三一問答 (2)
法義釈の構造
「法義釈」は本願の三心を天親の一心(信楽)から釈した「至心釈」、「信楽釈」、「欲生釈」の三つの解釈からなる。それぞれの解釈は同一の構造を持ち、伝統的な浄土真宗の教学ではその構造を機無、円成、回施、成一と呼び分けてきた。
①機無
仏の救済の目当てであるわたしたち衆生には、もともとから成仏の因となる真実の「三心」(機、仏教知識「深信(二種深信)」参照)が存在しないという意味。また、それは過去、現在、未来に渡っても持ちうることはできないことを説く。
②円成
円かな(欠けることなく)完成の意味。真実の三心をもちえない衆生を憐れんで、法蔵菩薩が私たちに代わって真実の三心を欠けることなく完成したことを説く。
③回施
めぐらし施すこと。三心を完成させ如来となった阿弥陀仏は、一切の衆生に対して完成された三心を「名号」として施し与えることを説く。
④成一
如来によって完成され、回向された三心は、衆生のうえでは疑いなくそのまま受け入れる信楽の一心となることを説く。
至心釈
① 【機無】
……一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。② 【円成】
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。③ 【回施】
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。④ 【成一】
ゆゑに疑蓋雑はることなし。(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.231より)
【現代語訳】
① 【機無】
……すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。② 【円成】
そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。③ 【回施】
如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。④ 【成一】
だからそこに疑いのまじることはない。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.196-197より)
このように親鸞は、至心とは「疑いのまじらない真実の心」であるとし、私たち衆生にはとても持ちえない(機無)からこそ、阿弥陀如来は私たちを救うために至心を成就し(円成)、それを名号として私たちに与えてくださった(回施)。私たちはその回施された至心を、信楽の一心で受け取るのみである(成一)、とした。
至心釈の引証
親鸞はこの「法義釈」において、経典や七高僧の著作より数々の引用をして自説を証明しようとした。これを「引証」という。なかには、それまでの伝統的な読み方とは違った読み方を施したうえで引用している文章もある。ここでは読み替えの例として、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)「散善義」の引文を挙げる(そのほかの読み替えの例としては仏教知識「三心」を参照)。
善導
不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし。 またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。 内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。 ゆゑに至誠心と名づく。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.456-457より)
親鸞
不善の三業をば、かならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに、至誠心と名づく
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.233より)
【現代語訳】
衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、如来が因位のとき、真実の心において捨てられたのであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。内外明闇の人の別をいわず、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.200-201より)
親鸞は「すべからく~すべし」と読まれてきた「須」の文字を「もちいる」と読み替えることによって、真実心(= 至心・至誠心)は決して衆生が持つものではなく、阿弥陀仏が成就した三心を具えた「真実心」をそのまま信じて受け取る、という解釈を徹底した。
また、親鸞は「内外明闇」の語句にも詳細な注釈を施している。善導においての内外明闇とは、身口意の三業のうち、意業を「内」、身業と口業を「外」としているのに対し、親鸞は『涅槃経』「聖行品」における「明暗」を引きながら、「内」は出世(出世間)で智明とし、「外」は世間で無明であると解釈した。
三一問答(3)では信楽釈を解説する。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[5] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[6] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[7] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)