聖覚と親鸞の関係性 後編 ―親鸞の著作から―
「前編」では、聖覚と親鸞の関係性をさまざまな「伝承」から考えてきたが、この「後編」では親鸞が出した「消息」(手紙)や著作などから年代順に考えていきたい。
親鸞の著作から
ここからは、歴史的事実としての両者の関係性を考えていきたい。そこから見えてくるのは、親鸞の著書などこれらを構成する教学への聖覚からの影響である。まず、聖覚より『唯信鈔』の草本(下書き、原稿)が贈られている。親鸞はこれをたびたび書写して、関東の門弟に「法然聖人の正しい教えが書かれたふみ」として送っていた。また、この『唯信鈔』の註釈書である『唯信鈔文意』も著した。そして、『正像末和讃』(仏教知識「和讃」参照)の制作にも聖覚の影響を受けている。『尊号真像銘文』(親鸞)(※1)には、聖覚の「聖覚法印表白文」(※2)からの引用で次のような言葉があるが、これらが元となり二つの和讃へと転じられている。
(1)
和讃の元になった「聖覚法印表白文」
「誠知無明長夜之大灯炬也何悲智眼闇」
「生死大海之大船筏也豈煩業障重」
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.669-670より)
『正像末和讃』「三時讃」
無明長夜の灯炬なり 智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり 罪障おもしとなげかざれ(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.606より)
【現代語訳】
阿弥陀仏の本願は、無明煩悩の暗く長い闇を照らす大きな灯火である。智慧の眼が暗く閉ざされているといって悲しむことはない。
そのはたらきは迷いの大海を渡す乗りものである。罪のさわりが重いといって嘆くことはない。(『浄土真宗聖典 三帖和讃―現代語版―』P.151より)
(2)
和讃の元になった「聖覚法印表白文」
「倩思教授恩徳 実等弥陀悲願者」
「粉骨可報之摧身可謝之」
(『浄土真宗聖典―註釈版―)』P.670より引用)
『正像末和讃』「三時讃」(いわゆる『恩徳讃』)
如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も ほねをくだきても謝すべし(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.610より引用)
【現代語訳】
わたしたちをお救いくださる阿弥陀仏の大いなる慈悲の恩徳と、教え導いてくださる釈尊や祖師がたの恩徳に、身を粉にしてでも骨を砕いてでも、深く感謝して報いていかなければならない。(『浄土真宗聖典 三帖和讃―現代語版―』P.151より)
これらの歴史的事実の年代をそれぞれ推定していくと、
① 聖覚から『唯信鈔』を贈られる。
これらの書写で、日時がわかり一番時代の古いものが1231(寛喜2)年のものであることから、草本が贈られたのは『唯信鈔』の執筆年の1221~1231年と考えられる。
② 『唯信鈔文意』を著す。
真宗高田派専修寺に残る自筆真蹟本の奥書には「康元二歳正月廿七日愚禿親鸞八十五歳書写之」とあり、1257(康元2)年となる。その他書写本の奥書で一番時代の新しいもので1250(建長2)年となるので、1250~1257年と考えられる。
③ 『正像末和讃』を著す。
夢告讃が1257(康元2)年となるので、1257年前後と考えられる。
このように考えていくと、『唯信鈔』が贈られたのは、親鸞が関東に在住の時であるが、あとは親鸞が京都に帰ってきてからのことである。つまり、聖覚は親鸞の後半生においても非常に大きな影響を及ぼした。
一方で、法然没後に吉水教団が弾圧された「嘉禄の法難」(1227年、親鸞55歳頃)(※3)では、聖覚は弾圧をする側として天台宗を代表して、当時の関白近衛家実に専修念仏の停止を要請したという記録が残されている(仏教知識「聖覚」参照)。親鸞はこの顛末を関東で聞かされているはずであるし、帰洛後にはその詳細を知ったに違いない。ところが聖覚に対する信頼は、親鸞晩年まで続く。
親鸞は、6歳年上の聖覚を正しい念仏の教えを勧める「善知識」(仏教知識「善知識」参照)として敬っていた。関東門弟に宛てた「消息」では、聖覚の『唯信鈔』、隆寛(※4)の『自力他力事』(※5)を読むことを薦めて、この二人を「この世にとりてはよきひとびと」として、
・・・すでに往生をもしておはしますひとびとにて候へば、そのふみどもに書かれて候ふには、なにごともなにごともすぐべくも候はず。法然聖人の御をしえを、よくよく御こころえたるひとびとにておはしますに候ひき。さればこそ、往生もめでたくしておはしまし候へ。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.743より)
「そのふみども」、つまり『唯信鈔』、『自力他力事』に勝るものはないとして、この二人が法然の教えを正しく理解して、浄土往生したことも間違いないと強調する。親鸞が生涯で交流があった人びとで「善知識」と仰いだのは、師である法然、そして聖覚、隆寛の三人である。
聖覚とともに「善知識」と敬った隆寛は、聖覚の加担した「嘉禄の法難」で流罪となった。このことを親鸞がどのように捉えていたのかは不明である。
語注
- ※1『尊号真像銘文』
- 二巻。親鸞が著した。名号(尊号)や祖師らの絵像(真像)にある散文(銘文)を集めて解説をして祖師らを讃嘆したもの。
- ※2「聖覚法印表白文」
- 聖覚がある法要で導師を勤めた際、法然の前で読んだ表白文とされる。また、法然の六七日法要で導師を勤めた時の表白文との説も。
- ※3「嘉禄の法難」
-
1227(嘉禄3)年に法然の吉水教団に加えられた宗教弾圧。隆寛が『選択本願念仏集』の批判書『弾選択』(定照)に反論する『顕選択』を著したのをきっかけに以下の弾圧が始まった。
① 法然の墓堂(墓地にある建物)の破却(壊してなくすこと)
② 隆寛、幸西らを流罪
③ 専修念仏の禁止を通告
④ 在家信者46名の逮捕、住宅破却、追放
⑤ 法然の『選択本願念仏集』を禁書として版木の焼却
- ※4隆寛
- 1148-1227。浄土宗の僧侶。藤原資隆の子。はじめは天台宗に属したが、後に法然の弟子となり法然教団で指導的立場となった。『選択本願念仏集』の批判書『弾選択』(定照)に反論する『顕選択』を著した。これをきっかけに「嘉禄の法難」(1227年)が始まり、流罪となった。著書に『自力他力事』『一念多念分別事』など。浄土宗長楽寺流の祖。
- ※5『自力他力事』
- 一巻。隆寛が著した。『自力他力』ともいう。自力の念仏と他力の念仏の相違を明らかにして、他力の念仏を勧める。
「前編」に初出のルビは省略(「前編」参照)
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[5] 『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』(教学伝道研究センター 本願寺出版社 2004年)
[6] 『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2016年)
[7] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[8] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[9] 『公武権力の変容と仏教界』(平雅行 編 清文堂 2014年)