唯信鈔 後編
親鸞への影響
まず、『唯信鈔』の聖覚自筆本は現在見つかっていないが、この書を現代の私たちが知ることができるのは、親鸞の書写本によるものである。これは、聖覚から親鸞へ「草本」(下書き、原稿)が贈られたものを親鸞がたびたび書写したことによるものである。以下にこれら書写(真蹟またはその書写)の年代が確認できるものを挙げる。
(1) | 前橋妙安寺本 | 1230(寛喜2)年5月25日(58歳) |
(2) | 専修寺真蹟ひらがな本 | 1235(文暦2)年6月19日(63歳) |
(3) | 堺真宗寺本 | 1241(仁治2)年10月14日(69歳) |
(4) | 美濃専精寺本 | 1241(仁治2)年10月19日(69歳) |
(5) | 専修寺顕智書写本 | 1246(寛元4)年3月14日(74歳) |
(6) | 恵空写伝本 | 1254(建長6)年2月(82歳) |
(7) | 専修寺信証本 | 1257(康元2)年正月(85歳) |
これ以外にも、日時は不明ながら、「西本願寺本」「東本願寺本」などがある。
親鸞は、これらを関東の門弟に「法然聖人の正しい教えが書かれたふみ」として送っていた。また、この『唯信鈔』の註釈書である『唯信鈔文意』(※1)も著した。
さて、『唯信鈔』は基本的には法然の『選択集』をわかりやすくしたものではあるが、聖覚独自の教学も垣間見ることができる。例えば念仏往生について、『仏説無量寿経』の「第十七願」と「第十八願」の二願を重視する。『唯信鈔』には、
これによりて一切の善悪の凡夫ひとしく生れ、ともにねがはしめんがために、ただ阿弥陀の三字の名号をとなへんを往生極楽の別因とせんと、五劫のあひだふかくこのことを思惟しをはりて、まづ第十七に諸仏にわが名字を称揚せられんといふ願をおこしたまへり。この願ふかくこれをこころうべし。名号をもつてあまねく衆生をみちびかんとおぼしめすゆゑに、かつがつ名号をほめられんと誓ひたまへるなり。しからずは、仏の御こころに名誉をねがふべからず。諸仏にほめられてなにの要かあらん。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1340-1341より引用)
【現代語訳】
そこで、法蔵菩薩は一切の善悪の凡夫を等しく仏の世界に生まれさせ、ともにその国へ生まれることを願わせるために、阿弥陀という三字の名号を称えることを、極楽に往生することの別因となさったのです。五劫のあいだ深くこのことを思惟(思索)し終えて、四十八の本願をお建てになりました。その第十七の誓いとして、すべての仏に我が名を讃め称えられたいという本願を発されました。この願は深くこころえてほしい。名号ひとつで広くすべての衆生をみちびかんと思われたので、やむなく我が名をほめられようとお誓いになったのです。仏のみこころにどうして名誉を願われることがありましょうか。また、諸仏にほめられる何の必要がありましょうか。(『唯信鈔文意講義』P.194より引用)
と「第十七願」にも注目をする。これは「第十八願」を最も重要な「王本願」(『選択集』)として、その他の四十七願を枝末(主要ではないこと)の願とする法然の教えを転じていったものといえる(仏教知識「四十八願」「法然の解釈」参照)。
親鸞はこれを承けて、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』では、「第十七願」をこれまでの高僧たちが示した「諸仏称揚の願」「諸仏称名の願」「諸仏咨嗟の願」と願名を挙げた上で、親鸞独自の願名である「往相回向の願」「選択称名の願」も示した。
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.141より引用)
【現代語訳】
つつしんで往相の回向をうかがうと、大行があり、大信がある。大行とは、無碍光如来の名号を称えることである。この行は、あらゆる善をおさめ、あらゆる功徳をそなえ、速やかに衆生に功徳を円満させる、真如一実の功徳が満ちみちた海のように広大な法である。だから、大行というのである。ところで、この行は大悲の願(第十七願)より出てきたものである。この願を諸仏称揚の願と名づけ、また諸仏称名の願と名づけ、また諸仏咨嗟の願と名づける。また往相回向の願と名づけることができるし、また選択称名の願とも名づけることができる。
(『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』P.19-20より引用)
このように、聖覚から大きな示唆を受けた親鸞は「第十八願」での「乃至十念」が称名であることの根拠を『仏説無量寿経』そのものに見出した。そして、親鸞独自の「信楽」解釈へと発展していった(仏教知識「三一問答 (1)」など参照)。親鸞によると「行」と「信」はいずれも阿弥陀如来から賜った「大行」「大信」であり、これらは一体となる。
聖覚からの影響は、晩年の『正像末和讃』(仏教知識「和讃」参照)の制作にまで及ぶ。聖覚の「聖覚法印表白文」から「恩徳讃」(コラム「聖覚と親鸞の関係性 後編」参照)が制作され、『唯信鈔』からは次の和讃が制作された。
和讃の元になった『唯信鈔』
仏力無窮なり、罪障深重の身をおもしとせず。仏智無辺なり、散乱放逸のものをもすつることなし。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1349より引用)
これを元に作られた『正像末和讃』「三時讃」
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.606より引用)
【現代語訳】
阿弥陀仏の本願のはたらきはきわまりなく、どれほど深く重い罪もさわりとなることはない。
阿弥陀仏の智慧のはたらきは果てしなく、散り乱れた心で勝手気ままな行いをするものであっても見捨てられることはない。(『浄土真宗聖典 三帖和讃―現代語版―』P.152より引用)
また、親鸞の著作ではないものの『唯信鈔』に大きな影響を受けた書物として唯円が著したとされる『歎異抄』(※2)がある。この書は親鸞没後に門弟たちの中で、親鸞の教えに背く「異義」を説くものが増え、これらの異義を嘆き、糺すために著された。そして、「親鸞による専修念仏の教えをあきらかにする」と「親鸞による専修念仏の教えとは異なる教義への批判」に構成されているところも『唯信鈔』の影響が考えられる。『唯信鈔』は、同じ法然門下でも浄土宗系での影響はあまり見られないが、浄土真宗系では重要な書物とされておりその影響は大きい。これは、親鸞がこれを何度も書写して関東の門弟に送って、聖覚を正しい念仏の教えを勧める「善知識」(仏教知識「善知識」参照)として敬っていたことが大きな要因となっている。
語注
- ※1『唯信鈔文意』
- 一巻。親鸞が著した。『唯信鈔』(聖覚)の注釈書。題号や引用された経釈を注釈した。
- ※2『歎異抄』
- 一巻。親鸞の弟子である唯円が著したとされる。前半に親鸞の法語の聞書き、後半に親鸞の教えとは異なる誤った教えを挙げて嘆き、唯円の考えを述べている。
「前編」に初出のルビは省略(「前編」参照)
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[5] 『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2016年)
[6] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[7] 『聖典セミナー 尊号真像銘文』(白川晴顕 本願寺出版社 2007年)
[8] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[9] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[10] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[11] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)