二河白道 (2)
この記事では二河白道の譬えが用いられた経緯や意図について解説する。譬えの内容については仏教知識「二河白道 (1)」で解説する。
善導が二河白道の譬えを述べた理由
善導大師の時代、中国の仏教界では浄土教について次のような見解があった(仏教知識「観無量寿経疏(観経疏)」も参照のこと)。
- 凡夫が往生できる極楽浄土は本当の浄土ではなく、そこにおられる阿弥陀仏も本当の阿弥陀仏ではない。すなわち応身応土(凡夫に応じてあらわれた仏と浄土)である。
- 『仏説観無量寿経』(『観経』)には凡夫が称名念仏することで浄土往生できると述べられているが、これは遠い未来に得るはずの利益をまるですぐに得られるかのように説き、凡夫を励ますための方便として述べられたものである(これを念仏別時意説という)。
善導が『観経疏』を著したのは、称名念仏する人たちがこうした誤った理解に陥ったり、異なった考え方の人たちから攻撃されたりしないようにするためである。その意図が端的に表れているのが二河白道の譬えである。善導はこの譬えの直前に「念仏を行ずる人たちの信心を守護しよう」と述べている。
また一切の往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。 (『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』 P.466より)
『観経』は凡夫が称名念仏によって阿弥陀仏の真実の浄土に往生できることを顕した経典である。信心とは凡夫を往生せしめようとする阿弥陀仏のはたらきを疑いなく受け入れた心である。この信心は深心(仏教知識「三心」参照)であり、これは機の深信と法の深信、すなわち二種の深信で表される(仏教知識「深信(二種深信)」参照)。仏教知識「二河白道 (1)」で述べたように、この二河白道の譬えには機の深信と法の深信が示されている。
このように、善導は人々の信心を守護するために二河白道の巧妙な譬えを用いて信心の内容を表現した。
親鸞と二河白道
宗祖親鸞は『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「信文類」の中で善導の『観経疏』を引用している。下図に示すように、まず善導の「三心釈」の大部分を引用している。この中には二河白道の譬え(と善導による解説)も含まれる。次に「三心釈」の中にある「回向発願心釈」の第二釈(作得生想の釈)を「三一問答」の中にある「欲生釈」で引用している。その後、二河白道の譬えの私釈(解釈)を述べている。
「回向発願心釈」第二釈の引用
親鸞による読み替え
「回向発願心釈」とは『観経』の三心の一つである回向発願心を善導が解釈したものである。「欲生釈」とは『仏説無量寿経』(『大経』)の三心の一つである欲生を親鸞が解釈したものである。親鸞は「欲生釈」の中で「回向発願心釈」の第二釈を引用し、その際に善導の書いた漢文を読み替えて解釈した。
すなわち、通常は「須く~べし」と読むところを「須いて」と読み替えることにより、「衆生が回向して願ずる」のではなく「如来が回向した願を衆生がもちいる」と解釈した。
第二釈と三心
ここの続きも含めて親鸞の漢文を現代語訳すると以下のようになる。
また、浄土の往生を願うものは、必ず阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心をいただいて、間違いなく往生できると思うがよい。この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。ただ疑いなくひとすじに本願を信じて、わき目もふらずに進み、心を惑わすものの言葉に耳を傾けてはならない。 (『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』 P.218より、下線は筆者が引いた)
『観経』の三心は至誠心(真実心)、深心(深く信じる心)、回向発願心(浄土への往生を期待し、それを待ち受ける心)である。この文には
- 阿弥陀仏が真実の心(至誠心)をもって回向してくださる本願のお心は、金剛のようにかたい信(深心)である
- 阿弥陀仏から本願のお心(深心)をいただいて、間違いなく往生できると思う(回向発願心)
ことが書かれている。このことから三心は全て阿弥陀仏よりいただいたものであることと、三心の中心に深心があることがわかる(詳しくは仏教知識「三心」参照)。
また、ここでは浄土への往生を求める心(回向発願心)が金剛のように堅い心であり、何者にも乱されたり砕かれたりすることはないと書かれている。つまり回向発願心とは浄土への往生が必ず実現すると疑いなく信じ、それを期待して待つ決定要期の心であることが証明されている。
このように第二釈は『観経』と『大経』の三心について論じる上で非常に重要な部分であるため、親鸞はこれを引用した。また、この文の内容を巧みに喩えたのが二河白道の譬えである。そのため、親鸞は第二釈の引用に続き二河白道の譬えについての私釈(解釈)を述べている。
親鸞の私釈
善導の解説
私釈の内容に入る前に、まず善導が『観経疏』「散善義」の中で述べた二河白道の譬えの解説の文について扱う。この解説の中には次の文がある。
「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 七祖篇-』P.468より、下線は筆者が引いた)
この文によれば白道とは衆生が煩悩の中に生じた「清浄の願往生心」(往生を願う清らかな心)のことを喩えたものである。しかし善導はこうも述べている。
仰ぎて釈迦発遣して指して西方に向かはしめたまふことを蒙り、また弥陀悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜することなんぞ極まらんといふに喩ふ。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 七祖篇-』P.469-470より、下線は筆者が引いた)
この文によれば白道とは「かの願力の道」、つまり阿弥陀仏の本願力を喩えたものである。これらを合わせて考えると、白道とは衆生からいえば阿弥陀仏が「来い」と招く声に順って身を任せている信心を喩えており、阿弥陀仏からいえば衆生を救済する願力を喩えている。つまり信心と本願力は同じものであり、これを衆生からみれば信心といい、阿弥陀仏からみれば本願力という。
私釈の内容
親鸞はこのことを明らかにするために、『教行信証』「信文類」の「欲生釈」の中で以下の善導の文(先ほど挙げたものと同じ文)について解釈を述べた。
「中間の白道四五寸」といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。 (『浄土真宗聖典 -註釈版 七祖篇-』P.468より)
白
阿弥陀仏が選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行。「白」に対して「黒」があり、これは無明に汚れた行であり、煩悩のまじった善である。
道
第十八願の唯一真実の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道。「道」に対して「路」があり、これはさまざまな行を修めなければならない劣った路である。
四五寸
衆生の身心を構成している四大(4つの元素)・五陰(5つの構成要素)。
清浄の願往生心を生ずる(清らかな信心が起こる)
金剛のように堅固な真実の心を得ること。如来の本願力によって回向されたすぐれた信心であるから、破壊されることはない。
まとめ
善導は念仏する人たちを守るために『観経疏』を著し、その中で二河白道の譬えを述べて信心の内容を表現した。
親鸞は『教行信証』「信文類」の中で『大経』と『観経』の三心について解釈を述べた。三心について論じる上で『観経疏』の「回向発願心釈」の第二釈は非常に重要な部分であったため、親鸞は三一問答の中でここを引用した。
この第二釈の内容を巧みに喩えたものが二河白道の譬えであったため、親鸞はこの喩えの解釈を述べた。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗聖典全書(二) 宗祖篇 上』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2011年)
[4] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[5] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[6] 『聖典セミナー 浄土三部経Ⅱ 観無量寿経』(梯實圓 本願寺出版社 2012年)
[7] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[8] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[9] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)