覚如②
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本願寺建立から後世への執筆
覚如は唯善が破壊した廟堂を再建することから留守職の務めを始め、長男存覚とともに全国に布教に出た。次なる覚如の狙いはこの廟堂を寺院化すること、徹底した親鸞の教えを伝えていくことであった。
1314年(正和3)覚如は先の唯善との争いから門弟からの猜疑心もあり存覚に留守職を譲りたかったが存覚は断った。四十五歳の覚如は病気になりがちであった。12月25日存覚は留守職を継職した。廟堂修繕などで経済事情は厳しく、門弟も離れてしまい覚如は院政的立場を選び存覚を前に出すことによって好転を狙っていた。留守職が代わり覚如は存覚とともに東海、信州へ布教に参った。1320年(元応2)に興正寺を開創した空性房了源が門下になる。翌年、廟堂は修復されこの堂を本願寺とあらためた。
1326年(嘉暦1)に『執持鈔』を著し、これにより親鸞の教義が善導、源空(法然)の二師の法脈を継承していることを示した。また1331年(元弘1)親鸞、如信、覚如の三代伝持の血脈を強調した『口伝鈔』を書いた。覚如は留守職を務める者の血統につよくこだわっていた。さらに1337年(建武4)『口伝鈔』をさらに強調した『改邪鈔』も著した。これらの鈔ではいずれも親鸞の血統である血脈が強調されており、それは最初の『報恩講私記』や『親鸞伝絵』から変わることはなかった。
覚如、存覚を義絶する
1322年(元亨2)6月25日覚如は存覚を義絶した。この件に関しては現在もはっきりとした理由はわかっていなく多くの見解がある。法義説、感情説、留守職問題説、間諜説と様々な要因がある。
覚如長男存覚
そもそも存覚は1302年(乾元1)十三歳のころ密教を学び東大寺(華厳宗)で得度した。十五歳のころ青蓮院の坊舎に入室し『法華経』を学び十八歳のころ比叡山横川にて法華八講を学んだ。そこから樋口安養寺、阿日房彰空よりはじめて浄土経典を学ぶ。以後は覚如と唯善の争いも支える形として従事していた。興正寺の了源は存覚より浄土真宗を学んだ。存覚は義絶後に大谷から近江瓜生津、東国、1323年(元亨3)5月には山科の興正寺にいた。興正寺は覚如が名付けた寺号であったがその後存覚が仏光寺とあらためた。この一年後仏光寺は山科から渋谷に移転する。1331年(元亨1)正月、存覚は関東へ行った。仏光寺が火災のため困窮していたから助けを求めた。東国には二年半滞在した。
一方覚如は1336年(建武3)南北朝の動乱を避けるため大谷から瓜生津へ避難した。この動乱で大谷の御影堂、親鸞影像は焼失した。翌年覚如は西山の久遠寺へ、存覚は備後に居た。翌年備後で法華宗徒と宗論が行われ存覚が論破した。このことによって真宗がこの地域でより一層興隆し、覚如は存覚の義絶を解消した。
二度の義絶も最後は和解
義絶から16年の年月が過ぎ去っていた。建武3年の戦火から2年、1338年(暦応1)大谷の堂舎を再建した。表面的ではあるが覚如と存覚はまた同じ大谷の地で暮らすことになった。覚如は腹の底では存覚を信用していなかった。覚如は自分の死後に存覚を留守職にする気は毛頭無く存覚の弟である従覚や幼い光養丸(善如)に期待をしていた。
1341年(康永1)覚如は再度存覚を義絶した。存覚自身に変わった動きはなかったことから覚如の計画通りの動きとなった。門弟たちは覚如に何度も義絶を解くように申し出たが、覚如は首を縦に振ることはなかった。時はすでに覚如八十歳手前、存覚六十歳手前であった。
1349年(貞和5)存覚は義絶を解消する目的で六条大宮に住んでいた。様々なはたらきにより1350年(観応1)八月五日覚如は存覚を許す書状を書いた。しかし義絶を解いても本願寺の職務には一切関わらせない形をとった。この年の十一月に善如を正式に後継者と決め、二ヶ月後亡くなった。覚如の墓は現在の西山別院境内にある。覚如の死後、蓮如が誕生する時代まで本願寺は厳しい時代を過ごすことになる。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『絵物語 親鸞聖人御絵伝 -絵で見るご生涯とご事蹟-』(本願寺出版社 2015年)
[4] 『親鸞とその家族』(今井雅晴 自照社出版 1998年)
[5] 『親鸞聖人の家族と絆』(今井雅晴 自照社出版 2014年)
[6] 『親鸞と如信』(今井雅晴 自照社出版 2008年)
[7] 『覚如』(重松明久 吉川弘文館 1962年)
[8] 『浄土真宗本願寺派 法式規範(改訂版)』(浄土真宗本願寺派 勤式指導所 本願寺出版社 1999年)