三一問答 (5)
三一問答は、至心・信楽・欲生の三心の各法義釈を示したあと、三一問答の結論としての「結釈」と、それを承けて他力の信心(大信)を讃嘆する文章でしめくくられる。このうち、前段の結釈を「三信結嘆」、後段を「大信嘆徳」とも言う。
三信結嘆
【書下し文】
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同)とのたまへり。(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.245より)
【現代語訳】
いま、まことに知ることができた。至心と信楽と欲生とは、その言葉は異なっているけれども、その意味はただ一つである。なぜかというと、これらの三心は、すでに述べたように、疑いがまじっていないから真実の一心なのである。これを金剛の真心という。この金剛の真心を真実の信心というのである。この真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。しかしながら、名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっているとは限らない。信心すなわち一心がかなめであるから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「わたしは一心に」といわれたのである。また、「名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとするからである」といわれている。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.221-222より)
三心の法義釈を展開したことを承けて、親鸞は「まことに知んぬ」と書き始める。この部分は原文の漢文では「信知」という文字があてられており、これは善導大師の『往生礼讃』の三心釈より二種深信を示した部分から引用したとされる(詳しくは仏教知識「深信(二種深信)」参照)。この「信知」には「如来の信心を疑いなく受け止めることによって知らしめられた」という意味が含まれている。そして、至心・信楽・欲生と表にあらわされた言葉は違うが、それぞれを解釈していくと、如来より疑いのない心(至心)で回向された疑うことのできない本願(欲生)を衆生が疑いのない心(信楽)で受け止めるという、疑いがまじらない「真実の一心」に包摂されていくとした。そして、その一心を「金剛の真心」として、どんなことにも揺り動かされることのない、決して壊されることのない「真実の信心」であるとし、その真実信心には必ず名号がそなわるとした。この「名号」とは、「名号そのもの」であるととらえる説と、「称名行」のことととらえる説がある。浄土真宗本願寺派から出された『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(参考文献参照)に見られるように、本願寺派では「称名行」ととらえる説が有力である。その場合、この部分は「真実の信心は必ず称名行としてあらわれる」という「信行不離」をあらわすこととなる。そして、つづく「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」は、「口で名号を称えているだけでは、如来の本願を疑いなく信じる心があるとは限らない」という意味になる。
このように、三心それぞれの言葉は違うが、それは「信楽」の一心におさまるので、天親菩薩は「我一心」と示したと結論づけた。
大信嘆徳
【書下し文】
おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.245-246より)
【現代語訳】
総じて、この他力の信心についてうかがうと、身分の違いや出家・在家の違い、また、老少男女の別によってわけへだてがあるのでもなく、犯した罪の多い少ないや修行期間の長い短いなどが問われるのでもない。また、自ら行う行でもなく、自ら行う善でもない。速やかにさとろうとする教えでもなく、長い時を費やしてさとろうとする教えでもない。定善でもなく、散善でもない。正しい観法でもなく、よこしまな観法でもない。相を念じるのでもなく、相を離れて理を念じるのでもない。平生に限るのでもなく、臨終に限るのでもない。称名を多念に励むのでもなく、一念に限るのでもない。これはただ、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできないすぐれた信楽である。たとえば、阿伽陀薬がすべての毒を滅するように、如来の誓願は、自力のはからいである智慧の毒も愚痴の毒も滅するのである。(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.222-223より)
最後に親鸞は、他力の信心(大信)の徳を讃嘆する。ここでは、「不」という文字を四回使用した四句と、「非」という文字を十四回使用した七句にわたって入念にさまざまなことが否定されていく(四不十四非)。
まず、他力の信心が切り拓く世界には
① 不簡
貴賤(身分の上下)緇素(出家・在家)を簡ばない
② 不謂
老少(年齢)男女(性)を謂わない
③ 不問
造罪の多少(つくってきた罪の数)を問わない
④ 不論
修行の久近(仏法を学び修行した期間の長短)を論じない
と言い切る(四不)。つまり、すべての衆生にあまねく一切平等に本願力が回向されている世界が「大信海」(他力の信心の世界)であるとした。
次に、
① 非行非善
自力による修行、自力による善行の否定
② 非頓非漸
自力によってすぐにさとりにいたる教え、長い期間修行を続けてさとりにいたる教えの否定
③ 非定非散
こころを集中して如来や浄土を観察する修行、乱れたこころのままで少しでも如来や浄土に近づこうと悪いことをせずに善いことをする修行の否定
④ 非正観非邪観
観察する対象とこころが完全に相応する観法、相応しない観法の否定
⑤ 非有念非無念
具体的な如来や浄土を観察する修行、具体的な形相から離れて真理と一体になろうと観察する修行の否定
⑥ 非尋常非臨終
平生の称名、いのちの終わるときの称名にこだわることの否定
⑦ 非多念非一念
何度も励んで称名すること、一度だけ称名することどちらかに偏ることの否定
と、自力によるさまざまな行を否定した(十四非)。つまり、自力によるさまざまな修行にとらわれることなく、また、そのさまざまな修行の違いにもとらわれることがない世界が「大信海」(他力の信心の世界)であるとした。
そして、大信(他力の信心)とは「ただこれ不可思議不可称不可説の信楽」(私たち衆生には思いはかることも説明することもできないくらいすぐれた信楽)であるとし、如来の誓願を承け賜わる信楽心を「阿伽陀薬」(どんな毒もたちまち消し去る伝説の薬)に例え、自力を頼って獲ようとする智慧や愚痴が、信楽の一心によって消え去ると讃嘆した。
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[4] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[5] 『浄土真宗聖典全書(一) 三経七祖篇』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[6] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2021年)
[7] 『親鸞の教行信証を読み解くⅡ ―信巻―』(藤場俊基 明石書店 1999年)