唯信鈔文意 (9)

【ゆいしんしょうもんい 09】

ここからは、『唯信鈔文意』本文の最後と奥書おくがきである。まずは「乃至ないし一念いちねん にゃく不生者ふしょうじゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく」「ひごん非実ひじつ」「具足ぐそくじゅうねん しょう南無なも無量むりょう寿仏じゅぶつ しょう仏名ぶつみょう ねん念中ねんちゅう じょ八十はちじゅう億劫おくこう しょうざい」について解説する。それぞれのしゅっは以下の通りである。

① 「乃至ないし一念いちねん にゃく不生者ふしょうじゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく

『仏説無量寿経』(以下 『大経』)「第十八願文」

② 「非権ひごん非実ひじつ

唯信鈔ゆいしんしょう』「異義いぎ批判」十念に対するもの(仏教知識「唯信鈔 前編」参照)

③ 「具足ぐそくじゅうねん しょう南無なも無量むりょう寿仏じゅぶつ しょう仏名ぶつみょう ねん念中ねんちゅう じょ八十はちじゅう億劫おくこう しょうざい

『仏説観無量寿経』(以下 『観経』)「下々げげぼん

『唯信鈔』では、『だいきょう』「だいじゅうはちがんもん」「ないじゅうねん」についてのほうねんきょうへの異義いぎを批判している。すなわち「十念」とは念仏を口に称える「しょうみょう」ではなく、しょうどうもんにおいて行われる、にょらいごくらくじょうかんざつするかん(※1)とよばれるものであるという異義である。これらの異義を否定するために、「さんしんしゃく」を展開した上で「じゅうねんしゃく」が施されている。『唯信鈔文意』もこれにならい、前段で「三心釈」を展開して、ここでは「十念」について解釈をしたものである。

① 「乃至ないし一念いちねん にゃく不生者ふしょうじゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく

乃至ないしじゅうねん にゃく不生者ふしょうじゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく」(大経・上)といふは、選択せんじゃく本願ほんがん(第十八願)のもんなり。このもんのこころは、「乃至ないしじゅうねんなをとなへんもの、もしわがくににうまれずはぶつらじ」とちかひたまへる本願ほんがんなり。「乃至ないし」はかみしもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることばなり。ねんにとどまるこころをやめ、一念いちねんにとどまるこころをとどめんがために、法蔵ほうぞう菩薩ぼさつがんじましますおんちかひなり。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.715-716より)

【親鸞の語句註釈】

  • 乃至→かみしも・おほきすくなき・ちかきとほきひさしき

【現代語訳】

乃至ないしじゅうねん にゃく不生者ふしょうじゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく(乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじ)」というのは、『無量寿経むりょうじゅきょう』にかれている選択せんじゃく本願ほんがんもんである。このもん意味いみは、「乃至ないしじゅうねん名号みょうごうとなえるものが、もしわたしのくにうまれないようなら、わたしはほとけにならない」とおちかいになった本願ほんがんということなのである。「乃至ないし」とは、うえしたも、おおいもすくないも、みじかあいだながあいだも、すべてみなふくめてしめ言葉ことばである。これは、多念たねんにとらわれるこころをやめさせ、また一念いちねんにとらわれるこころしとどめるために、法蔵ほうぞう菩薩ぼさつがおたてになった誓願せいがんなのである。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.34-35より)

まずは、『大経』「第十八願文」を引用しながら、「十念」が念仏を称えることであり、「乃至」とは、「上」「下」「多い」「少ない」「短い間」「長い間」のすべてを含む言葉であるとする。つまり、「乃至一念」の称名は、ほんがんりきによるものであるから、数の多少や時間の長短にとらわれないものであるとして、称名に「ねん」「一念いちねん」のとらわれがあってはならないと示している。

② 「非権ひごん非実ひじつ

非権ひごん非実ひじつ」(唯信鈔)といふは、法華宗ほっけしゅうのをしへなり。浄土じょうど真宗しんしゅうのこころにあらず、しょう道家どうけのこころなり。かのしゅうのひとにたづぬべし。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.716より)

【親鸞の語句註釈】

  • 非権非実 → 法華宗のをしえ・聖道家のこころ

【現代語訳】
非権ひごん非実ひじつ」というのは、天台宗てんだいしゅうおしえである。往生おうじょう浄土じょうど真意しんいあきらかにしたものではなく、しょう道門どうもんかんがかたである。天台宗てんだいしゅうかたたずねなさい。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.35より)

ここでは、「十念」が阿弥陀如来や極楽浄土を観察することであるとする「非権非実」(天台宗の教え)の例を出し、これは、往生浄土の真意を明らかにした法然の教義からは異義であると批判をしている。

③ 「具足ぐそくじゅうねん しょう南無なも無量むりょう寿仏じゅぶつ しょう仏名ぶつみょう ねん念中ねんちゅう じょ八十はちじゅう億劫おくこう しょうざい

にょにゃく不能ふのうねん」(観経)といふは、ぎゃくじゅうあく罪人ざいにん不浄ふじょう説法せっぽうのもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀みだねんじたてまつらずは、ただくち南無なも阿弥陀仏あみだぶつととなへよとすすめたまへるのりなり。これは称名しょうみょう本願ほんがんちかひたまへることをあらはさんとなり。「応称おうしょう無量むりょう寿仏じゅぶつ」(観経)とのべたまへるはこのこころなり。「応称おうしょう」はとなふべしとなり。

具足ぐそくじゅうねん しょう南無なも無量むりょう寿仏じゅぶつ しょう仏名ぶつみょう 於念々中おねんねんちゅう じょ八十はちじゅう億劫おくこう しょうざい」(観経)といふは、ぎゃく罪人ざいにんはそのつみをもてること、はちじゅうおくこうつみをもてるゆゑに、じゅうねん南無なも阿弥陀仏あみだぶつととなふべしとすすめたまへるのりなり。一念いちねんはちじゅうおくこうつみすまじきにはあらねども、ぎゃくつみのおもきほどをしらせんがためなり。「じゅうねん」といふは、ただくち十返じっぺんをとなふべしとなり。しかれば選択せんじゃく本願ほんがん(第十八願)には、「にゃく成仏じょうぶつ 十方じっぽう衆生しゅじょう しょう名号みょうごう じっしょう にゃく不生者ふしょうじゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく」(礼讃)ともうすは、弥陀みだ本願ほんがんは、とこゑまでの衆生しゅじょうみなおうじょうすとしらせんとおぼして十声じっしょうとのたまへるなり。ねんしょうとはひとつこころなりとしるべしとなり。ねんをはなれたるしょうなし、しょうをはなれたるねんなしとなり。

 このもんどものこころは、おもふほどはもうさず、よからんひとにたづぬべし。ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.716-717より)

【親鸞の語句註釈】

  • 応称 → となふべし
  • 念 → 声

【現代語訳】
 『かんりょう寿じゅきょう』に「にょにゃく不能ふのうねん(なんぢもし念ずるあたはずは)」とかれているのは、ぎゃくじゅうあくつみおかしたひとや、私利しり私欲しよくのためにおしえをいたものが、やまいくるしみにはばまれて、こころぶつねんじることができなければ、ただくちに「南無なも阿弥陀仏あみだぶつ」ととなえよとおすすめになっているおことである。これは称名しょうみょう念仏ねんぶつ本願ほんがんぎょうとしておちかいになっていることをあらわそうとされているのである。つづいて「応称おうしょう無量むりょう寿じゅぶつ(まさに無量寿仏を称すべし)」とかれているのは、この意味いみである。「応称おうしょう」は、となえよということである。

 『かんりょう寿じゅきょう』に「具足ぐそくじゅうねん しょう南無なも無量むりょう寿じゅぶつ しょう仏名ぶつみょう ねんじゅう じょ八十はちじゅう億劫おくこう しょうざい(十念を具足して南無無量寿仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く)」とかれているのは、ぎゃくつみおかしたひとはその八十はちじゅう億劫おくこう十倍じゅうばいつみをもつことになるので、十回じっかい南無なも阿弥陀仏あみだぶつ」ととなえよとおすすめになっているお言葉ことばである。一回いっかい念仏ねんぶつ八十はちじゅう億劫おくこう十倍じゅうばいつみすことができないのではないけれども、ぎゃくつみがどれほどおもいのかを人々ひとびとらせるために、このようにいわれているのである。「じゅうねん」というのは、ただくち念仏ねんぶつ十回じっかいとなえよというのである。このようなわけで、選択せんじゃく本願ほんがんに「にゃく成仏じょうぶつ 十方じっぽう衆生しゅじょう しょう名号みょうごう 下至げし十声じっしょう にゃくしょうじゃ 不取ふしゅ正覚しょうがく(もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生まれずは正覚を取らじ)」とちかわれていると『往生おうじょう礼讃らいさん』にいわれているのは、阿弥陀仏あみだぶつ本願ほんがんは、念仏ねんぶつするのがたとえ十回じっかいほどであっても、みな浄土じょうど往生おうじょうすることができることをらせようと善導ぜんどう大師だいしがおおもいになって、「十声じっしょう」といわれているのである。「ねん」と「しょう」とはおな意味いみであると心得こころえなさいというのである。「ねん」をはなれた「しょう」はなく、「しょう」をはなれた「ねん」はないということである。

 これらのもん意味いみは、十分じゅうぶんにいいあらわすことができていないけれども、浄土じょうどおしえをよくっているひとたずねていただきたい。またくわしいことは、これらのもんによっておかんがえいただきたい。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.35-38より)

聖覚せいかくは『唯信鈔』において本願の「乃至十念」がおくねん(※2)ではなく称名念仏であることを『かんぎょう』「ぼん」によって明らかにするが、ここはそれを承けての解説である。親鸞は善導の『かん無量むりょう寿じゅきょうしょ』「さんぜん」の解釈を承けて、『観経』ではぎゃくじゅうあくの罪を犯した者(「下々品」)や、私利私欲のために教えを説いた者(「ちゅうぼん」)が阿弥陀如来を憶念(心に念ずること)することは不可能であるとして、そのような者はただ口に南無阿弥陀仏を称えよと称名念仏がすすめられているのだとする。だから「具足十念」の十念は憶念ではなく称名であると改めての確認である。ここで親鸞は、「しょうぶつ」とある『観経』の原文とは違う「しょうりょう寿じゅぶつ」との書き換えをしているが、これは、先ほどの「応称無量寿仏」に対応をさせて、同じ意味であることを示したものと考えられる。また同じく善導が『おうじょうらいさん』において本願を「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と記したことより、これはたとえ十回ほどの称名であっても浄土に往生することができるという思いを示したものであるとしている。最後に法然が『せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』「ほんがんしょう」で善導のこれらの解釈を承けて、ねんしょうは一つのこころであるとしているところから、「十念」が憶念ではなく称名念仏であるとして、このことを繰り返し確認している。

奥書

 南無なも阿弥陀仏あみだぶつ

 ゐなかのひとびとの、文字もんじのこころもしらず、あさましき愚痴ぐちきはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしとりかへしきつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢにおろかなるものをこころえやすからんとてしるせるなり。

 康元こうげん二歳にさい正月しょうがつ二十七日にじゅうしちにち 禿とく親鸞しんらん八十五歳はちじゅうごさいこれをしょしゃす。

(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.717-718より)

【現代語訳】
 南無なも阿弥陀仏あみだぶつ

 みやこからとおはなれたところに人々ひとびとは、仏教ぶっきょう言葉ことば意味いみもわからず、おしえについてもまったく無知むちなのである。だから、そのような人々ひとびとにもやさしく理解りかいしてもらおうとおもい、おなじことを何度なんどかえかえきつけたのである。ものの道理どうりをわきまえているひとは、おかしくおもうだろうし、あざけりわらうこともあるだろう。しかし、そのように世間せけんひとからそしられることもにかけず、ただひたすらおしえについて無知むち人々ひとびと理解りかいしやすいようにとおもって、うつしたのである。

 康元こうげん二年にねん一月いちがつ二十七日にじゅうしちにち禿とく親鸞しんらん八十五歳はちじゅうごさい、これをうつす。

(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.38-39より)

この奥書は、『いちねんねんもん』(※3)の奥書とほぼ同文となる。『唯信鈔文意』がやや先行すると考えられるが、同時期に執筆されたものであり、また法然の教義がゆがめられて伝わっていることをなげき悲しむことが執筆の動機であることから、これらの「奥書」が同文となっても不思議ではない。また、法然教団の先輩であった、聖覚・りゅうかん(※4)の書物の解説の形をとったということは、法然の教えを取り違えているとの親鸞への批判をかわすという同じ目的が二つの書物にあったのではないかと考えられる。

「いなかのひとびと」との記載には、親鸞が自らを「みやこのひと」の立場として執筆したのだという批判もあるが、本文に「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」(仏教知識「唯信鈔文意 (5)」参照)とあることからこの批判は当てはまらないだろう。承元じょうげん法難ほうなん(※5)により、一罪人となった親鸞が「文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなき」人びとと共に生きてきたことがそのことを示している。この「むすび」にある「あざけりをなす」のは社会的底辺に沈められてきたものを除外してきた人びとである。つまり法然が説いた念仏の教えは、そのような救いの対象から除外されてきた「われわれ」のための教えであるとの力強い思いが隠れているのである。

※1 理観
しんかんざつ(心に思い浮かべて見ること)すること。ここでは、阿弥陀如来や極楽浄土が観察の対象となる。
※2 憶念
浄土真宗では「阿弥陀如来の本願を信じること」として使用されることが多いが、ここでは、心に思いたもち念じることであり、精神を集中して行う自力である。
※3 『一念多念文意』
一巻。親鸞が著した。隆寛の『いちねんねんふんべつのこと』(一巻)をうけて、この書の註釈とともに、専修せんじゅ念仏ねんぶつは一念多念のいずれにも偏らないことを明らかにしたもの。
※4 隆寛
浄土宗の僧侶(1148~1227)。藤原すけたかの子。はじめは天台宗に属したが、後に法然の弟子となり法然教団で指導的立場となった。『選択本願念仏集』の批判書『だんせんじゃく』(じょうしょう)に反論する『けんせんじゃく』を著した。これをきっかけに「ろく法難ほうなん」(1227年)が始まり、流罪となった。著書に『りきりきのこと』『いちねんねんふんべつのこと』など。浄土宗ちょうらくりゅうの祖。
※5 承元の法難
1207(けんえい2)年に法然の吉水教団に加えられた宗教弾圧。「健永の法難」とも。えんりゃくこうふくからちょうていに「専修念仏ちょう」の訴えが繰り返される中、じょうこう女房にょうぼう(この場合上皇に仕える女官)たちが吉水教団の法要に上皇に無断で参加したことにより(諸説あり)、上皇がげきこう(激しく怒る)してこの弾圧が行われた。ぜんしゃくしょうがんじゅうれん安楽あんらくの4名が死罪。法然、親鸞、こう西さいしょうくうら8名が流罪。ただし、幸西と証空はぜんてんだいえんが身柄を預かることで、しょけいまぬかれた。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)
[10] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)

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浄土真宗の宗祖。鎌倉時代の僧侶。浄土宗の宗祖である法然の弟子。
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