称名報恩
称名報恩とは念仏(南無阿弥陀仏)を称え、阿弥陀如来の恩をよろこぶ心をあらわしたものである。称名は南無阿弥陀仏を称えることである。またこの場合の称名は第十八願に誓われている称名念仏、すなわち十念である(仏教知識「四十八願」の「善導の解釈」、「五願開示」参照)。ここでの報恩は恩返しということよりも南無阿弥陀仏と称える我々の心持ちであり、如来の救いをよろこぶ感謝の気持ちをあらわすことである。つまり、称名念仏は阿弥陀如来の救いの力やはたらきのことであり、念仏を称える我々の心持ちは阿弥陀如来に対して感謝し喜ぶ心である。
称名念仏と報恩行
本願には信心と念仏が誓われており、信心こそが往生成仏の正因であって、念仏は信心をいただいたすがたである(仏教知識「信心正因」参照)。わたしの心の中で信心が完成したと同時に往生成仏の因も完成する。称名したから往生成仏できるということではなく、信心をいただいたから往生成仏できるのである。つまり信心が先にあるから、その後に行う称名念仏は報恩の行となる。
称名が報恩となる理由は仏徳讃歎と仏化助成からなるとされる。「南無阿弥陀仏」と称えることは、阿弥陀如来の徳を讃えることになる。これを仏徳讃歎という。また称名念仏をすることは、阿弥陀如来の教化の一部分を担うことになる。これを仏化助成という。いずれも称名をするということは、阿弥陀如来に対する感謝の念仏であり、それが報恩の念仏とされる。報恩行は第十八願に説かれる他力念仏であって、第二十願に説かれる自力念仏ではない(仏教知識「生因三願」の「行信」「三願真仮」参照)。往生するために念仏をするというのは自力の念仏であるから、宗祖親鸞はこれらを戒めている。しかし数え切れないほど念仏を称え励んでも、自力でどうにかしようとするこころがなければ自力の念仏にはあてはまらない。あくまでも自然なながれとして信心が起きてから念仏を称えるということが一番大事である。
龍樹菩薩、道綽禅師から親鸞聖人への称名報恩の展開
親鸞は七高僧の著述から、称名報恩へと繋がっていく文を引用している。ここではその一部を示す。真宗七高僧第一祖龍樹菩薩が著した『十住毘婆沙論』「易行品」には次のように述べられる。親鸞は『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)「行文類」(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.153)にこれを引用した。
人よくこの仏の無量力威徳を念ずれば、即時に必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.16より)
この文は「本願成就文」のことをあらわしている(仏教知識「本願成就文」参照)。本願成就文とはこの私がどのようにすれば救われるのかということが示されている文である。「この仏の無量力威徳を念ずれば、」という意味が本願成就文に説かれている「聞其名號信心歓喜(その名号のいわれを聞いて信心歓喜する)」にあてはまり、「即時に必定に入る」が「即得往生住不退轉(たちどころに往生すべき身に定まり、不退の位に入るのである)」にあてはまると考えられる(括弧内は『聖典意訳 教行信証』P.100より引用)。
また、真宗七高僧第四祖道綽禅師が著した『安楽集』には次のように述べられる。親鸞は『教行信証』「信文類」(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.259)にこれを引用した。
『大智度論』によるに三番の解釈あり。「第一に仏はこれ無上法王にして、菩薩は法臣たり。尊ぶところ重くするところはただ仏世尊なり。このゆゑにまさにつねに念仏すべし。第二にもろもろの菩薩ありてみづからいはく、〈われ曠劫よりこのかた、世尊の長養を蒙ることを得たり。われらが法身・智身・大慈悲身、禅定・智慧、無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんと願ず。また大臣、王の恩寵を蒙りて、つねにその主を念ふがごとし〉と。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.251-252より、下線は筆者が引いた)
この文は仏を敬い讃え念仏をすることである。道綽禅師は『安楽集』において龍樹菩薩の『大智度論』より念仏の意義が報恩として示されていることをあらわした。
これを承けて親鸞は龍樹菩薩の著した「易行品」の「このゆゑにわれつねに念じたてまつる。」という文を報恩行だと解釈した。親鸞は「正信念仏偈」(本願寺の晨朝勤行に依用される『教行信証』)「行文類」に記載される)の依経段「龍樹章」にて
憶念弥陀仏本願
阿弥陀如来の本願を憶念うとき、自然即時入必定
おのずから、即に、仏となることが定まる身となる。唯能常称如来号
[だから]唯だ常に声に出して念仏し、応報大悲弘誓恩
[阿弥陀如来の]大慈悲の御恩に感謝すべきである。(『日常勤行聖典 解説と聖典意訳』 P.22より)
と述べた。「唯能常称如来号、応報大悲弘誓恩」これこそが親鸞が解釈した称名報恩である。
親鸞滅後
後に親鸞のひ孫である本願寺第三代覚如(仏教知識「覚如①」「覚如②」参照)は「信心正因」・「称名報恩」を親鸞の教えの要として提唱していく。覚如は「信心正因」・「称名報恩」を一対のものとして考えた。これは「信因称報説」と呼ばれるものである。これにより時間的に第十八願の信心が先に来て称名が後から来ることをあらわした。覚如は親鸞の御影(※1)を修復する際に、上に記載した「憶念弥陀仏本願」から「応報大悲弘誓恩」の四句を御影上部に新しく一筆入れた。この四句は覚如にとって「正信念仏偈」の中核であると考えられ、これにより内外に教義の最も大事なことであることを示した。
第十八願文と第十八願成就文(本願成就文)の解釈
覚如は信因称報を主張するために真宗七高僧第五祖善導大師や親鸞の解釈を発展させた。第十八願文には「乃至十念」(仏教知識「六字釈 (1)」、「六字釈 (2)」、「本願成就文」参照)が誓われている。称名には一念(一声)と多念(多声)があるとされていたところを善導は第十八願文の「乃至十念」を「下十声」(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.711 より)とした。その解釈は「ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。」(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.659より)として、「乃至十念」を「上尽一形」と「下至十念」と言い換えた。称名は上は一形(一生涯)を尽し、下は十念に至るまでという意味がある。もともと乃至は数の限りを定めない意味であり、たとえ一声(一念)でも往生に繋がる業因となるとした。これは念仏の多念相続をあらわした一方で一声の念仏で往生は可能であるということをあらわした。
善導は「下至一念」を「乃至十念」が究極に促まった「行の一念(※2)」としたが、覚如はこれを「信の一念(※3)」と再解釈した。これは親鸞の『教行信証』「信巻」に、
それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.250より)
【現代語訳】
さて、本願の信楽について考えてみると、この信楽に一念がある。一念というのは、これは信心がおこった時刻のきわまり、すなわち最初の時をあらわすのである。その心は広大難思の徳をそなえている信心(しんじん)である。(『聖典意訳 教行信証』P.144より)
という「本願成就文」の「乃至一念」が「信の一念」であるという解釈を承けたものである。つまり、本願をありがたく疑心無く受け入れたその時に信心が生まれ、往生が決定するとした。
「弥勒付属の文」の解釈
また、親鸞が「行の一念」と解釈した「弥勒付属の文」は、
それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.81より)
【意訳】
もし、かの仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一たびでも念仏すれば、まさにこの人は、他に比べることのできぬ大きな利益をいただくのである。(『聖典意訳 浄土三部経』P.110より)
とあるが、覚如はここの「乃至一念」も「信の一念」と解釈した。本願成就文には
その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.41より)
【意訳】
その名号のいわれを聞いて信心歓喜する一念のとき、それは、仏の至心から与えられたものであるから、浄土を願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退の位に入るのである。(『聖典意訳 浄土三部経』P.55より)
とある。ここの「乃至一念」と弥勒付属の文の「乃至一念」を同じものであるとして考え、「乃至一念」を多念が究極に促まった信の一念とした。また信心をいただいた後の称名は最初の一声であっても信心が具わった第二念とした。ゆえに一声でも万を超える称名でもすべてを多念相続の相(生涯、称名念仏をし続けるすがた)とした。
覚如はわたしたちが本願をいただくすがたを信は一念、行は多念相続、信心は正因であり称名は報恩になるということを明確にした。このことは後の本願寺第八代蓮如にも広く受け継がれていく。特に蓮如が作成した『御文章』においては称名報恩という語句は多数使われている。
語注
- ※1 御影
- 祖師や先師などの影像に対する尊称。肖像のこと。
- ※2 行の一念
- 一声の称名念仏のこと。親鸞はこの一念には信心をいただいた後の最初の称名である遍数の一念と、ただ念仏して他の行を並べ修さない行相の一念という二つの意味があるとした。
- ※3 信の一念
- 信心が開け発った最初の時のこと。この一念には時剋の一念(乃至一念)と阿弥陀如来の救いを疑心なく信じるという信相の一念という二つの意味がある。
参考文献
[2] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 2000年)
[4] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[5] 『親鸞聖人の教え』(勧学寮 本願寺出版社 2018年)
[6] 『新編 安心論題綱要』(勧学寮 編 本願寺出版社 2020年)
[7] 『安心論題を学ぶ』(内藤知康 本願寺出版社 2018年)
[8] 『真宗の教義と安心』(勧学寮 本願寺出版社 1998年)
[9] 『聖典セミナー 口伝鈔』(梯實圓 本願寺出版社 2010年)
[10] 『聖典セミナー 教行信証 信の巻』(梯實圓 本願寺出版社 2013年)
[11] 『聖典セミナー 浄土三部経Ⅰ 無量寿経』(稲城選恵 本願寺出版社 2009年)
[12] 『聖典セミナー 選択本願念仏集』(浅井成海 本願寺出版社 2017年)
[13] 『聖典意訳 浄土三部経』(大遠忌記念聖典意訳編纂委員会 浄土真宗本願寺派出版部 1984年)
[14] 『日常勤行聖典 解説と聖典意訳』(豊原大成 自照社出版 2019年)
[15] 『聖典意訳 教行信証』(浄土真宗本願寺派総長 浄土真宗本願寺派出版部 1983年)