親鸞にとっての「唯除の文」~しらせんとなり~

【しんらんにとってのゆいじょのもん しらせんとなり】

浄土真宗じょうどしんしゅうでもっとも大切にされる経典きょうてん仏説無量寿経ぶっせつむりょうじゅきょう』(以下『無量寿経』)には、「ゆいじょぎゃく ほうしょうぼう」という言葉が二カ所にしるされている。これらは「唯除のもん」と呼ばれる。一つは、「じっぽうしゅじょう」(生きとし生けるものすべて)が念仏ねんぶつによっておうじょうじょうできないのであればほとけにはならないとちかわれた「だいじゅうはちがんもん」の中に、もう一つは、この「第十八願文」がじょうじゅしたことをあらわす「本願ほんがんじょうじゅもん」の中にある。これら二つの現代語訳をげる。

「第十八願文」〈現代語訳〉

 わたしがほとけになるとき、すべての人々ひとびとこころからしんじて、わたしのくにうまれたいとねがい、わずか十回じっかいでも念仏ねんぶつして、もしうまれることができないようなら、わたしはけっしてさとりをひらきません。ただし、五逆ごぎゃくつみおかしたり、ほとけおしえをそしるものだけはのぞかれます。

(『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.29より)

「本願成就文」〈現代語訳〉

 りょう寿じゅぶついてしんよろこび、わずか一回いっかいでもほとけねんじて、こころからその功徳くどくをもってりょう寿じゅぶつくにまれたいとねが人々ひとびとは、みな往生おうじょうすることができ、退転たいてんくらいいたるのである。ただし、五逆ごぎゃくつみおかしたり、ほとけおしえをそしるものだけはのぞかれる。

(『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.71より)

このように「唯除」の文は二カ所とも同文(漢文では同じ)である。なるほど仏教ぶっきょうでは五逆ごぎゃく(※1)、誹謗正法(仏の教えを謗ること 以下謗法ほうぼう)ともに重罪であるが、一つの疑問がいてくる。『ぶっせつかんりょう寿じゅきょう』(以下『観無量寿経』)「ぼんしょう」では、

「下品下生」〈現代語訳〉

 こうしてそのひとが、こころからこえつづけて南無なも阿弥陀あみだぶつ十回じっかいくちとなえると、ほとけとなえたことによって、一声一声ひとこえひとこえとなえるたびに八十億劫はちじゅうおくこうというながあいだまよいのもとであるつみのぞかれる。そしていよいよそのいのちえるとき、金色こんじきはすはながまるで太陽たいようのようにかがやいて、そのひとまえあらわれるのを、たちまち極楽世界ごくらくせかいまれることができるのである。

(『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』P.210-211より)

と記されており、五逆の罪をおかした者でもしょうみょう念仏ねんぶつによって浄土じょうど極楽ごくらく)に往生がられると説かれている。同じ「浄土経典」である『無量寿経』との矛盾はどのように理解すればよいのか。

これには、真宗しんしゅう七高僧しちこうそう曇鸞どんらん(472~542頃)と善導ぜんどう(613~681)がなぜ『無量寿経』では、五逆と謗法の罪人は往生が得られないとしているのに、『観無量寿経』が五逆の罪人は往生を得ることができるとするのかという問いをもうけて、答えている。まず、曇鸞の『おうじょうろんちゅう』(巻上)「八番問答はちばんもんどう」の「ぎゃくほうじょしゅ」を挙げる。

 ひていはく、『りょう寿じゅきょう』(下・意)にのたまはく、「往生おうじょうがんずるものみな往生おうじょう。ただ五逆ごぎゃくほうしょうぼうとをのぞく」と。『観無量寿経かんむりょうじゅきょう』(意)にのたまはく、「五ぎゃく・十あくもろもろの不善ふぜんするもまた往生おうじょう」と。この二きょう、いかんがする。こたへていはく、一きょう(大経)には二しゅ重罪じゅうざいするをもつてなり。一には五ぎゃく、二つには誹謗正法ひほうしょうぼうなり。この二しゅつみをもつてのゆゑに、ゆゑに往生おうじょうず。一きょう(観経)にはただ十あく・五逆等ぎゃくとうつみつくるとのたまひて、正法しょうぼう誹謗ひほうすとのたまはず。正法しょうぼうほうぜざるをもつてのゆゑに、このゆゑにしょうずることを

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.94より)

曇鸞は、『無量寿経』で「除く」とされる対象が五逆と謗法という二種の重罪を犯している者との解釈をしている。一方で『観無量寿経』では、五逆のみを犯して謗法を犯していない者が念仏により往生が得られるとしているので、二つの経典に矛盾はないとしている。またその後の問答では、「謗法の罪を犯して、五逆の罪を犯していない者は救われるのか」との問いも立てるが、この場合、往生は得られないとする。なぜならば謗法の者は、ぶつ菩薩ぼさつの存在を否定して、如来にょらい本願ほんがんを信じることもないために、それは五逆の罪よりも重罪であるとしている。しかし、『往生論註』(巻下)では、先ほど往生は得られないとされた謗法の罪人も「阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞けば」名号のはたらきによって、この罪が転換されて往生が得られるとする。ただし、往生までには罪に応じた苦しみは受けるとして、その苦しみからの転換にどれほどの時間を必要とするのかは記されていない(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.128参照)。

次に善導が同じ問いを設けた『かんりょう寿じゅきょうしょ』(巻第四)「散善義さんぜんぎ」「ぼんしょうしゃく」を挙げる。

 こたえていはく、このあおぎて抑止門おくしもんのなかにつきてせん。四十八がんのなかの〔だい十八がんの〕ごとき、謗法ほうぼうと五ぎゃくとをのぞくことは、しかるにこの二ごうそのさわり極重ごくじゅうなり。衆生しゅじょうもしつくればただちに阿鼻あびり、歴劫周慞りゃくこうしゅうしょうしてづべきによしなし。ただ如来にょらいそれこの二のとがつくることをおそれて、方便ほうべんしてとどめて「往生おうじょうず」とのたまへり。またこれせっせざるにはあらず。また下品下生げぼんげしょうのなかに、五ぎゃくりて謗法ほうぼうのぞくは、それ五ぎゃくはすでにつくれり、てて流転るてんせしむべからず。かえりて大悲だいひおこして摂取せっしゅして往生おうじょうせしむ。しかるに謗法ほうぼうつみはいまだつくらず。またとどめて「もし謗法ほうぼうおこさば、すなわちしょうずることをず」とのたまふ。これは未造業みぞうごうにつきてす。もしつくらば、かえりてせっしてしょうずることをしめん。

(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.494より)

ここでの解釈が曇鸞の「八番問答」からの影響を受けていることは間違いないが、さらに解釈を進めていることがわかる。それは、「第十八願」の「唯除の文」は未だ罪を造らない(未造業みぞうごう)者に対して、罪を造ってはならないといましめるための文(抑止門おくしもんであり、『観無量寿経』はすでに罪を造った(已造業いぞうごう)者は、回心えしん(心を改めて仏の教えに帰依すること)するのであれば必ず救うという摂取せっしゅの心をあらわした文であるとする。また、『観無量寿経』で謗法について説かれていないのは、まだ謗法の罪は犯していないはず(経典をより所とするもの)であろうから抑止のみにとどめているのであって、すでに謗法を犯したのであれば、同じように回心すれば、往生が得られるとしている。

これらの問答で『無量寿経』と『観無量寿経』が矛盾すると考えられる疑問は解決できた。しかし、『無量寿経』におけるもう一つの矛盾の解決には不十分である。それは、「第十八願」「本願成就文」ですべての者(「十方衆生」または「諸有衆生しょうしゅじょう」)を必ず救うと呼びかけた同じ文に「唯除される者」がある。この矛盾が同一に成立するのであろうか。浄土真宗の宗祖親鸞しゅうそしんらんは、曇鸞・善導の問答での解釈を継承しつつも、さらに発展させて、この矛盾にも答えを出している。親鸞は『尊号真像銘文そんごうしんぞうめいもん』「第十八願」の註釈で、

 「唯除五逆誹謗正法ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう」といふは、「唯除ゆいじょ」といふはただのぞくといふことばなり、五ごぎゃくのつみびとをきらひ、誹謗ひほうのおもきとがをしらせんとなり。このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切じっぽういっさい衆生しゅじょうみなもれず往生おうじょうすべしとしらせんとなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.644より)

〈現代語訳〉
唯除五逆誹謗正法ゆいじょごぎゃくひほうしょうぼう」というのは、「唯除ゆいじょ」というのは「ただのぞく」という言葉ことばであり、五逆ごぎゃくつみおかひときらい、仏法ぶっぽうそしつみおもいことをらせようとしているのである。このふたつのつみおもいことをしめして、すべての世界せかいのあらゆるものがみなもれることなく往生おうじょうできるということをらせようとしているのである。

(『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』P.6より)

として、「唯除」は五逆と謗法の罪の重さを知らせるためであり、これを知らせたうえで、すべての世界のあらゆる者がみなもれることなく往生できるということをさらに知らせようとしていると解釈した。 ここまでの曇鸞、善導と親鸞における「唯除の文」の解釈について、真宗大谷派の延塚のぶづか知道ちどうは、

 浄土教は凡夫に帰って弥陀に救われることが要ですが、その凡夫の自覚が至難の業です。曇鸞は、「五逆・誹謗正法」とは、本願力によって凡夫の身に引き戻され、絶対に救われないことに目覚めることと説いていました。善導は二つの罪に目覚めれば、弥陀に摂取されると説いていました。

 親鸞聖人は、まず曇鸞の了解によって「唯除というは、ただのぞくということばなり。五逆のつみびとをきらい、誹謗のおもきとがをしらせんとなり」と述べて、唯除を「地獄一定」の目覚めを促す、大悲の教えと受け止めています。次に善導の了解によって「このふたつのつみのおもきことをしめして、十方一切の衆生をみなもれず往生すべし、としらせんとなり」と、弥陀の摂取を説いているのです。

 このように親鸞聖人は、唯除の文を凡夫の身に目覚めさせ摂取せずにはおかないという弥陀の大悲の教えと受け止めて、因願と成就文の両方に記したのです。なぜなら唯除の文にこそ、信心によって救い取るという、王本願の意味が湧き出ているからです。

(『親鸞の主著『教行信証』の世界』P.225-226より)

として、親鸞が曇鸞と善導の解釈を受け継いでいることを示しながらも、親鸞独自どくじの「唯除」理解として、「唯除の文」が「凡夫ぼんぶの身を目覚めざめさせ摂取せずにはおかないという弥陀みだ大悲だいひの教え」であり、「唯除」にこそ「信心しんじんによってすくる」という「第十八願」ならではの意味を見出みいだしたことであるとする。

 

以上のことをまえながら、ここからはコラムとして私見しけんを記したい。

曇鸞は、罪を造るなと「未造」の徹底てってい指示しじした。善導は「未造」の者には罪を造るなと抑止して、「已造」の者には回心をすすめて阿弥陀如来の摂取の心を説いた。一方で親鸞は、自分自身が「五逆誹謗正法」の罪人で「已造」の者であるとの根源的な罪障ざいしょうに気づき苦しんでいた(※2)。また、うそ・いつわりしかない自身の心で浄土への往生を願い念仏したところで、救われるはずもない。ではなぜ阿弥陀如来(法蔵菩薩ほうぞうぼさつ)が十方衆生を救うと誓われて、それが成就したのか?『無量寿経』に誤りがないのであれば、私(親鸞)が救われずに「十方衆生」の救いは完成しない。つまり、従来の仏教理解が十分ではなかったと気づいたのである。そこで、「本願成就文」漢文を従来の仏教理解である「その名号みょうごう南無阿弥陀仏なもあみだぶつ)を聞いて信じ喜び、まごころの真実心しんじつしんをもって一回でもほとけねんじて、その功徳くどく回向えこうして」(趣意)とは読まずに、「その名号(南無阿弥陀仏)を聞いて信じ喜びがおこるとき、それは阿弥陀如来がまごころの真実心を回向されたから」(趣意)と読み替えた。これによって「唯除」は、「まごころの真実心」などを持ち合わせない五逆謗法の罪人親鸞が、ただ阿弥陀如来があたえてくださった名号のいわれを信じ喜ぶのみによって、「十方衆生」(救いの対象)となると「しらせん」との文となる。また同時に、「唯除」は救いの対象からの排除ではなく、親鸞がどれほどの極重悪人ごくじゅうあくにんかを「しらせん」がためである。

曇鸞や善導に自らが「凡夫」であるとの認識があったことは、それぞれの著書から知ることができる。しかし、そこにはどれほどまでの深い自覚があったのか。悪人との自省じせいがあったにせよ自らが「唯除」の規定範囲きていはんいに入るとは考えていたとは思えない。「唯除の文」に心をくだき、重罪を犯すものがどのようにすれば救われていくのかを追い求めたのは、「宗教者としての良心」であり、他者である「罪を犯したが往生をしたいと願う人々」の問題であった。一方で親鸞にとっては、せっぱ詰まった「極重悪人」自身の問題であった。親鸞の「唯除の文」の解釈は、阿弥陀如来が「しらせんとなり」とした大悲を「親鸞一人いちにんのため」と受け取ったからこそ成立しており、それは宗教的精神からの解釈ではなく、苦しい宗教的実体験からの決断によって仏意ぶつい(如来の本心)にれたということではないだろうか。浄土真宗の教えをよりどころとする私は、親鸞が「しらせんとなり」と受け取った「唯除の文」を大切にしていかなければならない。

※1 五逆
地獄じごくちる五種の罪。親鸞は『けん浄土じょうど真実しんじつ教行証きょうぎょうしょう文類もんるい』「信巻しんかん」において、一般的な五逆をあげて、
故意こいに父を殺すこと (殺父せっぷ
②故意に母を殺すこと (殺母せつも
③故意に阿羅漢を殺すこと (殺阿羅漢せつあらかん
④間違った考えをおこして教団の和を乱すこと (破和合僧はわごうそう
⑤悪い心をいだいて仏の体を傷つけて血を流すこと (出仏身血しゅつぶっしんけつ

※一般的には「出仏身血」が④で「破和合僧」が⑤であるが、親鸞の記載順にしたがった。

その後、大乗などの五逆もあげている。
仏塔ぶっとうを壊し、経典を焼き、三宝さんぼう財物ざいもつを盗むこと
声聞しょうもん縁覚えんがく菩薩ぼさつの教えをそしって仏教ではないといい、仏法ぶっぽう流布るふをさまたげ、危難きなん(生命にかかわるような災難)を加え、仏法の光をおおいかくしてひろまらないようにすること
持戒じかい無戒むかい破戒はかいにかかわらず、すべての出家しゅっけした人に対して、ののしり打って苦しめ、過失かしつを並べ立てて閉じこめ、還俗げんぞくさせて、かりたてて使い、重税を課して、ついに命を断つまでに追い込むこと
④父を殺し、母を害し、仏の体を傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺すこと
因果いんが道理どうりを否定して、常に十悪じゅうあくの罪を犯すこと
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.303-304参照)
※2  
親鸞自身の罪障への自覚は、『顕浄土真実教行証文類』「総序そうじょ」や「信巻」の「別序べつじょ」などを参照

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 浄土三部経(現代語版)』(浄土真宗教学研究所浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[5] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[6] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[7] 『親鸞の主著『教行信証』の世界』(延塚知道 東本願寺出版 2020年)
[8] 『浄土真宗聖典 尊号真像銘文(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 教学伝道研究室 <聖典編纂担当> 本願寺出版社 2004年)

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