迦葉品」からの二文から、信心は無常菩提の因であり、如実の信(具足の信)と不如実の信(不具足の信)があり、その中でも如実の信を勧めている。
さらに、『華厳経』の「入法界品」(晋訳)を引き、信心を喜ぶ人は如来と等しい、とした。また、次に「入法界品」(唐訳)を引き、如来は衆生の疑惑を断ち切り、本当の意味での満足を与えるとした。つづいて、「賢首品」(唐訳)から引き、信心の徳を讃嘆した。
最後に曇鸞の『往生論註』から二文が引かれ、一心=如実の信心であり、その信心が真実のさとりに至る(能入)ための因となることを明らかにした。
続いて三一問答(4)では欲生釈を解説する。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[5] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[6] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[7] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)