覚如①

【かくにょ 1】

覚如 (1270-1351) 浄土真宗の僧侶。本願寺四祖しその一人。

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誕生

覚如は1270年(文永ぶんえい7)に宗祖親鸞しんらん末娘すえむすめ覚信尼かくしんにの子である覚恵かくえの長男として生まれた。親鸞の曽孫ひまごであり親鸞が亡くなった8年後に誕生した。幼名は光仙こうせん、諱は宗昭しゅうしょうである。幼い頃に母を亡くし、幼少期に大谷廟堂おおたにびょうどうの近くに住む慈信房じしんぼう澄海ちょうかいより仏教を学ぶ。澄海は天台の学侶がくりょであったが浄土門に入る。覚如は幼い頃から聖道門しょうどうもん、浄土門の両門を学んだ。またこの時代、本願寺という言葉は無く、大谷廟堂や親鸞廟堂しんらんびょうどうという名称であった。

修学時代

1282年(弘安こうあん5)夏の頃、下河原しもがわら禅房ぜんぼうかまえていた宗澄しゅうちょうから天台てんだい教義きょうぎを学んだ。宗澄のもとで研鑽けんさんしていた覚如であったが、1283年(弘安6)覚如が十四歳の頃、宗澄が比叡山ひえいざんに出向した最中に誘拐された。誘拐をしたのは三井みい園城寺おんじょうじ南滝院なんりゅういんの右大臣僧浄珍じょうちんであった。うたげの席で覚如の噂を聞いた浄珍は自分の元に置きたく、誘拐の案を言い出した。酒の場であったとはいえ浄珍の部下たちは武装して下河原に行き覚如を拉致らちした。これを知った宗澄は慌てて下山したが、時すでに遅し。宗澄は奪還を考えるが、延暦寺、園城寺の確執に繋がると判断しこの件は一切を他言無用としあきらめた。覚如は浄珍から寵愛ちょうあいを受け、連日遊宴の生活を過ごし学問はほとんど無かった。さらに覚如の噂を耳にした奈良の興福寺こうふくじ一条院いちじょういんの門主信昭しんしょうが覚如を獲得する動きをみせ、浄珍から信昭の元に行った覚如であった。まもなく信昭は亡くなった。信昭の弟子覚昭かくしょう給仕きゅうじすることになった。

こうして1286年(弘安9)興福寺一条院にて得度し、覚如かくにょぼう宗昭しゅうしょうとあらためた。奈良で法相宗ほっそうしゅうを学びつつ浄土門に対する関心も増えてきた。1287年(弘安10)11月19日覚如が十八歳の時、親鸞の孫である二代宗主如信にょしんより浄土真宗の教えを学び弟子となる。その後、覚恵と関東へ布教に参り奈良には行かず東山大谷に居住した。

存覚誕生、修学期後半

1290年(正応しょうおう3)二十一歳の頃、最初の妻である播磨局はりまのつぼねとの間に長男の存覚ぞんかくが生まれる。1292年(正応5)樋口安養寺、にちぼう彰空しょうくうを師として浄土宗じょうどしゅう西山せいざんを学び、善導大師ぜんどうだいしの「五部九巻ごぶくかん」、曇鸞大師どんらんだいしの『往生論註おうじょうろんちゅう』などを学ぶ。覚如は西山義のながれを強く受けており後に誕生する長男存覚もまた同じであった。こうして二十代前半まで聖道門、浄土門の両門を学んだ。

1294年(永仁えいにん2)二十五歳の時に親鸞の三十三回忌法要を勤修ごんしゅし、現在の本願寺報恩講一月十六日に依用えようされる報恩講作法内の報恩講ほうおんこう私記しき報恩講ほうおんこうしき)はこの時に作られた。報恩講私記とは親鸞の一代記である。翌年には親鸞聖人伝絵の制作に入る。

大谷廟堂留守るすしき

1299年(承安じょうあん1)覚如が三十歳の頃、大谷廟堂留守職をめぐる内紛が起こった。留守職とは廟堂の鍵を持つ代表者である。覚恵の異父弟いふていである唯善ゆいぜんは覚恵ではなく自分が留守職に相応ふさわしいと主張してきたのであった。唯善は常陸国ひたちのくにに居たが、生活が困窮していたため、覚恵が大谷に呼び同居していた。大谷廟堂は覚信尼の子孫が門弟の同意のもと管理されることが決められていた。

1283年(弘安こうあん6)覚信尼は自分の死期を悟り廟堂の管理を覚恵にゆずる書状を東国の門弟に送った。この書状を書いたのは唯善であった。覚恵四十八歳、唯善十八歳、覚如は十四歳の頃であった。ある時、大谷の土地を拡張するにあたり澄海の土地を継承した子である良海りょうかいが大谷に土地を売ることになった。そこで土地の権利宛名あてなを誰にするかという問題があった。唯善でよいのでは?という声も少々あったが覚恵は一個人より門弟もんていちゅうとすれば争いもなく覚信尼の願いにもあてはまるであろうと述べたが唯善は立腹した。こののち唯善は境内けいだいに住み着き、各国の門弟も廟堂参詣さんけいをして北殿の覚恵から南殿の唯善に訪れたという。

唯善が1301年(しょうあん3)南殿に居住し5年のころ、覚恵は山形より上京した導信どうしんから次のことを聞く。唯善が父禅念ぜんねんからの譲状ゆずりじょうがあり大谷廟堂の所有権を唯善に認証する院宣いんぜんをだすよう暗躍しているとのことであった。すでに院宣は実施されており、覚恵は朝廷に譲状は偽物であると主張した。結果的に廟堂の管理は覚信尼の願い通り従来に戻ったが唯善の行いはまだ終わらなかった。1303年(嘉元かげん1)踊り念仏の勢いが止まらない時宗を幕府が弾圧したとき、唯善は幕府に莫大なお金を投じ安堵あんどじょうを得た。ここでも唯善は幕府に対して大谷廟堂の継承者であることを主張している。

1306年(徳治とくじ1)覚恵は病にかかっていた。そこへ唯善は直接大谷廟堂を奪取する行動に出た。覚恵はついに大谷を出て覚如の妻の実家に移り翌年に亡くなった。唯善は大谷を乗っ取り、それまで管理していた門弟たちを押しのけて比叡山の僧や検非違使けびいし(現在で言う軍事、警察組織)などの役人が出入りし門弟も困っていた。覚如も策を練るが、唯善は青蓮院しょうれんいんまで取り込んだため覚如も手が全く出なかった。

結果10年以上の歳月を費やす

この騒動を沈静するにあたり1309年(延慶えんきょう2)七月上旬青蓮院において唯善と直接対決した。青蓮院が出した裁決は覚信尼の意志に沿い廟堂の代表を選ぶのは門弟の自由であるとした。唯善は負けることを先読みして親鸞の影像えいぞうや遺骨を奪い廟堂を破壊し京都を逃げ、鎌倉の常葉ときわ(現在の常磐)へたどり着き堂を建立し親鸞の木像を安置した。唯善が逃亡して門弟たちに大谷に移住したい旨を伝えたが、事件の当事者であったためいったん保留とした。覚如は青蓮院の裁決が下った数日後門弟たちに懇望こんもうじょうを送っていた。内容は覚如が廟堂の代表(すなわち留守職)を務めること、僧として当然の行いをすること、唯善とは同じことを決してしないこと。など平身低頭なものであった。覚如自身も唯善の乗っ取り以降各所を転々とし、留守職に対する切実な思いも伝わる。1310年(延慶3)秋のころ、苦難の末ついに留守職に就いた。四十一歳のことであった。

参考文献

[1] 『聖典セミナー 親鸞聖人絵伝』(平松令三 本願寺出版社 1997年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『絵物語 親鸞聖人御絵伝 -絵で見るご生涯とご事蹟-』(本願寺出版社 2015年)
[4] 『親鸞とその家族』(今井雅晴 自照社出版 1998年)
[5] 『親鸞聖人の家族と絆』(今井雅晴 自照社出版 2014年)
[6] 『親鸞と如信』(今井雅晴 自照社出版 2008年)
[7] 『覚如』(重松明久 吉川弘文館 1962年)
[8] 『浄土真宗本願寺派 法式規範(改訂版)』(浄土真宗本願寺派 勤式指導所 本願寺出版社 1999年)

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