観無量寿経疏(観経疏)
中国の僧、善導(613~681)が著した『仏説観無量寿経』(『観経』)の註釈書。善導が遺した「五部九巻」(『観経疏』四巻, 『法事讃』二巻、『観念法門』一巻、『往生礼讃』一巻、『般舟讃』一巻の総称)の書物のひとつ。善導の主著であることから『本疏』とも呼ばれ、『観経疏』『観無量寿仏経疏』『観経義』と呼ばれることもある。また、「玄義分」「序分義」「定善義」「散善義」の四巻から構成されていることから、『四帖疏』『観経四帖疏』(帖は巻の意味)とも呼ばれている。
善導に先行する『観経』の註釈書として、地論宗の浄影寺慧遠(523~592)が著した『観経義疏』(二巻)、三論宗の吉蔵(549~623)が著した(慧遠の著作と同名の)『観経義疏』(一巻)などがある。これらは『観経』の説く経旨を「観仏三昧」であるとし、聖者(聖道門の行者)に対して観察の行を勧める経典であるとした。また、阿弥陀仏とその浄土を応身応土(= 化身化土、本来のさとりに導くための方便として姿を現した仏と浄土)であり、凡夫は阿弥陀仏の報土に往生することはなく、化土にしか往生できないとした。また、無着(395-470頃)の『摂大乗論』から発展した摂論宗では、「称名念仏」の行は単に仏縁を結ばせるためのもので、念仏の行だけでは往生成仏することはできずに輪廻を繰り返す、と主張していた。そういった当時の主流であった考え方に対する反論(古今揩定)として著されたのが善導の『観経疏』である。
玄義分
『観経疏』の総論となっている。最初に「帰三宝偈」(「勧衆偈」「十四行偈」)と呼ばれる偈文が置かれ、続いて善導の『観経』に対する註釈が問答形式で展開されていく。
内容は、先行する聖道門諸師の論を正し、『観経』は凡夫が阿弥陀仏の報土に往生するために説かれた経典であることを示す。
続く「序分義」「定善義」「散善義」は、『観経』の文章の一文ずつを善導が解釈していく逐文的な方法がとられている。
序分義
いわゆる、「王舎城の悲劇」について註釈した部分。それまでの『観経』の註釈書ではあまり重要視されていなかった部分であるが、善導は現実に起きた出来事として「王舎城の悲劇」をとらえ、凡夫である韋提希が念仏のおしえに出遇う機縁として、一巻をもって詳細に註釈を施している。
定善義
韋提希の要請に応えて釈尊が説いた「定善十三観」について註釈した部分。善導は、韋提希が無性法忍(さとり)を獲たのは「第七観(華座観)」の阿弥陀仏があらわれたときであると主張した。
散善義
第十四観、十五観、十六観の「散善九品」と、流通分について註釈した部分。善導は「上品上生釈」において、『観経』における三心について詳しく註釈している。その中でも「深信釈」における深信を二種に分けて註釈した考え方は、いわゆる二種深信として、日本の浄土教に大きな影響を与えた。また、回向発願心釈においては、有名な「二河白道」の譬えが挙げられている。
善導は、この「散善九品」は釈尊が自ずから説いた「自説の経」であるとし、対告衆として「未来世一切衆生」(これから生まれてくるすべての衆生)を加えている。そして、流通分において、阿難に付属(託)されたのは「称名念仏のおしえ」であるとし、『観経』は「凡夫が阿弥陀仏の報土に念仏によって往生する」おしえであり、「凡夫のための経典」であることを明らかにした。
善導の『観経疏』は中国においては、あまり広く流布した形跡は見られない。しかし、日本においては源信(942-1017)の『往生要集』に引用がみられるのをはじめ、浄土宗の宗祖法然(1133-1212)は散善義に書かれた「順彼仏願故」(かの仏の願に順ずるが故に)の文字に導かれて念仏のおしえに帰依した。また、親鸞(1173-1263)は、主著『顕浄土真実教行証文類』に『観経疏』をはじめとしたさまざまな善導の著書を引用しており(仏教知識「善導」を参照)、日本の浄土教において『観経疏』は重要な役割を果たしている。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2009年)
[3] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -原典版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1992年)
[4] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)