聖覚と親鸞の関係性 前編 ―「伝承」から―
聖覚は、天台宗の僧侶でありながらも、浄土宗の宗祖法然に帰依して法然の吉水教団では指導的立場にあったとされている。法然没後に法然が説いた専修念仏の教えが歪められていくと、聖覚はこれらの異義を嘆き、糺すために『唯信鈔』(一巻)(1221年)(仏教知識「唯信鈔 前編」、「唯信鈔 後編」参照)を著した。しかし、彼の生涯を見ていくと、決して専修念仏の生き方に徹していたとは言えず、歴史的資料からは、諸行(称名念仏以外の行)に励む姿が浮かび上がってくる。聖覚と浄土真宗の宗祖親鸞との関係性は不明な点が多い。「前編」では、さまざまな「伝承」から考えていきたい。
さまざまな「伝承」から
まずは、聖覚と親鸞の出会いであるが、真宗高田派などに伝わる『親鸞聖人正統伝』(良空)(※1)によると、六角堂に参篭していた親鸞を吉水の法然のもとへと導いたのは聖覚であるとする(1201年か)。
そして、『御伝鈔』(覚如)(※2)の「第六段」「信行両座」によれば、親鸞が法然に許可を得て吉水教団の弟子たち数百人に、「阿弥陀仏の本願を信ずる一念に浄土往生が決定する」(信不退)と信じるのか、「念仏の行をはげむことによって、その功徳により浄土往生が決定する」(行不退)と信じるのかを問いかけたという。
「今日は信不退・行不退の御座を両方にわかたるべきなり、いづれの座につきたまふべしおも、おのおの示したまへ」
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.1049より)
そして、信不退の座を選んだのは、聖覚、信空(※3)、法力(※4)、親鸞のわずかであったが、最後に法然も信不退の座を選んだと伝えられる(1201~1207年か)。(コラム「御伝鈔(上巻)を読んで」参照)
また、『口伝鈔』(覚如)(※5)の「第一条」によれば、宮中で逆修(※6)の法会法要が勤められた際に、法然の吉水教団を陥れるための策謀(はかりごと)がなされたという。天皇がこの法会で「浄土宗は聖道諸宗以外に独立すべきものではない」という説法をするように聖覚に命じたというもので、これを知った法然は、心配をして聖覚に使者を立てて様子を窺いに行かせた。この時の使者が親鸞であるという。聖覚は、親鸞が使者として来たことを知ると、湯殿(風呂)から慌てて出てくると、親鸞が法然の心配を伝えた。そして聖覚は、
「法然聖人のみ教えをおろそかにはしていません。たとえ勅命といえども師法然聖人の命を破ることはできない。聖浄二門を混乱するようなことは申さず、その上、浄土の宗義を申し立てておきました。主命よりも師教を重く思うからです」(取意)
(『聖典セミナー「唯信鈔文意」』P.17より)
として、法然に安心するように伝えて欲しいと応じた。親鸞は吉水に帰り、このことを法然に伝えたとされる(1201~1207年か)。
ここまでに挙げた三つの「伝承」は、初めの六角堂に参篭していたころの話は1201年と考えられるが、後の二つは親鸞が法然の弟子になってから「承元の法難」(※7)で流罪になるまでの間との想定はできるものの、正確な年代は不明である。そもそもこれらの「伝承」は、親鸞の教えを拠り所とする教団がそれぞれ形成されていく中、自らの教団が親鸞の教えを正統に伝えていることを示すためのものである。そして、それぞれの「伝承」が異なる中で共通するのは、親鸞が法然の教えを正しく受け継いでおり、親鸞の教えが正統であるとの立場である。そのためにも他の浄土宗の祖師よりも特に秀でた僧侶であったとすることが要請されて、親鸞の「神格化」が始まる。結果として、その生涯に一部虚構と誇張が散りばめられていった。従って「伝承」に類するものには、歴史的事実とは異なる記載が多く見受けられ、これらを史実的な資料としてすべてを受け入れることはできない。しかし、「伝承」がすべて信用するに足りないと決めてしまうのも誤りであり、「虚構」や「誇張」があってもそこに記された背景を考えることで、当時の様子を知る貴重な資料ともなり得る。ここに挙げた三つの例で共通して考えられることは、聖覚と親鸞の親交が深かったということで、これは後述する親鸞の「消息」や親鸞が『唯信鈔』を書写していたこと、その注釈書である『唯信鈔文意』(仏教知識「唯信鈔文意 (1)」など参照)の執筆などの「歴史的事実」から導き出された「伝承」であるともいえる。また「信行両座」の「伝承」は当時の吉水教団で、浄土往生の因(※8)は「信」か「行」かの争論(議論をたたかわすこと)があったことを示すものと考えられる。
つづく「後編」では、親鸞が出した「消息」(手紙)や著作から年代順に考えていきたい。
語注
- ※1『親鸞聖人正統伝』
- 詳しくは『高田開山親鸞聖人正統伝』(六巻)。真宗高田派の僧侶良空(1669~1733)が編述した。高田派などに伝わる親鸞の伝記・伝承を年代順に構成し、高田派の正統性を明らかにしようとしたもの。
- ※2『御伝鈔』
- 二巻。本願寺3代覚如が親鸞の遺徳を讃えるために制作した絵巻物『親鸞伝絵』(二巻)から詞書部分を抜き出したもの。親鸞の生涯がまとめられているが、一部虚構と誇張が散りばめられている。
- ※3信空
- 1146-1228。法蓮房称弁。藤原行隆の子との説がある。はじめは天台宗に属して叡空に師事していたが、叡空の没後に法然に帰依した。吉水教団の指導的立場にあって、「専修念仏停止」の訴えに対して、法然が吉水教団の言行をただすことを誓った『七箇条起請文』を法然に代わって執筆したとされる。「承元の法難」で流罪となった法然の留守中には教団護持に尽くした。浄土宗白川門徒の祖。
- ※4法力(1141~1208)
- 法力房蓮生。源頼朝に仕えた武士で俗名は熊谷次郎直実。源平の戦いで活躍したが、出家して法然に帰依した。
- ※5『口伝鈔』
- 三巻。本願寺3代覚如の口述を弟子の乗専が筆記したもの。親鸞が如信(親鸞の孫で善鸞の子。本願寺2代とされている)に口述によって伝えたとされる浄土真宗の教義を含む物語を、如信が覚如に口述で伝えたもの。覚如はこれにより、浄土真宗の教えは、法然―親鸞―如信から覚如へと正統に伝えられたものとする「三代伝持の血脈」を主張して、他の法然門下の流れをくむ浄土宗を批判した。
- ※6逆修
- 「あらかじめ」(逆の意味)自らの死後の浄土往生のために、善根功徳を積むこと。預修とも。
- ※7「承元の法難」
- 1207年(建永2)に法然の吉水教団に加えられた宗教弾圧。「健永の法難」とも。延暦寺や興福寺から朝廷に「専修念仏停止」の訴えが繰り返される中、後鳥羽上皇の女房(この場合上皇に仕える女官たち)が吉水教団の法要に上皇に無断で参加したことにより(諸説あり)、上皇が激高(激しく怒る)してこの弾圧が行われた。善綽、性願、住蓮、安楽の4名が死罪。法然、親鸞、幸西、証空ら8名が流罪。ただし、幸西と証空は前天台座主慈円が身柄を預かることで、処刑を免れた。
- ※8浄土往生の因
- 因とは直接的原因のこと。間接的原因を縁とよび、あわせて因縁という。親鸞は衆生の浄土往生の直接的原因として、阿弥陀如来から賜る信心とした(信心正因)。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『真宗新辞典』(法蔵館 1983年)
[4] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[5] 『浄土真宗聖典 三帖和讃(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2016年)
[6] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[7] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[8] 『公武権力の変容と仏教界』(平雅行 編 清文堂 2014年)