唯信鈔文意 (7)
ここからは、「極楽無為涅槃界」以下四句の釈の四句目を解説する。
四句目 教念弥陀専復専
「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊の教勅なり。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこころなり。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたといふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふたごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。この一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつる」と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」とのたまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心なり。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性なり、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶなり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひとをば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。この信心をえがたきことを、『経』(称讃浄土経)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。この文のこころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにすぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。さて、この智慧の名号を濁悪の衆生にあたへたまふとのたまへり。十方諸仏の証誠、恒沙如来の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるなりとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.711-713より)
【親鸞の語句註釈】
- 教 → をしふ・のり・釈尊の教勅
- 念 → 心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこころ
- 教念 → 選択本願の名号を一向専修なれてをしへたまふ御こと
- 専(前) → 一行・一つといふことば・ふたごころなかれ・うつるこころなき
- 復 → また・かさぬ
- 専(後) → 一心・一つといふことば・ふたごころなかれ・うつるこころなき
- 一心 → 横超の信心
- 横 → よこさま
- 超 → こえて
- 金剛心 → 『大経』の本願の三信心
- 真実信心 → 願作仏心
- 願作仏心 → 度衆生心
- 度衆生心 → 大菩提心・大慈悲心・仏性・如来
- 願作仏心 → 度衆生心
- 慶 → 信心をえてのちによろこぶ
- 喜 → うべきことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころ
- 信心をえたる人 → 分陀利華(観経)
- 釈迦 → 慈父
- 弥陀 → 悲母
〈現代語訳〉
「教念弥陀専復専」というのは、「教」は「おしえる」ということであり、「のり」ということであって、すなわち釈尊の仰せということである。「念」は思いが定まって、あれこれとはからうことのない心のことである。すなわち選択本願の名号を、ただひたすらにもっぱら称えよと教えてくださるお言葉である。「専復専」というのは、はじめの「専」は念仏一行を修めよというのである。「復」は「また」ということであり、重ねるということである。そこで、重ねて「専」というのは、一心に修めよというのである。すなわち念仏一行を一心に修めることを、もっぱらにせよというのである。「専」は一つという意味の言葉である。「もっぱら」というのは、二心のないようにせよというのである。あれこれと心が移らないことを「専」というのである。このように念仏一行を一心に修める人を、「摂め取って決してお捨てになることがないから、阿弥陀とお名づけするのである」と、善導大師は『往生礼讃』にいわれている。
この一心とは横超の信心のことである。「横」は「よこざまに」ということであり、「超」は「こえて」ということである。念仏はあらゆる教えよりもすぐれていて、速やかにはやく迷いの海を超えて仏のさとりに至ることができるから、「超」というのである。このことはすなわち大悲の誓願のはたらきによるからである。この信心は、必ず摂め取るという本願のはたらきによるから、金剛心となるのである。これは『無量寿経』の本願に誓われている至心・信楽・欲生の信心である。この真実の信心を世親菩薩は「願作仏心」といわれている。この信心は、仏になろうと願うという心なのである。この願作仏心はすなわち度衆生心である。この度衆生心というのは、すべてのものを本願の船に乗せて迷いの大海を渡らせようとする心である。この信心は、すべてのものをこの上ないさとりに至らせる心である。この心はすなわち大いなる菩提心であり、大いなる慈悲の心である。この信心はすなわち仏性であり、また如来のはたらきそのものである。この信心を得ることを「慶喜」というのである。慶喜する人を諸仏と等しい人という。「慶」は「よろこぶ」ということである。信心をすでに得てよろこぶのである。「喜」は心のうちによろこびが絶えることなくいつもあることをいう。得なければならないことをすでに得て、身にも心にもよろこぶという意味である。信心を得た人を、『観無量寿経』には「分陀利華」と説かれている。この信心を得るのが難しいということを、『称讃浄土経』には「極難信法」と説かれている。そのようなわけで『無量寿経』には、「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難(もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん)」と教えてくださっている。この文の意味は、「この教えを聞いて信じることははなはだ難しいことであって、これより難しいことは他にない」ということであり、釈尊が仰せになったお言葉である。これは釈尊が、さまざまな濁りと悪に満ちた世界にお出ましになり、わたしたちにはとても信じられないほどすぐれた念仏の行によって、人々がこの上ないさとりに至ることをお説きになったのである。
そして、この智慧の名号を濁りと悪に満ちた世界の人々にお与えになると説かれている。すべての世界の仏がたが真実であると証明されるのも、数限りない仏がたがお護りくださるのも、ただひとえに真実信心の人のためである。釈尊は慈しみあふれる父であり、阿弥陀仏はあわれみ深い母である。そのわたしたちの父・母は、自力にとらわれるものを真実に導くさまざまな手だてを施して、この上ない他力の信心を開きおこしてくださったのだと心得なさいということである。その手だてによって、はかり知ることのできない過去から、次々と世にお出ましになった数限りない仏がたのもとでわたしたちは自力の菩提心をおこし、数限りない善を修めてきて、今、阿弥陀仏の本願のはたらきに出会うことができたのである。至心・信楽・欲生と本願に誓われている他力の信心を得た人は、決して念仏以外の善を謗ったり、阿弥陀仏以外の仏や菩薩を軽んじたりすることがあってはならないということである。
(『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』P.25-30より)
四句目は、まずは「教念弥陀専復専」の字句について解説をする。釈尊が私たちに「教」えてくださったのは、選択本願の名号をただひたすらにもっぱら称えよとのことであると示す。この「ただひたすらにもっぱら称えよ」とは、はじめの「専」が一行であり、後の「専」が一心であり、この一心は他力の一心であるとする。すなわち一行一心の念仏の衆生が、阿弥陀如来の「摂取不捨」の利益にあずかることであり、このことは善導が『往生礼讃』で記されていると解説する。
次に、先ほどの一心について七つの徳を挙げて詳しく解説をして、他力の信心である一心を讃嘆する。
七つの徳
関係する経典や聖教をそれぞれ下に引用する。
① 横超の信心 阿弥陀如来の本願力によって往生してさとりを開く信心
『顕浄土真実教行証文類』「信巻」
…念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。…
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.264より)
② 金剛心 阿弥陀如来の本願を信じる心
『顕浄土真実教行証文類』「信巻」
…「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.244より)
③ 菩提心 他力による菩提心
『往生論註』「巻下」(善導)
…この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.144より引用)
④ 信心仏性 阿弥陀如来の大慈・大悲による信心
『顕浄土真実教行証文類』「信巻」
…大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。…
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.236より)
⑤ 慶喜 すでに実現している往生の身に定まっていること(現生正定聚)をよろこぶこと。
『顕浄土真実教行証文類』「信巻」
『華厳経』(入法界品・晋訳)にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。如来と等し」となり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.237より)
⑥ 分陀利華 阿弥陀如来の信心を得た念仏の行者を讃嘆する言葉
『仏説観無量寿経』
…もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。…
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.117より)
⑦ 極難信法 極めて信じがたい法(教え)
『仏説無量寿経』「流通分」
…もしこの経を聞きて信楽受持することは、難のなかの難、これに過ぎたる難はなけん…
(『浄土真宗聖典 -註釈版-』P.82より)
最後にこれらの他力の信心が衆生に与えられたいきさつを解説する。釈尊と阿弥陀如来、多くの諸仏のはたらきにより、「至心」「信楽」「欲生」と本願に誓われる他力の信心を得ることができたのであるとする。ただし、念仏以外の善を謗ることや、阿弥陀如来以外の仏や諸仏を軽んじたりすることがあってはならないとの誡めも忘れない。
次の (8) では、『仏説観無量寿経』の「具三心者必生彼国」と『往生礼讃』の「不得外現賢善精進之相」、『五会法事讃』の「不簡破戒罪根深」について解説する。
参考文献
[2] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)
[3] 『浄土真宗聖典 -註釈版-』(本願寺出版社 1988年)
[4] 『聖典セミナー 唯信鈔文意』(普賢晃壽 本願寺出版社 2018年)
[5] 『"このことひとつ"という歩み―唯信鈔に聞く―』(宮城顗 法蔵館 2019年)
[6] 『『唯信鈔』講義』(安冨信哉 大法輪閣 2007年)
[7] 『唯信鈔文意講義』(田代俊孝 法蔵館 2012年)
[8] 『浄土真宗聖典 顕浄土真実教行証文類(現代語版)』(本願寺出版社 2000年)
[9] 『浄土真宗聖典 唯信鈔文意(現代語版)』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2003年)
[10] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)