三心
仏教ではさまざまな「三心」が説かれてきたが、ここでは浄土経典の『仏説観無量寿経』(『観無量寿経』)と『仏説無量寿経』(『無量寿経』)に説かれている「三心」(「三信」とも書く)について解説する。なお『観無量寿経』の三心については「さんじん」と読まれることもある。
『仏説観無量寿経』の三心
『観無量寿経』の「上品上生」には三心について
一つには至誠心。二つには深心。三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.108より)
と説かれており、この三心をそなえるものはかならず阿弥陀仏の浄土へ往生できるとした。この三心について善導(613-681)は『観無量寿経疏』「散善義」において、以下のように示している。
①至誠心
『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.455より)
として、至誠心とは「真実心」(うそいつわりのまじらない心)のことと示した。
②深心
「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願は衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗じてさだめて往生を得と信ず。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.457より)
として、深心とは阿弥陀仏を深く信じる心のことであるとし、また二種の信心のすがたをそなえていることを示した(仏教知識「深信(二種深信)」を参照)。
③回向発願心
「回向発願心」といふは、過去および今生の身口意業所修の世・出世の善根と、および他の一切凡聖の身口意業所修の世・出世の善根を随喜せると、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心中に回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。また回向発願して生ぜんと願ずるものは、かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.464より)
として、回向発願心とは、自身が行ってきたさまざまな善根(善いおこない)をまことの心をもって浄土に回向して(ふりむけて)、かならず浄土へと往生したいと願う心のことと示した。
『仏説無量寿経』の三心
『無量寿経』に説かれる四十八願のうち、第十八願(本願)の「至心信楽欲生我国」の文言から「至心」、「信楽」、「欲生」の三つを、阿弥陀仏が衆生往生のために誓われた「本願の三心」という。
法然は、『黒谷上人漢語灯録』(了恵道光 編)の『観無量寿経釈』において、
今此『経』三心、即開本願三心。 爾故「至心」者至誠心也、「信楽」者深心、「欲生我国」者廻向発願心也。 (『浄土真宗聖典全書(六) 補遺篇』P.366より)
と示した。
意訳すると「『観無量寿経』の三心はすなわち『無量寿経』の三心に開くことができる。至心は至誠心であり、信楽は深心であり、欲生我国は回向発願心となるからである。」となる。
つまり、法然は以下のように「『無量寿経』(本願)の三心」に「『観無量寿経』の三心」をそれぞれ当てはめた。
『無量寿経』(本願)の三心 | 『観無量寿経』の三心 | |
---|---|---|
① | 至心 | 至誠心 |
② | 信楽 | 深心 |
③ | 欲生 | 回向発願心 |
親鸞の三心釈
親鸞は善導や法然の説を承けながらも、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の「信巻」や「化身土巻」などで、より徹底した他力の立場に立った「三心釈」を展開している。例えば、親鸞は『教行信証』「信巻」の「大信釈」において、前出の善導の「回向発願心釈」を引用しているが、原文の
かならずすべからく決定真実心のうちに回向し願じて、得生の想をなすべし。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.464より)
と読まれていた文章を
かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.221より)
と、阿弥陀仏が衆生を往生させるために、真実心に回向する願として読み替えることで、従来の自力の「回向発願心」の解釈を他力浄土門の「回向発願心」として転換させた。(仏教知識「二河白道 (2)」も参照のこと)
同様の読み替えは、「至誠心釈」にも見られる。
かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.455より)
と読まれていた文章を
かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.216より)
【現代語訳】
必ず、如来が真実心のうちに成就されたものを用いることを明らかにしたいという思召しである。うわべだけ賢者や善人らしく励む姿を現してはならない。心のうちにはいつわりをいだいて、 (『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.170より)
と、読み替えて、凡夫が阿弥陀仏から回向された「願」によって三心が具足し、往生することを示した。
また、親鸞は『教行信証』「化身土巻」において、『観無量寿経』の三心は本願の三心と同じく他力の信心を説いていることを顕彰隠密の義を用いて論じている。(仏教知識「顕彰隠密」「仏説観無量寿経」参照)
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2009年)
[3] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 2017年)
[4] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[5] 『親鸞の教行信証を読み解く―信巻―』(藤場俊基 明石書店 2012年)
[6] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2004年)
[7] 『新・仏教辞典』(中村元 監修 誠信書房 2000年)
[8] 『浄土真宗聖典全書(六) 補遺篇』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2019年)