三一問答 (4)
欲生心釈
略釈
欲生心釈の冒頭には信楽釈と同じく、略釈が置かれている。
ここでは、欲生心とは、如来の側からは「わたし(如来)がつくった浄土に生れたいとおもえ、かならず往生させる」という、如来のよびごえ(本願招喚の勅命)であり、衆生の側からは自力によって獲得した回向を如来に振り向けるのではなく、招喚の勅命を疑いなく聴き信じることで起こる「浄土に生れたい」と願う心である(不回向)であるとした。このあとに、至心釈、信楽釈と同じく機無、円成、回施、成一の釈が続く。
① 【機無】
しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。② 【円成】
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、……③ 【回施】
……利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。④ 【成一】
欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.241より)
【現代語訳】
① 【機無】
あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。② 【円成】
そこで、阿弥陀如来は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。③ 【回施】
そして、他力信心の欲生心を、迷いの衆生に施し与えられたのである。④ 【成一】
すなわち、衆生の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.213-214より)
このように親鸞は、煩悩や迷いに流される私たち衆生は、涅槃に到達できるような真実で清らかな回向心を持つことなどできず(機無)、そのために阿弥陀如来は、すべての衆生を救済するために真実の回向心を第一とした大悲心を菩薩の修行によって成就され(円成)、他力信心の欲生心を「召喚の勅命」として、私たち衆生に施し与えた(回施)。その大いなる慈悲の心を信楽の一心で疑いなく受け取ることによって、「浄土に生れたい」という心が起こる(成一)、とした。
欲生心釈の引証
親鸞はまず、『仏説無量寿経』の「本願成就文」の後半部分を「本願の欲生心成就の文」として引用する(本願成就文の原文と従来の読み方については、仏教知識「三一問答 (3)」の「信楽釈」を参照)
「至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.241より)
【現代語訳】
「その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.214より)
このように、親鸞は回向をする主体を「仏(阿弥陀如来)」であるとし、従来の読み方であった「衆生が阿弥陀如来に回向する」という自力の信心をしりぞけ、如来の回向を信楽の一心で受け取ることによって「かの国に生ぜんと願ず」という欲生心が生まれる、とした。(ここに引かれている唯除以降のいわゆる「抑止文」については本サイトのコラム「親鸞にとっての「唯除の文」~しらせんとなり~」を参照)
また、善導の『観無量寿経疏』(『観経疏』)「散善義」の文を次のように読み替えている。
善導
また、回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。この心深信せること金剛のごとくになるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.464より)
親鸞
また、回向発願して生るるものは、かならず決定真実心のなかに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心深く信ぜること金剛のごとくなるによつて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.243より)
【現代語訳】
また、浄土の往生を願うものは、必ず阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心をいただいて、間違いなく往生できると思うがよい。この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.217-218より)
善導においては、「得生の想(間違いなく往生できると思う)をなすために、決定真実心に衆生が回向し願う」という意味であったものが、親鸞においては「決定真実心に如来が回向した本願によって、得生の想をなせ」というように読み替えられ、やはり自力の信心をしりぞけている。
続いて、同じく善導の「散善義」から「二河白道の譬喩」(二河譬)を、親鸞独自の解釈をもって引用し(仏教知識「二河白道 (1)」「二河白道 (2)」参照)、本願が回向された信心は金剛のように固い真心であるから、なにものにも破壊できない、とした。また、「回向発願心」(= 欲生)が「金剛の真心」(= 信心、信楽)の意義を別に開いたものであることとした。
欲生心の引証は、次のような「定善義」の引用で終わる。
金剛といふは、すなわちこれ無漏の体なり
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.245より)
【現代語訳】
金剛というのは、清らかな仏の智慧のことである(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.221より)
ここで親鸞は、「金剛の真心」の体(本質)は、如来から回向された無漏智(清らかで煩悩がまじることのない智慧)であると結論づけ、衆生はそれを疑いなく信じ受け取ることで往生する、とした。
三重出体
さて、法義釈には三心それぞれの「体」が示されている。「体」とは、本質や本体という意味があり、ここでは「○○を体とする」が三度(三重)出てくるので「三重出体」と呼ばれている。
至心の本質は名号(至心釈)
この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.231より)
【現代語訳】
この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.197より)
至心とは、阿弥陀如来のこの上ない名号の徳が、真実心として衆生に至り届いたこととする。
信楽の本質は至心(信楽釈)
すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.234より)
【現代語訳】
すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.203より)
信楽とは、至り届いた真実心をそのまま疑いなく聞き受けることとする。
欲生の本質は信楽(欲生釈)
すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.241より)
【現代語訳】
そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.213より)
欲生とは、信楽に自ずから具わる欲生心のこととする。
このように親鸞は、三心の「体」を示すことによって、三心相互の関係性を解釈し、他力回向の構造を明らかにした。つまり、他力回向とは、阿弥陀如来の真実心が衆生に至り届くことであり、これを疑いなく聞き受けるときに信楽が成立して、浄土に往生したいと願う心もこの信楽に他ならない。親鸞は、三心それぞれの「体」の側面からも、三心が信楽一心に収まることを示した。
続いて「三一問答 (5)」では法義釈の「結示」として三信結嘆と大信嘆徳を解説していく。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[5] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[6] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[7] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)