他力
概要
簡単にいうと、浄土真宗における他力とは阿弥陀仏の救いの力である。他力に対する語として自力があり、こちらは人の力をいう。
『岩波 仏教辞典 第二版』によれば
一般には仏・菩薩による加被力,加護をさす.
(『岩波 仏教辞典 第二版』P.689より)
とあるが、宗派によってその定義は異なっている。ここでは浄土真宗における他力について解説する。
天親の「不可思議力」
他力という語が出てきた背景には、まず真宗七高僧第二祖の天親菩薩が著した『浄土論』がある。天親は『浄土論』の中で
いかんがかの仏国土の荘厳功徳を観察する。 かの仏国土の荘厳功徳は不可思議力を成就せるがゆゑなり。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.33より)
と述べた。ここでは、阿弥陀仏の仏国土(浄土)には信心をめぐみ与えて往生成仏させるはたらきがあるということをいっている。このはたらきのことを天親は「不可思議力」と表現した。
仏がそなえるはたらきとその浄土がそなえるはたらきとは同じであるから、浄土だけでなく阿弥陀仏のはたらきについても同じことがいえる。
五念門行
また『浄土論』には浄土の功徳を身につけていくための行として五念門行が説かれている。五念門行を修めることにより浄土に往生し、五種の功徳(五果門)を得るといわれている。これができるのは浄土の功徳、すなわち不可思議力があるからである。
曇鸞の「他力」「本願力」
難行道・易行道と自力・他力
天親のいった不可思議力を、真宗七高僧第三祖の曇鸞大師は他力や本願力という語を用いて詳しく解説していった。他力という語は曇鸞の『往生論註』(『浄土論』の註釈書)の中で用いられる。
曇鸞は『往生論註』「上巻」の冒頭で真宗七高僧第一祖の龍樹が『十住毘婆娑論』で述べた「難行道」「易行道」について説明しており、その中で難行道について
五にはただこれ自力にして他力の持つなし。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.47より)
と述べられる。これは、難行道が難しいといわれる理由の一つとして「阿弥陀仏のはたらきによらないで自力の修行によるからだ」ということである。続けて易行道について
仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.47より)
と述べられる。仏願力によって浄土へと生まれさせていただき、浄土に生まれた後には仏力によって阿毘跋致(さとりをひらくことが約束され、その位から退転することがない状態)に入るといわれている。このことから曇鸞は難行道を自力、易行道を他力と表現されたことがわかる。
用語の微妙な意味の違い
なおここでは「仏願力」「仏力」という語が使われているが、どちらも他力と同様に阿弥陀仏のはたらきを表す語である。同じものをさしているが「仏願力」や「本願力」といった場合には「因位のすがたである法蔵菩薩の願い(本願)の通りのはたらき」という側面に着目した表現になり、また「仏力」や「他力」といった場合には「果位のすがたである阿弥陀仏のはたらき」という側面に着目した表現になる。
法蔵菩薩が本願を建て、兆載永劫(計り知れない年月)の修行に励んでその願を成就し、さとりをひらいたすがたが阿弥陀仏である。だからどちらの言い方をしても結局は阿弥陀仏のはたらきを表しているが、どちらを軸にするかという点で表現が異なっている。
三願的証
この他力の内容を曇鸞は『往生論註』「下巻」の末尾にある覈求其本釈(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.155-P.157)で詳しく述べた。
ここに書かれている内容を大まかに述べると、「『浄土論』には五念門行を修めて速やかにさとりをひらくことができることが書かれている。それは、阿弥陀如来を増上縁となす(阿弥陀仏のすぐれた力がある)からである。衆生が浄土に往生することも、往生した後にさまざまなはたらきをすることも、すべて阿弥陀如来の本願力によるものである。もしこれらが本願力によるものでないならば、四十八願はいたずらに設けられたことになる。四十八願の中でも衆生の往生成仏に関わる重要な願を三つ挙げてこのことを証明する。」となる。
そして、ここに続く部分で三つの願、すなわち第十八願(至心信楽の願)・第十一願(必至滅度の願)・第二十二願(還相回向の願)を挙げて本願力の内容を証明した。このことを三願的証という。
- 第十八願力によって往生の因である十念の念仏が成就せしめられる。これにより浄土往生できる。
- 第十一願力によって往生した後に正定聚(さとりをひらくことが約束され、その位から退転することがない状態)に入る。
- 第二十二願力によってこの正定聚の菩薩は諸地の階位を超越して一生補処(次の生涯には仏になることができる位)に至らしめられ普賢の行を修める。つまり一切衆生を救済し浄土往生させる利他の行を実践する。
このようにして、如来の本願力によるから五念門行によって速やかにさとりを得るということを述べた。つまり五念門行を他力の行として解釈し、凡夫が阿弥陀仏の浄土へと往生できることを示した。そして「他力を増上縁となす。」(他力とは阿弥陀仏のすぐれた力のことをいう)といい、「他力の乗ずべきことを聞きて、まさに信心を生ずべし。」と、他力の道を勧めた。
以上のように『往生論註』には冒頭と末尾に他力に関する内容が記されており、全体として他力を顕した書とされている。
自力と他力
もともとは自力の修行はすぐれていて、他力の修行は劣っているとみなされていた。そこへ曇鸞は仏・菩薩による加被力とされていた他力を阿弥陀仏の本願力と定義し、他力による救いを勧めた。これにより曇鸞は自力と他力の地位を逆転させ、他力を優位に置いたといえる。
宗祖親鸞の他力、本願力回向
宗祖親鸞は曇鸞の教えに基づいて『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の中で「他力といふは如来の本願力なり。」(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』 P.190より)と述べた。
曇鸞の「他利利他の釈」
曇鸞は『往生論註』の覈求其本釈の中で「他利」と「利他」という語について解説している(他利利他の釈)。ここでは阿弥陀仏の救いのはたらきについて、
- 衆生の側からいえば他利
(他利自(他が自を利す)の略) - 仏の側からいえば利他
(自利他(自が他を利す)の略)
ということをいった。続けて
いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をもってこれをいふ。
(『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』P.155より)
といい、覈求其本釈では利他について論じているということを示した。そしてこの覈求其本釈の最後で「他力」といっているので、他力とは「利他力」、つまり阿弥陀仏が他なる衆生を利益する力(本願力)を意味していることになる。
利他
親鸞はこの他利利他の釈を「他利利他の深義」といっている(『教行信証』「証文類」(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.335)、『浄土文類聚鈔』(同じくP.484)などにみられる)。また、この釈を承けて「他力」のことを「利他」という言葉で表現している。『浄土文類聚鈔』に
行といふは、すなはち利他円満の大行なり。
浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。
証といふは、すなはち利他円満の妙果なり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』それぞれP.478, P.480, P.481より)
とあるが、いずれの「利他」も「他力」をいいかえたものである。このようにして真実の行・信・証(さとり)を利他という言葉で表すことにより、それらが阿弥陀仏の本願力によって回向されたものであるということを示した。同時に、他力とは阿弥陀仏の本願力回向のことをいうと示した。
このようにして親鸞は曇鸞の他力義を他力回向義(本願力回向)へと展開した。
往相回向と還相回向
また親鸞は『教行信証』「教文類」冒頭で阿弥陀如来から衆生への本願力回向について往相・還相の二種があるといった。
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。 一つには往相、二つには還相なり。 往相の回向について真実の教行信証あり。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.135より)
そして「行文類」の「正信念仏偈」の中で往相も還相も他力の回向であることが曇鸞により示されたと述べている。
往還の回向は他力による。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.206より)
往相も還相も他力の回向であると示された。
(『顕浄土真実教行証文類(上) 現代語訳付き』P.259より)
自力でなく、他力によってすくわれる教え
親鸞は9歳で出家し、天台宗の僧侶として比叡山で20年間に渡って修行していたといわれている。そして29歳のときに自力修行によってすくわれる道を離れ、他力念仏によってすくわれる法然の教えを選び取ったといわれる。
このことに関連し『歎異抄』(第二条)では親鸞が自身のことを「自力の修行を満足に修めることのできないわたし」と表現している。
以下に示すように、第二条では「修行を修めることができず、もとより地獄へ堕ちるしかない身である。だから、ただ法然聖人の他力念仏の教えを信じるのみである。たとえ法然聖人に騙されて念仏したために地獄へと堕ちたとしても決して後悔はしない。」ということが述べられている。
そのゆゑは、自余の行もはげみて仏に成るべかりける身が、 念仏を申して地獄にもおちて候はばこそ、すかされたてまつりてといふ後悔も候はめ。 いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし。
(『浄土真宗聖典 -註釈版 第二版-』P.833より)
なぜなら、他の行に励むことで仏になれたはずのわたしが、 それをしないで念仏したために地獄へ堕ちたというのなら、 だまされたという後悔もあるでしょうが、 どのような行も満足に修めることのできないわたしには、 どうしても地獄以外に住み家はないからです。
(『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』P.6より)
参考文献
[2] 『浄土真宗聖典 七祖篇 -註釈版-』(浄土真宗教学研究所 浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1996年)
[3] 『顕浄土真実教行証文類(上) 現代語訳付き』(本願寺出版社 2011年)
[4] 『浄土真宗聖典 歎異抄(現代語版)』(浄土真宗聖典編纂委員会 本願寺出版社 1998年)
[5] 『親鸞聖人の教え・問答集』(梯 實圓 大法輪閣 2010年)
[6] 『岩波 仏教辞典 第二版』(岩波書店 2002年)
[7] 『浄土真宗辞典』(浄土真宗本願寺派総合研究所 本願寺出版社 2013年)