聖覚

【せいかく】

聖覚せいかく天台宗てんだいしゅう僧侶そうりょ僧位そうい(※1)とあわせて聖覚法印ほういん(※2)と呼ばれることが多い。

1167年、安居院あぐい流唱導りゅうしょうどう(※3)の澄憲ちょうけん(※4)の子として生まれる。藤原通憲ふじわらのみちのり信西しんぜい)(※5)の孫で、『興福寺奏状こうぶくじそうじょう』(※6)の起草者きそうしゃである貞慶じょうけい(※7)とは従兄弟いとこにあたる。比叡山東塔竹林房ひえいざんとうとうちくりんぼう浄厳せいごん(あるいは、じょうごん)に師事しじした。聖覚は、恵檀二流えだんにりゅう(※8)を相承そうじょう(師から教えを受け継ぐこと)すると、父とともに安居院流の発展に努めて、「濁世じょくせ富楼那ふるな(※9)」(『明月記めいげつき藤原定家ふじわらのていか)「天下の大導師だいどうし・名人」(『尊卑分脈そんぴぶんみゃく洞院公定とういんきんさだ編)と唱導としての名声めいせいを得た。

一方で、浄土宗じょうどしゅう宗祖しゅうそ法然ほうねん(1133~1212)に帰依きえしたとされ(時期は不明)、吉水よしみず(現在の京都市東山区)の法然教団ではその唱導と文才ぶんさいにより高弟こうていの一人と認識されていたという。法然は、自分が往生おうじょうした後に正しく念仏ねんぶつ往生を伝えるものとして、聖覚と隆寛りゅうかん(※10)の二人をげていたとされる。

1204年、比叡山延暦寺えんりゃくじなどによる朝廷ちょうていへのたびかさなる「専修念仏停止せんじゅねんぶつちょうじ」の訴えに対して、法然が吉水教団の言行げんこうをただすことをちかった『七箇条起請文しちかじょうきしょうもん』を提出するが、それでも専修念仏への非難は収まらなかった。そこで法然は、これらの非難をやわらげるために、専修念仏の教えを示しながら、法然教団はその他諸宗しょしゅう共存きょうぞんできるとの内容を比叡山に送った。このもうおくりの書状しょじょう、いわゆる『登山状とざんじょう』を聖覚に執筆しっぴつさせる。これは、安居院流唱導調ちょう美文びぶんとして法語ほうごとしてもすぐれており、『元久法語げんきゅうほうご』とも呼ばれている。

1212年、法然没後ぼつご六七日むなぬか法要には導師どうしつとめた。このことからも、聖覚と法然教団の深い関係性がうかがえる。

法然没後、弟子でしたちの中で法然の教えにそむく「異義いぎ」を説くものが増え、年をるにしたがい、法然が説いた教義は埋没まいぼつしていくこととなる。1221年、聖覚はこれらの異義をなげき、ただすために『唯信鈔ゆいしんしょう』(一巻)(仏教知識「唯信鈔 前編」、「唯信鈔 後編」参照)をあらわした。

1227(嘉禄かろく3)年、「嘉禄の法難ほうなん」と呼ばれる専修念仏への弾圧だんあつが行われた。この弾圧は、

  • ① 法然の墓堂ぼどう(墓地にある建物)の破却はきゃく(壊してなくすこと)
  • ② 隆寛、幸西こうさい(※11)らを流罪るざい
  • ③ 専修念仏の禁止を通告
  • ④ 在家信者46名の逮捕、住宅破却、追放
  • ⑤ 法然の『選択本願念仏集せんじゃくほんがんねんぶつしゅう』(法然)を禁書きんしょとして版木はんぼくの焼却

など厳しい内容であった。この中で、聖覚は天台宗を代表する五名の探題たんだい(※12)の一人として、当時の関白かんぱく近衛このえ家実いえざねに専修念仏のちょうを要請したという記録(『金剛集きんこうしゅう日向にこう編)が残っている。特に在家信者の取締とりしまり(前述④)と『選択本願念仏集』を禁書とすること(前述⑤)は聖覚らの要請によるものだと言われる。法然に帰依して、吉水教団を支えてきたはずの聖覚がこの弾圧に加わっていたとはあまりにも衝撃的でこの記録が「偽作ぎさく」ではないかとの説(松本彦次郎)もあるが、真偽のほどは確定していない。

浄土真宗じょうどしんしゅう宗祖親鸞しゅうそしんらんは、聖覚と親交が深かったといわれている。本願寺ほんがんじ第3代覚如かくにょが著した『御伝鈔ごでんしょう』(上巻)によれば、親鸞は吉水教団で法然の弟子たちに「阿弥陀仏の本願を信ずる一念に浄土往生がけつじょうする」(しん退たい)と信じるのか、「念仏の行をはげむことによって、その功徳により浄土往生が決定する」(ぎょう退たい)と信じるのかを問いかけたという(コラム「御伝鈔(上巻)を読んで」参照)。いわゆるこの「信行両座しんぎょうりょうざ」の際に、聖覚は法然や親鸞らとともに信不退のについたという。親鸞は、聖覚を正しい念仏の教えを勧める「善知識ぜんぢしき」(仏教知識「善知識」参照)としてうやまっており、その親交の深さは聖覚から『唯信鈔』の草本そうほん(下書き、原稿)をおくられたことからもうかがえる。親鸞はこれをたびたび書写しょしゃして、関東の門弟もんていに「法然聖人の正しい教えが書かれたふみ」として送っていたことがわかっている。また、この『唯信鈔』の註釈書ちゅうしゃくしょである『唯信鈔文意ゆいしんしょうもんいも著した。驚くことに、親鸞が関東の門弟に『唯信鈔』の書写や手紙を送ったのは京都に帰ってからとなるので、「嘉禄の法難」以降も聖覚に対する信頼は変わらなかったということになる。

1235年、聖覚がぼっすると中陰法要ちゅういんほうようは、聖覚の遺言ゆいごんにより、「密教儀礼みっきょうぎれい」(※13)でおこなわれたとの記録が残る。これは、聖覚が延暦寺で「最勝講さいしょうこう」(※14)などの證義しょうぎ(※15)を何度もつとめるなど、学僧がくそうとしてトップの地位に昇進して、天台宗の僧侶という立場のまま没したことを表している。

歴史学者の平雅行は、聖覚を天台宗のエリート学僧として、天台教学での「聖覚派」がめる割合は多数だったとして、

私たちはこれまで浄土教家としての聖覚に着目してきたが、彼は延暦寺の天台教学の第一人者であり、鎌倉前期の顕密仏教を代表する学僧であった。

(『公武権力の変容と仏教界』P.318-319より)

と天台教学のトップであり念仏以外の諸行しょぎょうを勤めるなど、聖覚自身「念仏三昧ざんまいの生活を送っていたのではない」とする。そして、

聖覚の事績全体から見れば、『唯信鈔』は例外的な存在である。

(『公武権力の変容と仏教界』P.319より引用)

としている。

それでも、親鸞がなぜ信頼し敬ったのか、聖覚と法然教団や親鸞との関係性は、不明な点が多い。

語注

※1僧位
官人かんじん官吏かんり)の制度に準じて制定された僧侶の位階いかい。時代によって異なる。1873年廃止。
※2法印
法印大和尚位ほういんだいかしょういの略。法眼ほうげんの上の僧位。
※3安居院流唱導
澄憲を祖とする天台宗の唱導の流派りゅうは。唱導とは、たくみな法話ほうわぶつの教えをかして、人びとを仏教に引き込もうとする布教活動ふきょうかつどう儀式ぎしきで、各流派によって、その方法が定められていた。
※4澄憲(1126~1203)
天台宗の僧侶。父は藤原通憲(信西)。天台座主ざす明雲みょううん伊豆配流いずはいるに付き添い、その際明雲から教えをさずけられたという。後に妻帯さいたい(妻がいること)して安居院の里坊さとぼうに住んだ。安居院流唱導の始祖しそでその唱導は名人といわれた。浄土教学じょうどきょうがくにも明るかったとされる。
※5藤原通憲(信西)(1106~1160)
学者で官吏。父は藤原実兼さねかね。出家して信西と名乗るがその後も政治に関わり、後白河上皇ごしらかわじょうこう側近そっきんとして権勢けんせいをふるった。平治へいじらんで殺される(自害とも)。
※6『興福寺奏状』
1205年興福寺より提出された念仏停止を求める奏状。9条からなり、吉水の法然教団やその教えは、これまでの仏教や朝廷の秩序ちつじょみだすものであるとした。翌年から吉水教団への弾圧が始まる。
※7貞慶(1155~1213)
法相宗ほっそうしゅうの僧侶。藤原貞憲さだのりの子。『興福寺奏状』の起草者。
※8恵檀二流
天台教学の授受じゅじゅ伝承でんしょうの二流派。天台座主良源りょうげんが二人の弟子に教えをたくしたのが始まり。恵心院えしんいん源信げんしん真宗七高僧しんしゅうしちこうそうの一人)へ伝えたものを「恵心流えしんりゅう」、檀那院覚運だんないんかくうんに伝えたものを「檀那流だんなりゅう」と呼ぶ。
※9「濁世富楼那」
富楼那は釈尊の十大弟子じゅうだいでしの一人。伝道に力を発揮はっきし、弟子の中でもっとも巧みな説法をすることで「説法第一せっぽうだいいち」とたたえられた。藤原定家は聖覚の巧みな説法を富楼那ふるな(仏教知識「富楼那(プールナ・マイトラーヤニープトラ)」参照)にたとえて、末法まっぽうの「濁世」(けがれた時代)にあらわれた富楼那のようだと聖覚をたたえた。
※10隆寛(1148~1227)
浄土宗の僧侶。藤原資隆すけたかの子。はじめは天台宗に属したが、後に法然の弟子となり法然教団で指導的立場となった。『選択本願念仏集』の批判書『弾選択だんせんじゃく』(定照じょうしょう)に反論する『顕選択けんせんじゃく』を著した。これをきっかけに「嘉禄の法難」(1227年)が始まり、流罪となった。著書に『自力他力事じりきたりきのこと』『一念多念分別事いちねんたねんふんべつのこと』など。浄土宗長楽寺流ちょうらくじりゅうの祖。
※11幸西こうさい(1163~1247)
浄土宗の僧侶。はじめは天台宗に属したが、後に法然の弟子となる。「承元じょうげん法難ほうなん」(建永けんえいの法難)(1207年)で流罪と決定されたが、元天台座主の慈円じえん身柄みがらを預かることでこれをまぬがれたという。しかし「嘉禄の法難」(1227年)で再び流罪となった。
※12探題
法会ほうえ(法要)で僧侶が自己の見解を立てて、それに対する質疑に答える「竪義りゅうぎ」での最高の職位。天台教学の最高権威者。
※13密教儀礼
密教とは大乗仏教だいじょうぶっきょうの中の秘密ひみつの教え。日本では、真言宗しんごんしゅうの宗祖空海くうかいや天台宗の宗祖最澄さいちょうが中国よりもたらした。真言宗で行われた密教を東密とうみつ、天台宗での密教を台密たいみつとよぶ。これに対して秘密ではなく明らかに説かれた教えとして、「東密」「台密」以外を顕教けんぎょうとよぶ。したがって、密教儀礼とは、この密教の教えにのっとった法要形式ほうようけいしき
※14最勝講
金光明最勝王経こんこうみょうさいしょうおうきょう』を講讃こうさん(経典の意味・内容を講義して経典を讃える)して国家平安こっかへいあんを祈る法会。学僧は、この法会に参加することによって僧位を上げることにつながった。
※15證義
「竪義」での僧侶の解答に、可否の判定をする学僧。証誠しょうじょうともいう。

参考文献

[1] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[6] 『公武権力の変容と仏教界』(平雅行 編 清文堂 2014年)
[7] 『法然上人絵伝(下)』(大橋俊雄 校注 岩波書店 2002年)

関連記事

法然
法然(1133~1212)法然房源空。浄土宗の開祖。 美作国みまさかのくに久米(現在の岡山県)に生まれる。 9歳の時、父の死により菩提寺に入寺。15歳(13歳とも)に比叡山に登り、 源光・皇円に師事し天台教学を学んだが、1150年、黒谷に隠棲していた叡空をたずねて弟子となる。 1175年、黒谷の経蔵で善導の『観経疏かんぎょうしょ』の一文により専修念仏に帰した。 まもなく比叡山を下って東山吉水に移り、専修念仏の教えをひろめた。 念仏を禁止とする承元(じょうげん)法難(ほうなん)により、1207年に土佐国に流罪(実際は讃岐国に)となる。 著書に『選択本願念仏集』があり、弟子である浄土真宗の開祖・親鸞にも大きな影響を与えた。 真宗七高僧第七祖。
親鸞
浄土真宗の宗祖。鎌倉時代の僧侶。浄土宗の宗祖である法然の弟子。
唯信鈔 前編
はじめに 『唯信鈔(ゆいしんしょう)』(一巻)とは、天台宗(てんだいしゅう)の僧侶(そうりょ)である聖覚(せいかく)(1167~1235)が、経典(きょうて......
唯信鈔 後編
親鸞への影響 まず、『唯信鈔』の聖覚自筆本は現在見つかっていないが、この書を現代の私たちが知ることができるのは、親鸞の書写本によるものである。これは、聖覚か......
聖覚と親鸞の関係性 前編 ―「伝承」から―
聖覚(せいかく)は、天台宗(てんだいしゅう)の僧侶(そうりょ)でありながらも、浄土宗(じょうどしゅう)の宗祖法然(しゅうそほうねん)に帰依(きえ)して法然の吉水......
聖覚と親鸞の関係性 後編 ―親鸞の著作から―
「前編」では、聖覚と親鸞の関係性をさまざまな「伝承」から考えてきたが、この「後編」では親鸞が出した「消息(しょうそく)」(手紙)や著作などから年代順に考えていき......